第46 -潤一14


「これは責任問題だと思うのだけど、潤一はどう思う?」


「…」


「綾香さんはどうかしら?」


「わ、わたしはっ、潤一さんに、責任は、ないかと…」



 そう言った綾香さんを見上げると、一枚の紙を両手で持ち上げて顔を隠していた。


 婚姻届だった。



「あら、用意がいいわね」


「…え? あ! こ、これは今奥さまが──」


「あなたは黙ってなさい。だそうだけど、潤一、とりあえず何か申し開きはあるかしら?」



 申し開きも何も、激動過ぎて混乱しているのだけど…


 母はまだ少なくとも5日は帰ってこないはずで、僕も昨日の海のせいもあってか、とても眠たかったのだけど、一気に目が覚めた。


 ウォールナットの優しい木目のテーブルに、その現場写真は強烈過ぎた。


 責任問題は雇用主としてはその通りかもしれないけど、それよりドラマなどで見たことのある浮気バレとか不倫バレとかの雰囲気で、それに一切関わっていない僕が、何故かその当事者みたいに扱われているような気がして恐ろしく、だからか頭が働かない。


 しかも今の今まで、やはり夢の中だと思っていたことが、どうやら夢ではなかったと確定してしまったのだけど、彼女は顔を隠していて、気まずさは助かってはいるけど、どこか変だ。


 よく見れば母の表情が、どこか怒っている、というより早く済ませたいみたいな雰囲気で、やはりどこかチグハグとしていておかしい。


 とはいえ、とりあえずこんな写真が何故あるのかを聞いてみた。



「監視カメラよ」


「なんだって…?」



 どうやら我が家には監視カメラがあったらしい。


 そんなこと初めて知ったのだけど…。


 いや、アングル的にそうだろうけど、なぜそんなものが家の中に…。


 その監視カメラの理由を聞けば、父が浮気した瞬間を押さえるためのものだったらしい。



「…」



 余計気まずくなってしまったじゃないか…。


 と、とりあえず、まずは謝ろう……いや…これは…逆に失礼というか、女性に恥をかかせてしまうのではないだろうか…。


 かと言っていきなり結婚も違うと思う。


 こういった時のマニュアルなど知らないのだけど…。


 すると、チラチラと婚姻届越しに僕を見ていた綾香さんは、意を決したようにして一呼吸し、その用紙をテーブルに置いた。



「あ、あの奥さま! 潤一さんも困惑しています、し、まずは交際というか…お試し期間というのは…どうでしょうか…?」


「あなた達、避妊したの?」


「そ、それはそのぉ…」


「お試せてないじゃない」


「…」



 なんだその日本語は…いや、そうじゃなくて避妊は別にお試しのジャッジではないと思う。



「あの、潤一さんは悪くなくて、わたしが──」


「おだまりなさい。今は私の話が先よ」


「はい…」



 だめだ。


 いい歳して情け無いけど、この状態の母に勝てる気がしない。


 と言うのも、これはおそらく美英無双だ。


 僕自身、直接は見たことはないけど、社内で社長に次ぐ高い地位にいて、発言力なら社長も凌ぐという、母、宮田美英みやた みえいが上に上り詰めるまでよくやっていたという伝説のアレだ。


 全て細かく下準備した上で交渉相手を手のひらで転がしながら気力を奪い、黙らせる母の手口の一端だ。


 と言っても母のすごいところはその交渉相手に損をさせないところだ。だからこそ社内では尊敬されていたし、僕は助かってきたし、いい暮らしをさせてもらってきた。


 だけどやり方的に納得がいかないからと、魔女と呼ばれてきたそうで、母はすごくそれを嫌がっていた。


 流石に仕事とは違うだろうけど、対峙するとこんなにも恐ろしいのか。


 いや…ああ、お酒が入っていたというのはどうだろうか。事実酔っていたしおそらく彼女もそうだろう。


 

「潤一、一夜の過ちは通用しないわよ。あなたも綾香さんもお酒なんてほとんど呑んでないでしょう?」



 そう言って日付付きの写真をウイスキーとともに見せてくる。


 確かに僕の好きなアイラモルトは少ししか減って…いない…? そんな馬鹿な…。


 いや、それより何故そんな写真が…。



「ああ、それに雇用契約書には書いてあるのよ。難しくこねくり回した言い回しなのだけど、簡単に言えば手を出したら即結婚、って書いていたの。小さく」


「えっ?」



 綾香さんは驚いていた。


 僕もだ。


 それはそうだろう。どんな雇用契約書だ。法的に作成義務は無いとはいえ、そんなものは違法だろうし、そもそも人権無視というか…


 …ジンケン…? 


 いやそれよりだ。



「それは駄目だろう。というよりコンプラ…は僕が言えた話じゃないけど、綾香さんの気持ちを無視するだなんて倫理的にも道義的にもましてや──ってああっ!? 母さん! そんな写真をピラピラしないでくれ!」



 二人で絡み合ってる写真を母にピラピラされるなんてキツいだろう!



「だってあなた、詐病使おうと思えば使えるじゃない。記憶にございませんって。昔の政治家みたいに。まあ、今もいるけど」


「そんなことしないよ…」


「冗談よ。それにこういう場合はね、女に恥をかかせるものじゃないの」



 いや、その写真が今まさに恥をかかせてると思うのだけど…



「綾香さん、あなた潤一のことは?」


「長年…お慕い、しております…」


「…え…」



 そう、なのか…? でもこれ、言わされてるんじゃないだろうか…ん? 彼女も健忘だと言ってなかったか…? あれ? どの記憶だ?



「ほらみなさい。潤一も満更ではないのでしょう?」



 矢継ぎ早だし強引だな…。


 これが魔女美英の剛腕か…いや違うか。


 ただの無茶苦茶だ。


 まあ…満更ではないのはそうだけど…もう少し育むとかあるだろう。そもそも恋すらしたことなどないし、まだ彼女の人となりをそこまで知らないし、それに僕のハンディキャップだって…。


 そんなこと知れば、きっと離れていくだろうし…。


 それに何より好きだなんて感情も、仕分けしたいというか、大事にしたいというか…。



「うだうだと考えてないで、そんなことは後で考えればいいのよ」


「…だから離婚したんだろうに」


「何か、言ったかしら…?」


「い、いや、何でもないデス…」



 母怖えぇ…。


 ん…? 綾香さん、小さく震えてる…?


 そうか…そうだよな。


 彼女からすれば、結構な勇気がこの場では必要なんだろう。


 でも……さっきから頭の後ろの方で何か音が鳴っている気がしてならない。


 チリチリとした導火線のような、シャラシャラと鎖を引きずるような、あるいは、広大な海がズォォと引いていくような音が鳴っている気がする。


 それが破滅を呼んでいる。


 灰色の大きな波が追いかけてくる。


 追いつかれれば、きっと僕は飲み込まれて終わるんだろう。


 そんな確信がどこかあった。


 だけど、昨日海で見た楽しそうな彼女の顔がよぎる。


 貝殻を拾い集めながら、一つ一つにはしゃぐ姿がよぎる。


 何故かはわからないけど、彼女の悲しい顔は見たくはないと切に思った。


 だから僕は、またいつものように、前に逃げるしかないのだろう。


 そうして僕は、首飾りを手に持った。


 やっぱり作って欲しいと言われて、その言動を不思議に思いながらも創った、首飾りだった。



「…綾香さん、こんな情け無い男ですが、どうか僕と結婚してください」



 それを差し出し、そう言って僕は床に這いつくばったまま、頭を下げた。


 図らずとも土下座みたいになってしまったと、頭を下げながら気づいた。


 まあこんなおじさんが、こんな別嬪さんに結婚を乞うのだし、それに記憶にないとはいえ、致してしまったのだ。


 指輪もなく、母に頼りきりなプロポーズで、あまりにも情け無く、格好は良くないけれど、あまり間違えてはいないか…。


 すると、手のひらに彼女の指が小さく乗った。


 どうやら彼女は、この首飾りを受け取ってくれたようだ。


 でも…何か…様子が…変だな…? 



「ッッ…!! は、ははははいぃぃッ! ふ不つ束者ですがっ! 謹んでお受けもうすましゅ、んぎゅ…」



 見上げた彼女は、白い肌を紅潮させ、何故か身体を掻き抱きガクガクと大きく震えながら答えていた。


 それは喜色に溢れているようだけれど、でもどこか不気味で、ゾクゾクとしたようなその見開いた瞳がまあまあ怖いのは何故だろうか。


 嬉しいのだとは伝わるけれど、何か思っていたのと違う感というか…。



「…早まったかしら…」



 そして母にしては珍しく、後悔を口にしていた。


 こうして僕と綾香さんは、母によってお付き合いをすっ飛ばし、結婚することになったのだった。


 しかし、何か重大なことを忘れているような気がするのは気のせいだろうか…。

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