第35 -虹歌3
おじいちゃんの話から、引っ越す前の家を推測していた。
パパの死後、ママの治療もあって、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らしていた。
でも、違和感がずっとあって、探り当て聞き出してきたのだ。
そしてこの町に来て、閑静な住宅街をウロウロとしていた時だった。
『はは、心配症だなぁ…気にせず楽しんでおいでよ。それにまだ出かけたばかりじゃないか…』
帰宅途中のサラリーマンさんがある家の前で鍵を探しながら肩と耳でスマホを挟んでいた。
多分、近しい誰かとの電話なのだろうけど、彼を見上げて私は固まった。
『天川の血はなぁ、少し特殊でなぁ…』
おじいちゃんが話してくれた古い古い昔話が蘇る。
『理想の相手を探し出すんだと婆様に言われてなぁ。一目惚れじゃないのかと言ったんだがなぁ…はは。多分足りない血を本能的に追い求め……いや、なんでもない…まあ、おばあちゃんとの初恋だよ。一目惚れでね。ははは…虹歌にはまだ恋なんて早いかなぁ…綾香は…ママはちょっと早すぎて苦労したよ…ははは…』
まあ迷信だよ、そうおじいちゃんは続けたけど、違う違う全然違うと血が騒ぐ。
私の古い古い原初の記憶。
目の前を揺れる連続した白のカケラ。
ずっとずっと追い求めていた天使の白の輪。
それがあればママは狂乱から蘇ると信じていたけど、違っていた。
瞬間記憶を自覚してからは、はっと思い出す、なんて起きた事なかった。
世界が巻き戻ると言えばいいのかな。
光が射すって言うのかな。
優しそうな双眸のその人は、私から輪を取り上げたのではなかった。
私は泣いたのだ。持って行かないでと泣き叫んだのだけど、でもそれはとても綺麗な首飾りで、ママのものだったのだ。
ああ、そうだ。彼だ。
その人が今目の前にいるのだとわかったのだ。
そうして私の視線に気づいた彼は、あの時のように、また優しく微笑んだ。
『見かけない子だね、迷子かい?』
『はぅっ!?』
彼の声で頭の中が真っ白になった私は、ぐるぐるとその場を自転車で周り出した。いつの間にかそんな珍奇な行動に出てしまっていたのだ。
『君は…何がしたいんだい…?』
『はっ!? ん〜〜〜〜!』
私はすぐさま逃げ出した。
こんな出会いは違うのだと、直感が細胞に告げていた。
優しげな顔から発せられたその言葉に脳がひりつき溶け落ちて、髄がしびれて焼き切れそうになったのだ。
血が巡る心臓の高鳴りと、酸素を求めた肺の苦しさ。そのどちらも私の世界に一瞬で色を与えてくれて、それはもうだらしない笑みをこれでもかと浮かべていたことだろう。
ああ、わかっちゃった。
細胞の核で理解しちゃった。
あの人、じゅんくんだ。
私の中の獣が、理屈を切り裂き、倫理を踏みつけ、心臓を軽やかに掻きむしる。
そんな音があの時確かに聞こえた。
つまり私は、この人の赤ちゃんを孕むために生まれてきたのだ。
「なんだ…ママはただの前座だったのね。ふふっ」
もしくは、失敗したのかな。
托卵……いや、あの恨みがましい瞳だ。
多分それはないだろう。
でも不安になる。
折を見て検査しなくっちゃ。
愛の供給が足りないその頃のママはもう、この国みたいに正しく死んでるように生きていた。
それはそうだ。
正しさを振りかざして私を育て、本来の目的を捻れながら夢想し、だからまるで理想に届かない。
滑稽だ。ふふ。
でもおかしいわね。
もしママがこの衝動を抑えれたとすれば、よほどの事がない限り無理だと思う。それくらいあの人が欲しい欲求に狂わせられちゃう。
つまりパパは利用された? 嫉妬でも煽ろうとした? もしくはパパが上手だったのかしら…? ああ、じゅんくんがわざと孕ませたのかな?
私に逢うために…?
『やだぁ…運命とかウケる』
というかそれ以外にありえない。
だとすれば、私が生まれたことも、写真がないことも、事件のことも、いろいろな整合性がつく。
これは警察にはわからないし、ママと私じゃないとわからない。
でも、もう一つわからないのは、今のママの状態かしら…あ、天使の輪…首飾りを取り上げられた時に捨てられた…とか…?
ふ、ふふ。ありえる。
きっとパパに目移りしたのだわ。
飼い主を乗り換えるだなんて、ペット失格ね。
でもママも馬鹿よね。幼稚園の制作物は、それはもう酷かった。あんなあからさまなの、男の子は引いてしまうもの。
可哀想に…じゅんくんはきっと苦労したのだわ。
だから何かしらの方法で押さえつけたのではないかしら。
時系列的には海の話の前かしら。でも毎年行っていたならわからないわね。
しかもなんだか青春っぽい話で脚色されてるのが気にかかるわ。
その反動だけが残ってるのかな。だっていつも部屋で夜な夜な貝殻で遊んでいるもの。
狂ったみたいにあんなに強く擦り付けて…ふーふー言ってて、アタマとオマタが大丈夫か心配だわ。
ああ、でもどんな人が好みかしら。
与えられた役になり切る人形のように、良い子を演じてきたけれど、どんな風に設定すれば、気に入ってくれるかしら。
年齢差はあまり関係が無いと思いたいわね。
身体はおそらくママのように成長するだろうし、ポコポコ──それこそ虹の色の数だけ産めるだろうし。
最短は13歳付近…かしら。身体の成長によって随時修正はいるけれど、それでも六年かー。
長い…いや、短いのか。
だって今から落し方と稼ぎ方を考えないといけないから! きっと足りないくらいだわ!
「ああっ! 夕日が鮮やかに見える…恋に落ちるとこうなるのね…素敵だわっ! ポカポカする…暑さじゃない熱…厚い熱い熱。ほんと素敵よっ! きっとこれが世界のほんとの色なのよっ! きれいだわっ!」
そんな事を叫びながら自転車を漕ぐ私を、帰宅途中の人々はギョっとして見ていて、少しボリュームを抑えた。
恥ずかしくないわけではない…のだ。
うひ、これは照れる。
恋は照れる、そう書いてあった通りなのだけど、実際はこんなにも違うのね。
何げない景色がキラキラとしていて、目に鮮やか過ぎて辛いくらいだもの。
でも、どんな手を使えば落ちてくれるのかしら…
同級生なら簡単だと思うのだけど…丁度良いから練習しようかしら。
今までいじめられても無視してきたけど、やり返してみようかしら。
女子の嫉妬をコントロールして…男子も焚き付けたり…引き剥がしたり…捻ったり…救ったり…惚れさせたり、まずはクラスで実験してみましょう。
そうね、そうしてあのカノンのように、静かに始まり、やがて全てを燃やし尽くすかのように盛り上げて、焦土にしてみればいいのだわ。
少しくらいこの欲求不満の解消にはなるでしょうし。
それがじゅんくんへの愛の証明にきっとなるわ。だってまだ本能しか芽生えてないもの。
ママと違ってじゅんくんは居ないのだからら、自分で躾ないといけないわ。
知識は詰め込めるだけ詰め込んできたのだけど、理屈と実践と体験、それがいるし、それをきちんと装備して本能を飼い慣らすのよ。
それでも私が好きで、私を好きな人が現れたら、潔くこの身を委ねましょう。これは私の恋の証明、愛の試練にもなるわね。
「んふふっ…」
でもそれはそれでそれだけでは面白くないから。
アプローチを考えなくちゃいけないわ。
「むむむ…あ、一度……ってから……せる、だなんて、どうかしら。んふ…んふふふ、良い。良いわ。それよ! んふふふふ」
何故そう思ったのかは、その時はわからなかった。
でもそれは私の血の半分が、極悪非道な獣なのだと知り納得したのは、それから随分と経ったあとだった。
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