第9

 あれから私は酷くノイローゼ気味になっていた。虹歌の夜泣きが酷くなり、敦志も機嫌が悪かった。


 頭痛も酷く、潤くんに襲われたのも、救済の儀式も、首飾りが無いのも、何もかも全て夢だったんじゃないかと思うようになっていた。


 でも確かに私は裸で突っ立っていて。


 でも確かにあの首飾りは無くなっていた。


 ただ、暑かったからシャワーを浴びたのかも知れないし、元々首飾りなんてなかったのかも知れない。


 それに全ては潤くんから聞いた話でしかなく、いろいろと敦志のスマホやPCを漁るも、私と敦志の痴態以外何も出てこない。


 でもあんなにも恥ずかしくも楽しかったものが、ゴミみたいにしか見えない。


 せめて潤くんに襲われた痕さえあれば、信じれるのに、潤くんは何一つわたしに残してはくれなかった。


 ただ、潤くんの言う暴力が本当なら、そんなことがバレると虹歌が無事かわからない。


 私はその日までの自分を模した感情を貼り付けたまま受け答えし、上手く過ごさねばならないと精神をキリキリとさせていた。


 だけど一つ聞いた。


 ハメ撮りを見せたかどうかだ。


『安心しろって。あいつにしか見せてないから。それに、あー何と言うか、可哀想だろ? 未練でもあったらよ。だからお前の喜んでるところを見せてやったんだよ。ははは』



 ああ、これは明らかな嘘だ。


 私が振られたことになっているのに、未練も何もないじゃない。


 敦志は誰からバレたのかを聞いてきたけど、黙っていたら、勝手に金田という悪友のせいにして納得していた。


 それすらも本当かどうか怪しかったけど、どうでも良かった。


 世界は色を失っていて、とことんまで現実味が薄れていた。





 それはそれから一週間ほど経った後に知った事実だった。


 潤くんは入水自殺を計っていた。


 たまたま近くにいた釣り人に助けられたから良かったものの、一時生死の境を彷徨っていたらしい。


 お母さんから事情を聞いた私は、すぐに病院へと向かった。


 虹歌を実家に預けて私は向かった。


 面会謝絶とはなってなかったけれど、おばさまには拒絶されるかも知れない。


 怖いけど、行かない選択肢は無かった。


 病室には寝てる潤くんしか居なかった。


 顔に小さな切り傷はあるものの、随分と穏やかな寝顔だった。


 あの日のことは、やっぱり嘘だったんじゃないか。


 潤くんがあんなことするわけないじゃない。


 いや、嘘じゃないからこそ、自殺をしたのか。


 救済とは、先に進むとは、潤くんにとって自殺だったのだろうか。


 私は静かに眠る潤くんを見て、世界の色が戻ってくる気がした。


 ホッとしたのも束の間、ふとベッドの横のサイドテーブルが目につく。そこには、あの日見たスマホがあった。


 不意に手を伸ばし外観を確認するも、間違いない。


 すると、潤くんが目を覚ました。



「んん、ふぁああっと、ん、あれ。看護師さん?」


「……綾香よ、潤くん。無事で良かった…」



 あんなことがあった後に、何と声を掛けて良いものかわからなかったけど、潤くんの頬には赤みが差していた。あの時とは違い、闇が晴れていて、やっぱり嘘だと思って私は泣きそうになった。


 けれど、眉尻は下がり、困惑した顔をしていた。



「? 誰?」


「……や、綾香だよ。冗談やめてよ…」


「? 冗談じゃないけど…誰と間違えてるの?」


「…嘘…嘘よ、ね…?」



 きょとんとした潤くんのこの顔とこめかみを掻く仕草は、本当にわからない時のものだ。


 それにこの話し方って…



「え、あ、あはは…綾香だよ、綾香。潤くんの小さな頃からの──」


「潤一!」


「ああ、母さん? このお姉さん、誰かと勘違いしてるんだよ。案内してあげてよ。何か泣きそうだし」



 その言葉に、私は涙すら忘れ放心していた。



「ええ、そうね。お母さんこの人と出てお話してくるから、まだ安静にしててね」


「はいはい」


「ふふ。……さあ、出ましょうか」



 おばさまの驚くほど暖かい声に導かれて、私は病室を後にした。


 どうやら潤くんは記憶喪失になっていて、小学生頃にまで戻ってしまったらしい。


 でも、私のことなど、覚えていなかった。


 まるで他人みたいに見ていた。


 あの時のように。


 首飾りを抱えた時の潤くんみたいになっていた。


 

「そんなわけでね。もう来ないで欲しいの。ふふ。本当に良かった。神様って居るのね」



 それが、本当におばさまの本心だとわかった。





 咄嗟に持って帰ってきてしまったスマホを、いや、確認したくて持って帰ってきたのだ。


 幸い、海に水没したわけではなかった。


 誰がそこに置いていたのかはどうでも良かった。


 きっと神様のいたずらだと思うことにした。


 それに例え悪いことだとしても、あの日から続くこの非現実を泳ぐ私の意識にピリオドを打ちたかったのだ。



「なに…これ…」



 そしてそこには、潤くんの言うようなこと全てが、軽く霞んでしまうくらいのこと全てがあった。


 潤くんは、わたしに嘘なんてつかない。


 当然だ。当然の話だ。当たり前の話だった。

 


「あは、ははは、ははは、は、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ──」



 だから私は、虹歌をお迎えにはいけなくなった。


(だからわたしは、いろいろとよういをしなくちゃいけなくなった)


 私は、いつものように晩御飯の支度に取り掛かった。


(きっとこのままわたしがのみこめば、なにげないまいにちがつづくのだとはおもうけれど、したくにとりかかった)


 敦志には、虹歌を実家に預けてあると言った。


(かこはかえってはこないけれど、いまをかえることはできるとおもった)


 きっと股間をびんびんにさせて帰ってくるだろう。


(そうすればきっとまたじゅんくんはきれいなかいがらをまたひろいあつめてつくってくれるっておもった)


 天を突く敦志のそれは、どこにも刺さる事のない夜を宛てもなく馬鹿みたいに彷徨うことになる。


(とてもきよらかな、とおくあたたかなおもいでのつまったくびかざりを、こんどはわたしがつくろうとおもった)


 それが本来納まると思い込んでいるこの私のこの穴は、所在なくぽっかりと空いたままになる。


(じゃないと、わたしもさきにはすすめない)


 愛も、欲も、汁も、液も、ああ、虹歌でさえも。



「おかえりなさい、あなた」



 いくら見上げても、もう何もここからは溢れない。


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