第45 -潤一13
始まりはいつも唐突に起きていて、気づけば取り返しのつかないところにあった。
それが僕の歩んできた人生と言っても過言では無いだろう。
海に落ちて助けられたこと。病院で救われたこと。記憶を失くしたこと。何かわからない悲しい気持ちを抱えたこと。悪夢の中で何度も何度も心を振り回されたこと。
そんな自分に自暴自棄になったこと。
でも情け無い僕を奮い立たせてくれたのは、いつも母だった。
記憶のない僕をいつも懸命に励ましてくれたのは母だった。
僕はその為にも孝行はもちろんだけど、恩返しするつもりで今まで頑張ってきた。
普通の人より多くのハンディキャップを抱えてる自覚はあった。
だけど、上手く心の天秤を操作し、母の助けになるようにと頑張って生きてきた。
長く長く続く不況から、弱者に優しくない社会にはなっていたし、働くことそのものに不安はあった。だけど、母のおかげか会社の人は優しく、僕はいつも助けられてきた。
違う部署の上司は前職で後輩を亡くしたといい、殊更僕に気を使ってくれていたし、それを聞いた僕は後輩には常に優しく接することにしていたし、そのおかげかたまに起こる健忘も笑って許してくれていた。
同じ会社で働く母の影響ももちろんあったのだろうけれど、随分と気持ちが救われたものだ。
それでも突発的に思い出そうとしてしまったのか、強烈な健忘に陥る時があった。
だからと心に空白を作らないように様々な資格に手を出してきたし、不足の事態のために業務は全て僕主導のもと、これでもかと細分化し、全てマニュアル化してきた。
結果的にそれは社内の多くの人の助けになるくらいの手引き書になっていて、それを用いてビジネスする部署も出来ていった。
僕自身や社内で足りないものを明確にし、拾い集めてはマニュアル化したのだけど、助かった、これ使えるよと、それがまるで輪のように部署間を繋げ、社内に広がっていく様は、おそらく幸せのカタチなんだと思って夢中になってやってきた。
懸命に働いて働いて、そうして15年も経てば自身のハンディも飼い慣らせていた。
まだ自身の健忘において、それが役に立ったわけではないけれど、それでも感謝され感謝しては仕事をしてきたわけで、ここ五年あまりは母にも頼らず悩みすらないくらい順調だったように思う。
母の社内を震え上がらせる怒った顔など、もう随分と見ていない。
この日までは。
◆
僕の夏休み休暇があけた。
世間ではお盆休みに差し掛かるのだけど、僕は会社で働いていた。
それは母がお盆を嫌がる人で、何となく実家とか父のことから目を背けたいからだと認識していて、だからこそ夏休みをとる代わりにお盆休みに働く習慣になっていた。
今日はいつもの引き継ぎで、定時まで働いていて、帰宅すれば何故か母が帰ってきていた。
綾香さんが居るのは、母が帰ってくるまで朝晩とお世話をしてくれることになっていたから不思議ではない。
帰宅早々、自宅のリビング、四人掛けのテーブルに僕と綾香さんが並び、母の対面に座らせられた。
母は無表情で、それはつまり社内の顔で、どこか張り詰めたような不穏な空気が、その場を支配していた。
なんなんだ…?
でもそれがすぐにわかることになった。
母が一呼吸し、テーブルに出したモノを見てわかったのだ。
「潤一、これはいったいどういうことかしら?」
そしてそれを見た僕は、あまりの衝撃に襲われ、椅子から転げ落ちた。
この問題は、どうもマニュアルも通用しそうにないし、健忘にもなれそうにないだなんて、僕の人生にはなかったことだった。
「潤一、もう一度聞くわ。これはいったいどういうことかしら…?」
「…」
それは一枚の写真だった。
サイズはA5くらいで、割とどころか結構大きめの写真だった。
そこには僕と綾香さんの、言い逃れの出来ないような、濃厚に絡み合う肌色現場が写っていた。
それはどこか不倫現場の決定的写真かのようで、そんなものがテーブルの上に、ペラリと差し出されたのだ。
だから僕は椅子から転げ落ちたのだ。
どうやらこれは、夢の中ではなかったようで、シュレーディンガーの一尾が、にゃにゃんと確定してしまったのだ。
いや、にゃにゃんととかじゃなくて…。
ああ、僕は今混乱していて、何を考えてるのか自分でわからなくなっている。
確かに夢でなければどうしようとは思っていたけど、帰ってくるのが早すぎる。
綾香さんとそういう話はまだしていないのだ。
何というか、夢か現実かも曖昧で、例え事実にしろ勘違いにしろ、どう聞けばいいかわからなかったのだ。
こんな時はマニュアルだ。と言ってもハラスメント…というより、コンプラ…いや、母の表情からこれは雇用主にとっての信用問題の話だろう。
だけど僕は雇用主でもなく、ましてや人事でも法務でもないのだ。それに最近の社内における男女のハラスメント関係は、若い社員に任せ、マニュアル化をやってもらっているし、一応は目を通していたけど、流石にこんな問題のゴールまでは押さえていない。
「動画の方が良かったかしら?」
そして母は、混乱する僕に、この写真はまだ私の優しさなのだと、白々しい顔をしながら暗に追い討ちをかけてきた。
確かに繋がっているか否かは、これだけではわからないくらい密着したポーズではあるけど、どうか綾香さんの前ではやめて欲しい。
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