第40 -潤一12

「あれ…」



 気づけば自宅のソファで寝ていた。


 ああ、夢…か……夢だろうな。


 僕はなんて夢を…


 いやはや、すごい夢を見てしまった…しかもそのせいか、虚脱感と倦怠感で朝勃ちすらしない。


 ところどころ虫食いみたいな、寝起き直後の視界みたいに白く欠けているけれど、こんな夢なんて生まれて初めてだ。


 そうか…どうやら僕は寝過ぎたのかもしれないな…しかし、僕の中にあんな願望があったなんて…ここ最近の…あれ…?


 何のせいだ? 


 頭が働かない。


 思考のテーブルには何も載っていない。


 様々な問題を、全て叩き落としたような、タスクをごろごろと丸めて一つにして捨てたような、そんな気分になる。


 するとフワリと香る甘い匂いと、少し頬に触れるサラサラとした髪と暖かい何かを感じた。



「潤一さん、またこんなところで寝て…風邪引きますよ」



 彼女は耳元で優しくそう言って、うつ伏せの僕の背中を優しく摩って起こしてくる。瞼が開かないだけで、僕は起きてはいるのだけど、いい匂い過ぎるのと、夢のせいで気まずくて起きたくなかった。


 あれ、今日と明日、彼女は休みだったような…手元のスマホを引き寄せ確認する。今は何時だ? そう思っていたけれど、日付がおかしかった。


 9…? 9日の昼前…? スマホには、そう表示されていた。



「準備出来ましたよ」


「準備…?」


「もぉ、海に連れていってくれるって約束したじゃないですか」



 そう言った彼女は、お出掛け用なのか、長めの白のひらひらとした上着に、その下は凄く薄着だった。


 しゃがんだ姿勢だと、スカートがやたらと短いのがわかる。


 その上、眼鏡もマスクも外しているようだけど、まともに顔が見れない。



「海…? そうだった…?」


「もしかして…揶揄ったのですか? わたしがおばさんだから…?」


「ち、違いますよ! …ってその首…」


「ふふ、潤一さんが着けてくれましたよ? 似合いますか?」



 彼女は首に白い首輪をしていた。


 それは細くて硬そうな、白の革のベルトだった。


 あれ…もしかして夢じゃない…? 確かに夢の中で彼女が…にゃーにゃんって言って…おかずにしてって…言ってから…いかんいかんいかん。


 いや、これ似合うって言っていいのだろうか。


 それより何か忘れているような…首輪の下、胸元の迫力に、また吸い寄せられそうに──



「潤一さん?」


「よ、よし行こうやれ行こう今すぐ行こう! こう見えても昔から泳ぎは得意なんだっ! なぜかねっ!」


「ッ、ふ、ふふ、変な潤一さん♡」



 そう言って立ち上がった僕の背に彼女はピタリと身を寄せて、首筋に鼻をくんくんとさせてくる。後頭部に甘い痺れがゾワゾワと走る。


 これはやっぱり夢じゃないのか…?


 その場合母になんと言えばいいのか…ダメだ、何にも考えられ──



「…メス豚の臭いがします…」


「─メッ、?!」



 メス豚…!?


 聞き違いだろうか…


 メス豚交響曲のことだろうか…


 いやそれまあまあ同じか…いかん、パワーワード過ぎて思考のテーブルの上をまた吹き飛ばされた。


 頭が全然働かない。


 明日から会社だというのに。


 するとチャイムが鳴り、玄関を開けると、あの女子高生がいた。今度はまたスポーティな格好で、下を履いているのかわからないくらい長い丈のグレーのTシャツを着ていて、大きなリュックを背負っていた。


 そのリュックの肩ベルトのせいか、異様に胸がぱつぱつで、たわわが強調されていて、Tシャツの「DON'T DEEP」の文字が横に間延びしていた。


 そしてなぜか彼女は眼鏡とマスクをしていて、首に包帯をしていた。



「これはもう一回ドボンだよ、ママ」


「どなたですか? わたしに子供いませんけど…潤一さん、オレオレ詐欺の亜種じゃないかしら…いえ、逆にチチ活かも…怖いです♡」



 そう言って僕を盾にし、背中に大きな胸を押し付けてくる。

 

 逆にというか、チチ活って何だろうか。というか今まさにそうだけれど…



「ッ、こいつ…! 昨日も今日も帰ってないっておばあちゃんが…あ!? 首輪!? BBA!」


「バッ…こ、言葉遣いが悪くて乳臭いガキですね…」


「…アンタあれから飲ませなかったでしょ…というかおばさぁんさぁ、私の彼氏から離れてくんないかなぁ!」



 …彼氏…? 僕のことだろうか。いや、彼女には彼氏がい…え、あれも夢じゃないのか? それ淫行…シャレにならないんだけど…


 バレたら会社クビ…だよな…というか捕まるよな…


 そういえばこの子がそんなことを…暗に脅してきたような…いや、別の誰かの話…だったような…?


 というか、すごく口悪いな…


 猫かぶってたのか…いや、夢の中の僕もそうか…いや、それは彼女もだったか…猫ばっかだな…



「それにしても…あなた、彼氏、23人くらいいそうですね?」


「ッ?! なんでそれを…!?」


「いえ、言ってみただけですよ? くすくす。性の乱…淫れ、クソビッチですね」


「ち、違うし! マゾ豚ばっかだし! というかもう別れたし! 聞かせまくりたいだけだったし! 全部じゅんくんの生贄だったし!」


「はぁ…いったいどんな思考回路を…酷いわね…ほんと誰に似たのか…」


「アンタだよ! つかやっぱり正気じゃん!!」


「わたしなわけないでしょう…そ・れ・よ・りっ! なんで居るんですか?」


「じゅんくんと海に行くからに決まってるでしょ!」



 そんな約束したかな…というか二人とも近い近い近い。甘い匂いにくらくらしてくる。



「そのじゅんくんってやめてもらえます?」


「アンタが言わせてたんでしょ!」


「あら、そうなんですか? じゃあわたしもそう呼んでみましょう」


「え? あっ!?」


「じゅ、潤、くん…い、良いですね…なぜかしっくり来ます…潤くん、潤くん、ふふっ…おかえりなさぁい潤くん♡」



 彼女はそう言って背中にぐりぐりと抱きついてくる。擦り付けるようなその仕草は夢の中で見た…あれ、それは逆だったような…いや、今から出掛けるんだからおかえりはおかしいし、なんだかいろいろ混ざってよくわからない。


 でも照れと不安がバランスしながら加速していて、テーブルの上をまた吹き飛ばしているのはわかる。



「…潤くんただいま…潤くん潤くん、ああ、なんて……。ね、潤くん、こんなの無視して海に行こ? ふふっ」


「こ、ここ、こいつぅ!! 離れなさいってば! 若作りしてそーとーアンタ痛いから!」


「は、はぁ…? ?…ふふ、何ですかその掠れた声とへっぴり腰は」


「し、仕方ないじゃん…あ、あんなだなんて…まだお尻…違和感あるし…」


「…それは…聞き捨てなりませんね」


「はあ? それこっちの台詞だけど?」


「…」



 もし仮に夢が事実なのだとしたら、自分の人生がこれから怖いから、どうか聞き捨てて欲しい。


 夢か現実かもまだふわふわとしていて、実際問題が今にも襲い掛かろうとしていることに、膝がガクガクしてくる。


 言い合う二人は、だんだんとヒートアップして距離を縮めていて、遂には顔を突き合わせ…る前に大きな胸が先に邪魔をしていて、進めない。


 それも含めて横から並べて比べて見てみると、確かに強烈な共通の遺伝子を感じる。


 なんで気づかなかったのだろうか。



「……あやかさん、知ってる子?」


「ッ、知らない子ですね♡」


「BBAッッ!!」


「…」



 僕は気まずくて仕方ないから、空を見上げてみた。


 暑い夏の日はまだまだ続いていく。


 遠くにある大きな入道雲が、まるで鏡餅のように積み重なっていて、こっちを笑って見ながら手招きしている気がした。


 あの下には、海があったはずだ。


 ずっと続く海岸線がとても綺麗だったはずだ。


 そこに行けば何か希望とか救いとか、不安を解消する何かが落ちていた気がする。


 だから僕は、これつまり親子丼ではと、不安に思う心の、シュレーディンガーの丼に蓋をした。


 開けなければ、それは確定しないし、中はもしかしたら天丼かもしれない。


 そういえば関西では二回繰り返す意味もあったような気もするけど、それも含めて蓋をした。


 それに世の中には気づかない方がいいことなんて、いっぱいあるのだと、おじさんなら誰もが知っている。


 そして世の中は解決しないことばかりで、解決することは決して良いことばかりではないと知っている。



「とりあえず海に行こうか?」


「「行くぅっ!!」」


「…」



 その蓋から真実がホカホカと二尾ほど漏れ出ているような気もするけど、僕はとりあえず気にしないことにした。

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