第49 -潤一15

「今日は遅いですか?」


「いや…早く帰るよ」



 あれから婚姻届を出し、綾香さんとは、秋の終わり頃に時期をみて式をあげることになった。


 それまでは以前と同じように、我が家に通ってもらうことになった。


 今まで付き合ったことのない僕に、いきなりの同居はハードルが高いだろうと難色を示したのだけど、なら通い妻でいいのではないかとなったのだ。


 なんて家政婦の時とあまり変わらないようで少し彼女に悪いとは思うけれど、綾香さんは気にもしなかった。


 学生とかなら日中も家でイチャイチャしたりするのだろうけど、サラリーマンだし、そこまで時間は取れないし、お見合いみたいな側面もあるし、夏休みと変わらず、朝と晩に会い一緒に食事をすることとなった。


 そうやって結婚してから交際がスタートしたようなものだけど、だいたいが泊まりになっていた。


『すっごく素敵でしたよ、潤くん』


 童貞の上、マグロで悪いとは思うのだけど、彼女は気にもせずに、どこまでもどこまでも延々と続くかのような甘い甘い夜を味わわせてれていた。



「あ、待ってください、ん…」


「ん、はは、なんだかまだ慣れないよ…」


「ふふ。いってらっしゃい、潤くん♡」



 照れながらキスをし、綾香さんに見送られて家を出た。


 今年も秋の祭典が近づいているせいか、電車内は朝練に向かう高校生達が多数いて、会話や表情から活気が窺えて、活力に満ちているようだった。


 彼ら彼女らは努力が結実する日を目指していて、なんだかこっちも元気を貰えて嬉しくなってくる。


 同時に、僕にもそんな時代があったのだろうかと、自然と過去を探ろうとしていて、すぐに気がつき、慌てて別のことを考えた。


 だけど、今年は少し変で、例年と比べてやけに学生カップルが増えていた。


 そこかしこに春が咲いていて、それを冷めた目で見る社会人達がいた。


 秋口なのに、車内は春と冬が同時に到来したかのような寒暖差があった。


 春の方は、今の僕と同じ、と言えるのだろうか。


 だけど、その制服姿を見ると、何か忘れている気がずっとしてくるのだけど、なんだろうか。


 過去にあったことのようで、最近あったようなこと。


 いったいこれは、なんなのだろうか。


 いやに首を絞めたくな…いや、気になってしまう。


 この人手不足の世の中で、こんなことはおかしいと思うのだけど、リストラのことでも心配しているのだろうか。


 はたまた、結婚した身とはいえ、思い出せない高校時代を深層心理で想い、心のどこかでその高校生カップル達を羨んでいたりするのだろうか。


 僕は膝に乗せた鞄の上で、両の掌を開いた。


 「100 or 0」や「どん底or大成功」と呼ばれるマスカケ相を見る。


 努力が足りないと言われてからずっと無視してきた、両手にある感情と頭脳の横線だ。


 それが真っ直ぐと繋がっていて、「て」の字が合わせ鏡のようになっている。


 あまり信じていないけれど、マスカケは掴んだものを離さないと言う。


 綾香さんは仕切りにこれを指でなぞるのだけど、まるでズバッと運命線を断ち斬られているかのようで、少し怖い。


 極端にはっきりした運命だと書いてあったのだけど、確かにそれその通りの人生と言えるかもしれない僕に、これ以上の何かが迫ってやしないだろうか。


 いや、ない。


 これ以上はあるはずがない。


 なんてのは、希望的観測だろうか。


 いや、どうせ気づいた時にはすでに遅く、そして僕は前に逃げるしかないのだ。


 先の見えない世の中だけど、リカバーもリカバリも、またすればいいさ。


 電車を降り、見上げて見れば晴天で、あの夏の雲は幻みたいに吹き飛んでいて、そしてそこにはやっぱり城なんて無い。


 あるいはどこか遠くに旅立ったのかもしれない。


 そんな昔思った事を思い出してしまうのは、まるでリアリティのある夢の中を歩いている気分のせいだろうか。


 まだ夏休みが抜けてないのか、はたまた連日続く夫婦の営みか。


 まるで創作の中のような、濃密に圧縮された青春を送っているかのようで、それに振り落とされないように必死にしがみついているだけなのかもしれない。


 いや、結婚したらみんな大なり小なり夢心地のような不安に駆られ、こんな気分になるのかもなと、僕はとりあえずそう結論付けた。


 綾香さんも不安だろうし、今度指輪でも見に行こうか。



「今日も責任持って頑張ろうか」



 そうして僕はいつものように仕事に打ち込むのだ。





「あれ、お箸、進まないんですか?」


「いや…そういうわけじゃないんだ…」



 昼時、部下と共に食堂に向かえば、社食は親子丼だった。


 お弁当は、結婚してからにしてもらったのだけど、やっぱり何か引っ掛かる…胃がザワザワとしてくる…。



「課長…結婚生活はどうですか…?」


「え? ああ…ははは…普通だよ」


「お見合いのその場でプロポーズでしょう? いいな〜……ほんと…憧れますね…?」


「我ながら大胆だと思うよ…ははは…」



 何故か全然味がしない…。


 これが家庭を持つプレッシャーなのか…。



「課長…絶対まだ結婚しないと思ってたのに…」


「自分でもそう思ってたよ…はは」


「顔色悪いですよ? 大丈夫ですか…? 良かったら私、話聞きますよ…?」



 そう言ってから、部下である女の子が手を伸ばしてきて、慌てて丼を持った。


 結婚の話が流れてから、どこか社内がおかしい…いや、お盆明けからか…。具体的には人の好意が見える化現象というか…。


 これが既婚者がモテるというアレだろうか。


 いや、これはおそらくただの妄想で、遅れてやってきた思春期みたいなものなのかもしれない。



「いや、多分遅れてきたマリッジブルーみたいなやつだろうさ。気にしなくていい」



 流石に部下にマグロのままでいいのかとか、毎日するのは普通なのかとか、お尻でするのは普通なのかなんて聞けやしないし、何より綾香さんを見せ物みたいにすることになってしまう。


 それにその前にハラスメントナイフで刺されてしまう。


 それより何か引っ掛かる…これはいったい…なんだろうか…。


 七味山盛りぶっかけても味がしない…。


 …七味……? 


 何か…思い出しそ──



「ダメですよ!」


「うぉっ!? こ、声が大きいよ、安曇さん…」


「すみません…でも課長が一人で考え込むなって言ってくれたんじゃないですか。お仕事終わりに一杯いかがですか? ね、いいでしょう?」


「や、そのだね、ちょっとお、奥さんに聞いてみるよ。はは…」


「むーーー」



 そうして僕は、極端な運命の──丼の中身がすでに確定していることなど知らずに、それを頑張って完食した。

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