第42 -綾香3
わたしなんかが、幸せになっちゃいけないんだ。
潤くんと結ばれるなんて、夢のまた夢。
あの病室での一時。
首輪をしてもらったあの日。
あの8月8日が、あの瞬間が、人生最良の記念日で、わたしの幼い頃からの夢の叶った日だった。
それがあればあと残り何十年だって生きていける。
そう思って過去を焼き尽くし、狂い続けることを選択したけど、娘に対して、正直なところもどかしい思いというか、どうしてもあの男を思い出してしまい、どうしようもない気分になってしまっていた。
そんな時はあの潤くんに襲われた日を思い出していた。
あの日の三人は、ベビーベッドを囲む二人は、とても素敵な家族だったように思えてきて、虹歌はわたしの娘だと頭でわかっていることに、感情を結びつけるようにして思い込むようになっていった。
だから身を粉とまでは言わないものの頑張って娘を育ててきた。
でもストレスと虚しさは常にマックスで、虹歌もどこか不気味で、今後二度と関わらないつもりだったけど、仕事の合間を縫って潤くんを見に行ってしまっていた。
それはすごく幸せで、彼が退院し、いろいろと猛勉強を重ねて成長していく姿が、幼くも聡い虹歌に重なって、あんな海の話をしてしまったのだと思う。
二度と取り返せない日々が、色褪せないままにわたしの心を締め付けてきて、だからもしかしたら本当に狂ってしまっていたのかもしれない。
松村が訪ねてきた時は、本当に錯乱してしまったのだ。
そして海へ身を投げた。
わたしには、見たいものがそこにあったのだ。
『綾香ちゃん! 綾香ちゃん! ああ、そんな…貴方がそこまでしなくても良かったのに…』
『……おばさま?』
『ええ、ええ、そうよ、わかる? 宮田よ。美英よ。宮田のおばちゃんよ。ああ神様…良かった。助かって本当に良かった…』
病室で目覚めると、おばさまがいた。わたしは近くにいた釣り人からの通報でどうやら助かってしまったらしい。
お母さんはもちろんだけど、おばさまにも相当に怒られてしまった。
娘のこともあるけど、特に落ちた場所が潤くんが身を投げた場所と同じだったことが、おばさまの逆鱗に触れてしまったのだ。
でもそれは本当にわたしを心配してのことだった。
『綾香ちゃん、私、本当に感謝してるのよ。潤一のこと──』
あの日、あの元凶を全て焼き尽くした日に起こした事は、全て事前におばさまに伝えてあった。
教唆というか、間接的に人を殺すことに戸惑いなどないのは、痛みを受けた復讐者なら誰だってそうだ。
弁護士なんてお金でしか動けない人が天秤を使うから歪になる。
その天秤すら、たかだか30%ほどのの投票率で選ばれた議員が、適当に考えたものが法律になり、六法全書に載ってるだけ。
なのにその事実を有り難がってか、知らないのか、渋々かで従っているし、特に選挙に行かない人が嘆くことが多いように感じていた。
だからこそ復讐者の意見なんて反映しないし、守らないのは当然だし、みんな変えられないと思ってる。
そんなわけない。
時代の反映はもちろんあるだろうけど、人の恨み辛みなど有史以来それほど変わらないのだから。
まあ、中にはきちんとした弁護士もいるのだろうけど、それこそ出会いなんて奇跡だ。
そんなものは、最初から当てにはしなかった。だからこそ男を知るこの身体を使い、色を使い、わたしの持てる全てを用いて潤くんへの愛に使ったのだ。
ただ唯一、わたしの手だけは血で汚すわけにはいかなかった。
それは首輪ではなく、潤くんが手ずから用意してくれた、拾い集めて作ってくれた、あの白くて綺麗な首飾りを、二度と手に出来ないと思ったからだ。
それにわたしのその天秤は、潤くん有利に傾き過ぎてはいるし、他者から見て人の道を著しく外れていることなのは認めるけど、些細なことだった。
彼が生きてくれている悦びの前では。
それは、おばさまと一致していた。
『それに…あの女もね。ふふ…だから今度は私が貴方の、綾香ちゃんの希望を叶えてあげるからね』
だからおばさまは、あの事件の後、検察を黙らせる強力な弁護士を、わたしにつけてくれたのだ。
尤も、ここまでするとは思ってなかったみたいだけど。
◆
それからわたしは仕事を辞め、おばさまのお世話になる事になった。
『潤一、今日から働いてくれる家政婦の天川さん』
『…よ、よろしくお願いします』
『え? ああ、うん。よろしく…ってちょっと母さん、相談くらいしてくれよ』
『あなたいつもこの夏休み外食ばかりでしょ。いい歳なんだから、食べ物には気を遣わないと。あや、天川さんはお料理上手なのよ。リクエストは伝えてあるから。よろしくね、天川さん』
『え? は、はい!』
わたしが潤くんの好物を聞かなくてももちろん知ってるだけだけど、おばさまはそう言ってくれた。
それから夏の二週間あまり。潤くんの側にいる喜びを噛み締めて働いていた。
『…あなた本当にあの綾香ちゃん? 頭打ってない?』
『どういう意味ですか…?』
『だって二週間あって何もしないだなんて…』
『そ、そんなことしません!』
『そうなの? だって小さな頃なんて、飢えたハイエナみたいだったわよ』
『ハイエナですか…』
『ふふ、冗談よ。まあ貴方のペースもあるでしょうし、私に遠慮はいらないからね。ああ、でも手加減はしてね──』
おばさまは、わたしを認めてくれていた。
会社も関連会社を紹介してもらって、懸命に働いた。
わたしの人生が、世界が、また色づき、動き始めた気がした。
でも、潤くんはやっぱり思い出してはくれなかった。それどころか、毎年のように初めましてだった。
おばさまも不思議に思っていたけど、わたしはそれでも良かった。
そんなある日、変な女に出会った。
もうあれから五年か。今年は何をしてあげようかな。
そんなことを思いながら潤くんの家に向かっていたら、全身黒ずくめの人が前から歩いてきたのだ。
最初は松村かと身構えた。
でもここ最近の松村が虹歌によってどうなっていたのかは知っていたから、すぐに違うと思った。
「…町村さん…いえ、もう天川さん、だったかしら。久しぶり」
「……どちら様ですか?」
今日の天気は薄曇り。なのにサングラス…? しかも朝とはいえ、この夏の暑い最中、全身真っ黒で覆っていて、怪しいなんてもんじゃない。
それに、その語り振りからあのクズの関係者かと思い、わたしは素早くスタンガンを手に持った。
「ふふふ。宅急便、って言えばいいかしら。なんてね、ウソウソ。旧交を温める前に、また確認だけはさせてね」
黒ずくめの女はそう言って、取り出した黒い定規か何かを、わたしに向かって指し向けた。
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