第22 -敦志4
「綾香、綾香、綾香……」
俺は今歩いている。ただ腰から足を差し出しているだけかもしれないが、歩いている。
足は重い。息は上がる。頭は痛い。耳鳴りが酷く、視界が狭い。吐き気が一向に治らない。
だが、顔は歪に笑ってる。
こんな感情なんて、捨てたはずなのに。
「くそがッ! 今更なんだってんだ…!」
ついさっきのことだ。
綾香を探しに家を出たはずなのに、お袋がいた。
『敦志…久しぶりね。あなたから呼んでくれるなんて───』
何か言っていたが、その声はよく聞こえなかった。
とりあえずマンション横の細路地に連れ込み、顔面に打ちかました気がするが、あまり覚えていない。
「いや、これはあれだ。あれは夢だ」
あの女があそこにいるはずもないし、殴っても殴っても少しも気は晴れず、ただ怒りの燃料だけ焚べられ続けている気分にさせられた。
その気分のせいか、暗闇の中なのに何故か白いモヤの中を歩いているような感覚になる。
だから夢だ。
だが、例え夢だろうと俺の最愛を汚すわけにはいかない。
GPSに突き動かされるように向かったのは、入り組んだ路地に囲われた、老朽化というよりも廃墟に近い建物群だった。
晴れた夏の夜とはいえ、ここは一歩通りから入ると薄暗い。
家の青白い灯りがポツポツとしか点いていないアパートやマンションばかりで、だが灯りの無い家にも洗濯物がある。
窓ガラス越しに干しているので、おそらく人は住んでいるんだろう。
ただそれらが薄らと亡霊のように見えてくる。
まるで綾香と二度と会えないような気がしてくる。
進めば進むほど、辺りはだんだんと人気が無くなり、それと比例したように、耳鳴りが酷くなっていた。
そして頭の中には酷く獰猛な自分が燻っているのに気づく。
意識してみれば、身体中を巡る血液の音が、外に飛び出して聞こえてきそうなくらい高鳴っていた。
肌は粟立ち、身体の体表をビリビリとした電流が走っているのがわかる。
ただ、殴ったせいか、一度落ち着くことが出来た。あのまま向かえば、またやらかすところだった。
綾香に何度か掛けたと思うが繋がらない。
「もう一度かけるか…」
すると今度は繋がった。
俺の最愛の妻は、消え入りそうなか細い声で、酷くしたったらずな口調で錯乱していた。
『タスケテ、タスケテヨ、▪️▪️▪️クン』
「…ッ?」
あまりよく聞こえなかったが、おそらく錯乱しているんだろう。だが、それを引き起こした犯人にまた怒りが甦り、声を荒げようやく場所を聞き出し、俺は踏み込んだ。
すると、あのお袋が好きだった曲が流れていた。
◆
そこから記憶は曖昧だ。気づけば俺は金田を刺していたようだ。
綾香に止められるまで何度も刺していた。
これ、俺がやったのか?
はは、馬鹿だろ。
現実味のない夢のはずなのに、腥い血の匂いが強烈な興奮を呼んで仕方がない。
せめてこの夢が覚めるまでに綾香を抱かないとこの衝動はまた起き上がる。それはまるであの時みたいに───
「あなた…」
そう声を掛けてきた綾香を、ベッドに押し倒して、ショーツをズラし、俺は興奮でカチ上がったブツの挿入を試みた。
すると綾香は、感情のない冷たい眼をしながら口を開いた。
まるで絶望を映しているかのような眼で言葉を紡ぐ。
「ねぇ、あなた。救済の儀式って知ってるかしら?」
「…救…済…だと?」
「ええ。今から全て…『いいえ』で答えて欲しいの。答えたくないと言えばそこで…終わり…ダメ?」
「はは、お前が救われるんなら何でもやってやる」
「ふふ。ありがとう、あなた…」
そう言って、綾香はニコリと微笑んだ。そして一息呼吸し、まるで祈るかのようにして、両手を大きな乳房の前で組んだ。
「わたしはあなたを愛していた」
「………?」
「わたしはあなたと結婚したかった」
「お、あ、綾香…?」
「わたしは、あなたの子供が欲しかった」
「お、お前誰のことを言って…?」
「ふふ。あなたに決まってるじゃない。んんッ、相変わらず乱暴ね…答える前に挿れるだなんて……ほんと、大違いね」
そう言って、いつもなら歓喜の声を上げるはずなのに、とても馬鹿にしたような見下げるような眼をして俺を見上げていた。
「…今誰と比べた…?」
俺は自然と綾香の首を絞めていた。
ああ、そうか…お前、死にたいんだよな…だからこその救済だろうし、比べたのはおそらく金田と松村のことだろう。
そう言って煽ってるんだろう。
馬鹿な気を起こす前に、お前の好きな窒息プレイでイキ死にさせてやる。お前が例え犯されても、上書きしてやればいいだけだ。
こんなことくらいで俺はお前を手放さない。
「ふ、ふふ、馬鹿っ、ね、彼に、決まっで、るじゃ、ない」
「…彼…? 彼…だと?」
「かッ、は、それ、より答えら、れ、なぃだか、ら終わり、ね」
綾香はそう言いながら、赤黒い顔をしたまま、ニコニコとした。
「終わり…終わり…だと…?」
すると、後ろでフローリングを何かが滑る音が聞こえたが、綾香の言葉が気になって、一歩遅かった。
次の瞬間、腰辺りに何か熱く鋭い塊がぶつけられた。
何度も何度もぶつけられた。
「ひ、ひゃ、ひゃった、ひゃってやった…! 死っ、死死ッ、シシシシシシッッ!!」
「ま、松村…! お、お、お前…! 狂ってんのかッ?!」
そして俺は振り返ったまま、綾香にそのままゆっくりと倒れ込んだ。
綾香は豊満な胸で抱きしめるようにして俺を包んできた。
綾香のその胸がひしゃげ、興奮を促す匂いがプシュっと広がる。
俺はその後押しで、最後の最後まで腰を懸命に振っていた。
でも駄目だ、まだかかる。
遅漏がこんなところで足を引っ張ってくる。
くそ、まだだ。まだ覚めるわけにはいかない。
「あ、綾香……はは、愛、してる…愛して…る…愛してるぞッッ!」
すると綾香の抱きしめる力が強まり、俺の首を掻き抱きながら、まるで少女のようにくすりと小さく笑い、耳元で儚く囁いた。
「い・い・え」
それが、俺がこれは夢だと確信した言葉で、夢から決して覚めることのない最後の言葉だった。
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