第44 -綾香5
そして気づけばあの病室の潤くんに戻ってくれていた。
もちろん雨でびちゃびちゃになったのは計算以外のなにものでもない。
時刻はちょうど零時だった。
時計が、雷鳴が、祝福のファンファーレをあげた。
それは狩りとか儀式とかの合図だった。
だって潤くんが途端に幼くなったのだ。
そりゃ、いただくに決まってるし、それこそ病院で起こりそうなワードを試しに使いながら誘導すれば、診察プレイもマット洗いも大丈夫だった。
ちなみに診察室に使ったのは、元潤くんの部屋だ。
あの当時を再現するのは少し大変だったけど、今ではすっかり素敵な空間である。
それもこれもあの日ここで受けた暴行を、塗り替え癒し上書きするつもりで設えたけど、脳汁か何かが弾けて蕩けて堪らず、それはもうたっぷりとお漏らししてもらった。
危ない日だと言うのに♡
「おばさま、経過はどうですか?」
『…いいみたい。いつもありがとうね』
「ええ、でも諦めないでくださいね、初孫を必ずお見せしますので」
『…あなたの執…いえ、想いに今更疑問はないのだけど、本当にいいの?』
おばさまは病気を患っていた。潤くんには内緒だし、治療は上手くいってるみたいだけど、いつ何が起こるかわからないと言う。
もしもが起きた場合、潤くんが後追いしないか常に心配していた。
それにわたしを巻き込みたくはないのだろうけど、舐めてくれたものだ。
「ええ、もちろんです。おばさまには助けられてばかりですし、恩返しもまだですし…それに死のうとしても、忘れることはやっぱり出来なかったので」
そこは一つの賭けではあった。わたし自身があの日の潤くんに会いたくて飛び込んだ。
潤くんに会えるなら死も厭わないし、同時に頭のどこかで虹歌のあのおかしな様子から、任せても良いかなと狂いながらも思ってはいた。
だけど、わたしは海の底で見たかったものがあったのだ。
幼い頃のあの貝殻を、あの日二人で思いあった時の、あの日失った首飾りが放つ光を、わたしは暗く冷たい海の中、そこで確かに見たのだ。
絶望と停滞の海に沈んだ魂は、今また再び色を持って光輝き、狂ってなんかいないと、神様は言ったのだ。
『…達郎さんも101回くらいプロポーズしたみたいだし…蛇って言ってたわよ、美智子さん』
「ふふ、例え彦星さんが働かなくなっても、わたしが支えますから」
『…怖いくらい頼もしい織姫ね…そういえば光の速さで15年くらいだったかしら。ふふ。今だから言うけど、あの短冊…私すごく怖かったわ』
「うえ? そ、そうですか…?」
どれのことでしょうか…? ご主人様ぺろぺろしたい♡、かな…?
「あ、あの、それでですね、上手くいったらプラス一週間ほど巣篭もりと言いますか…」
『狙いが透けてて怖いわ…まあ、問題ないわ。代わりも確保してるから。それにあの子、本当は二週間ほど休めるのだし』
「はい! この天川綾香に手取り足取り全てお任せください!」
まあ、もう立派にしてしまいましたけど。
『きゅ、急にどうしたの…でもいつも言うけど、お手柔らかにね。おそらくあの子…そういうお店…にも行ったことないはずだから』
「あ、はい」
それより、すんごいプレイはしてしまいましたけど。
『…綾香さん?』
「あ、はい。あと娘の件なのですが…」
『そうね……まあ、あなたに任せるわ。そこまで…ではないのでしょう?』
「あ、あははは…だ、大丈夫ですよ? 違う感じに…成長しましたし…」
『何だか不吉な物言いね…あの女みたいじゃなければいいのだけど…』
あの子の作ったあのゲーム。1のオープニングと、2のエンディングは、わたしが事前に事実に改ざんしていた。
それが、潤くんに刺さるようにと、改ざんしていた。
あのクズを産んだ女と、潤くんのお父さん。あの兄妹のせいで、潤くんも、おばさまも苦しんできたのだ。
クズがやった功績とクズをやった功績の合わせて二つ、そのおかげで、おばさまはわたしを認めてくれたのだと思う。
幼い頃のわたしは、おばさまを苦しめたあの女の妄執に、とてもよく似ていて、生理的に嫌われていたものね。
町村アリア。
いえ、今は広山アリアか。
遠く遠くで未だ目を覚まさないあの女を介護している、潤くんのお父さんの疲れた姿を見て、おばさまもスッキリしたからこそ病から持ち直したのだ。
「そこはお任せください。血が繋がってると知れば、少しは大人しくなるでしょう」
それだけは感謝してるわ、町村敦志。
ああ、それと虹歌のしたい事は全てあなたの残したお金を突っ込んできたわ。
あの子、それを元手に随分と派手に稼いでいるの。やり方や考え方的には賛同出来ないのだけどね。
稼げないやつが悪いとか言って煽るのは、新自由主義者みたいで、本当に悍ましいわ。
人とモノと金を延々と自由に動かし続けたら、潤くんに食べさせてあげたい、ちゃんとしたお野菜とか簡単に手に入らなくなるに決まってるじゃない。
はぁ。こういうのも後悔の一つよね…ちゃんと教育しないといけないわ。
まあ、そんなわけだから、安心して夢の中で囚われていてね。
あなたには、ちゃんと後悔の一つすら残さなかったでしょう?
それにわたしに突っ込んだまま逝けたのだし。
だって腹上死って男の夢なんでしょう?
んふふ。
まあ、あなたの愛が嘘だとは思わないけど、懸命なのに萎んでいくあの命の硬さは、まるでこの世の中みたいに、嘘に気付かずに搾取されている愚民かのようで、正直なところなかなか気分が良かったわ。
あら…わたしも世間に毒されてるわね。
いけないいけない。
◆
「遅いなぁ、潤くん」
昨日だけじゃ全然足りない…全然渇きが潤わない。
それに今はまだご主人様レベル1、いえ、まだ見習いくらい。全然自覚がないし、どうしたものか…また未那未に相談しようかな。
でもなんで忘れてたんだろう…未那未のこと…漆間さんだなんて。
やっぱり遁走だろうな…。
「懐かしいな…」
わたしはベッドに寝そべりながら、天井を見上げて呟いた。
あの儀式の時、首を絞めた反動でか、首飾りが一つ弾けて飛んで、天井に突き刺さって、小さな小さな丸い穴が一つ出来た。
それが今も綺麗に、思い出とともに残っていた。
それとともに、今からはきっともっとたくさん掴んで重ねてみせる。
とりあえずは海ね。
今度はわたしが拾い集めてみるつもり。
世界の本当の色が、もっともっと綺麗に色づくようにと願いを込めて。
この綺麗な首飾りを、潤くんにあげるって言って。
あの時の約束を、結婚を果たしましょうって言って。
そうよ。今度はわたしから攻めるつもり。
未那未が言っていたんだ。
ある地方のトラディショナルな婿取りだって。
むしろ潤くんは嫁だって。
その発想はなかった。
でもすごくしっくりくるのは何故だろう。
「まあ、いいわ…潤くんの気持ちもあるし、順々にしましょう。まずは名前からね。でも潤くんほんと遅いなぁ。…もぉ、ペット虐待だよ、虐待…絶対いつか噛みついてやるんだから。んふ、ふ」
そう首輪を摩りながら呟いて、わたしは昔々のように帰ったフリをして、この潤くんの部屋の布団で、幸せな匂いと記憶に包まって埋もれることにした。
「……?」
そういえば…貝殻くらいで穴なんて空くかな…?
それに、それはまるで、こちらを見つめる洞のような瞳みたいに見えて、少し不気味だったけど、わたしは未だ漂う事後の匂いに負けて、いつの間にかそのまま幸せな眠りについていた。
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