第28 -潤一6

 ――変な夢に居た。


 海辺みたいなところで、僕ともう一人知らない女の子が一緒に歩いていた。


 黒髪の長い女の子。


 淡い夏の幻のようで、柔らかく、不思議な雰囲気の美少女だった。



「潤くんとまた来れるなんて、本当に嬉しい」



 女の子は僕の名前を知っていた。


 彼女が微笑むと空気が華やいで、確かにあったはずの潮の香りが無くなっていく。


 世界に色が灯り、その彩度を上げていく。


 優しく細めた瞳に、心臓を鷲づかみにされ、僕は初めて恋に落ちたのだと気づいた。


 うるさいほど高鳴るドキドキとした心臓に手を当て、どうか気付かれないようにと願っていた。



「本当に…って?」



 その狼狽えを悟られまいと、口が勝手に動いている。もはや自分が何をしゃべっているのか、それすらどうかも曖昧なくらい緊張していた。


 ただ、それでも僕たちの距離は近づいていく。



「だって潤くん泳げないし、つまんないのかなーって」


「もう泳げるよ」


「ふふ。絶対嘘だよー」



 そう言って、彼女は小指同士を絡めてきた。その疑いの言葉こそが嘘だと言うかのように、揶揄うようにして小指を弄びながら、それでもしっかりと繋いできた。



「ほ、本当だよ。綾香に内緒でスクール通ってたし」


「えー本当かな〜」



 夢の中で、僕は彼女の名前を知っていた。


 なんで忘れてたんだろう。


 長い間、夢の中でそれこそ夢中になって、恋焦がれていた女の子のはずなのに、忘れていた。


 そして彼女は小指を離して砂浜を駆けて、白い貝殻を拾って僕に手渡してきた。


 多分、それで首飾りでも作ってあげたら似合うかもしれないと僕は思った。


 だから僕はそれを懸命に探して首飾りを作った。



「ふふ。頑張ってくれてありがとう、◾️◾️」



 そして彼女は、知らない誰かの名を呟いてニタリと笑った。


 そして僕をドボンと海に突き落とした。


 世界は色を失くし、ゆらめく海面が僕の見た最後だった。


 ああ、そうだった。


 ははは。これは、僕には要らない過去の話で、既に終わった話だった。


 だからまた忘れればいい。





 また変な夢に居た。


 病室にいる僕と知らないお姉さんが楽しくお話ししていた。


 長い黒髪に、艶々とした唇が印象的な美人のお姉さんだった。



「潤くん、これ似合うかな?」



 お姉さんは僕の名前を知っていた。


 彼女が首元を気にしながら微笑むと、空気が浮き立って、確かにあったはずの病室の独特の匂いが無くなっていく。


 世界に光が色づき、その明度を上げていく。


 こんなこと、確かどこかにあった気がする。


 だけどそんなことより、大事なことがあった。儚く潤んだ瞳から静かに涙が溢れ落ちたのだ。


 それを拭ってあげた瞬間、にこりと朗らかに笑って、その少女のような無邪気な笑みに心臓を鷲づかみにされた。


 そして僕は初めて恋に落ちたのだと気づいた。


 うるさいほど高鳴るドキドキとした心臓に手を当て、どうか気付かれないようにと願っていた。



「さ、さあ似合ってるんじゃない」



 その動揺を悟られまいと、口が勝手に動いている。もはや自分が何をしゃべっているのか、それすらどうかも曖昧なくらい緊張していた。


 そうして僕たちの距離は近づいていく。



「もぉ、可愛いんだから」



 そして彼女は、くすりと小さく笑って僕を抱きしめた。甘く痺れる香りがふわりと溶けながら僕の鼻に飛び込んできて、どうしようもない程の、狂おしい欲情が、胸を焼き、脳を蕩けさせてきた。


 僕の顔でひしゃげ、つぶれた乳房の豊満な感触に沸騰しそうになるけれど、彼女の心臓も早鐘を打っていて、僕と同じリズムを奏でていることに気づき、彼女に呼吸を合わせるようにした。


 静かな病室で、ようやく呼吸と脈拍が同期した時、抱きしめ返そうとすると、彼女は小さく呟いた。



「ばいばい、潤くん」



 だけど彼女は、僕の名を呟いて、僕の前から居なくなった。


 持ち上げた両腕は、空を切っていて、さっきまで鼻をくすぐっていた甘い花の香りが、病室の匂いに戻っていた事に僕は遅れてぽつりと気づいた。


 そんな僕を、鏡餅みたいなだんだん雲が、病室の窓の外から腰を浮かすかのようにして覗いていた。


 次いで雷を鳴らし、雨を降らせた。


 どうやら憐れんでくれたみたいだけど、寂しさと虚しさが増していくばかりで、世界は光を失くした。


 ああ、そうだった。


 ははは。これは、僕には要らない過去の話で、既に終わった話だった。


 だからまた忘れればいい。



 

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