第6話 どうする、モカ
何てことでしょう。またも犬になってしまいました…。
あれから、寝室には絶対にモカを入れないようにしていました。いえ、入れていません。
それなのに口うるさい、彼の母と姉がやっと帰ってくれた後、もう、疲れてソファーでぐったりしていました。そこへ、モカがやって来たことは覚えています。
ついにやってしまったと言うか、そこまで気が付かなかったと言うか。そのままうたた寝してしまったようです。それも、ほんの数分…。
でも、目を開けた時は、モカと入れ替わっていました。またも、犬になってしまいました。モカは大はしゃぎです。
「わあ、また、人間になれたぁ。うれしいぃ」
「モカ!!」
その声に、びくっとなるモカ。
「こっちへ」
モカは側へやってきました。そして、私を抱きしめました。
このまま、もう一度眠れば、また、入れ替わるかも…。
いえ、こんな状況で眠れる筈がありません。
「あっ、私は何をすれば…」
その時、チャイムが鳴りました。思わず、ドキッとしました。
まさか、母と姉が舞い戻って来た…。
私とモカは玄関へ行き、ドアスコープで、誰であるか確認するようにモカに言いまった。
「哲也さん」
ああ、良かった…。
そうでした。母と姉を送って行ったのでした。でも、この時は、またも犬になってしまったショックに怯えていました。
「しばらく、来るなって言って置いたから。休みなのに、さっぱり休みにならないからさ」
「あのね、哲也さん」
モカが言いました。
「なに」
「実は、実はね」
ああ、モカにも私の苦悩がわかる様です。自分の言葉で私と入れ替わったことを伝えました。
----ありがとう。モカ…。
「えっ、またっ」
彼は足元の私を抱き上げ、目を見て言いました。
「本当に…」
その後、私たちはこれからのことを話し合いました。
「コロナってことにしよう」
「でも、それではデパートに迷惑が掛かるし、何より、コロナなんて嘘つけば、ここにも、誰か、人がやって来るでしょ」
「それはない。あの二人はコロナを忌み嫌っている。コロナに罹るのは、特殊な人間だと思っている。それを、自分の息子、弟の彼女がコロナに罹ったなんて、口が裂けても言いやしない」
それならいいですけど、では、私の職場の方には…。
「入院したことにするか。そうだなあ…。そうだ、肝炎で入院てことにしよう」
「肝炎」
「以前、知り合いが肝炎で入院したことがある。とにかく、体がだるくて病院に行くと、肝臓の数値がものすごく高くて、医者に驚かれたそうだ。それで、一カ月くらい入院して、その後は元気にやっている。それでいこ」
本当に、彼には頭が下がります。彼がいてくれるから、私もモカも生きて行けるのです。差し当っては、これで行くしかありません。でも、私はやはり、人間でありたいです。こんなこと考えたくもありませんけど、ひょっとして、ずっと、このままが続く…。
ああ、こんな時に限って、どうして、こんなことを考えてしまうのでしょうか。
そんな先のことを思い悩むより、この前だって、ちゃんと元に戻ったのだから、今は、これから先のことの方が大事なのに…。
夜は、久々に私を挟んでの川の字で寝ました。明日の朝は元に戻っていることに、期待して眠りました。
でも、翌朝、やっぱり、犬のままでした…。
仕事に出かけた彼は早引けをさせてもらい、昼から、食料品の買い出しに行きました。業務用スーパーにも行き、冷凍野菜も買いました。モカが包丁を使えないからです。
彼がスーパーで買い物をしてる間、私とモカは外で待っていました。人間になれたモカは、やはり嬉しくてたまらないようです。でも、そこのところは、勝手にあちこち行かない様に言い聞かせてます。
それでも、じっと待っているのは私もつまらないので、あくまでも主導権は私にあるとして、スーパーの近くを歩きました。この前と違って、モカも暴走はしませんでした。
それからのモカは努力しました。そして、日に日に人間らしく、人間の女らしくなって行きます。
でも、そのことが次第に、私には耐えられなくなるのです。元の人間に戻れないジレンマより、彼とモカがイチャついているのを見ると、どうしても、嫉妬してしまいます。ひょっとして、彼はモカを女として見ているのでは…。
そんな妄想に囚われてしまったり、今度は本当に元に戻ることが出来ないのではと、良くない方にばかり考えが行ってしまいます。
私は人間でありたい。人間の女として、生を全うしたいだけなのに…。
数日後の夜。彼は言いました。
「転職する」
えっ…。
驚きつつも、私の為に転職とは、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
彼は、肉屋の社長に、私が犬になったこと以外のすべて話しました。
姉が子連れ離婚して出戻って来た。家が狭いからと追い出される形で家を出た。今、同棲している彼女がいる。そこへ、母と姉がやって来ては「嫁いびり」をする。今からこの調子では、どんな人と結婚しようと嫁いびりは続くだろう。だから、母たちから、離れたい。
話を聞いた社長は、焼き肉チェーン店でよければ紹介すると言ってくれたそうです。但し、そのチェーン店は転勤もある。今はコロナ過で移動は控えているが、いずれは転勤も復活するだろう。
有難い話ですけど、またも彼に負担を強いることになります。
まあ、これには彼なりの理由もあるのです。彼がツイッターで書いている漫画『カノが犬になった』がそこそこ好評で、登録者数、いいねも増えてます。
彼は漫画家志望でした。でも、さっぱり芽が出なくて、幾分諦めかけていたところへ、私とモカが入れ替わってしまったものだから、それを面白おかしく描いていると言う訳です。でも、今後はストーリーをそれこそ、自分で作ればいいだけなのではと思いましたが、そこは、もう少し様子を見たい。入れ替わりは繰り返されるのか等、私とモカを観察したい。そんな気持ちもあるようです。
だからと言って、それを誰が責められましょうか。また、やはり、このまま捨て置けない。そんな優しさもあるのではと思っています。
しばらくして、正式に彼の転職が決まり、私も仕事を辞めました、と言っても、姿は犬のままです。今回は「犬」の期間が長いです。
彼は、賃貸のペット可マンションを見つけて来ました。ここから、車で1時間半くらいのところです。何はともあれ、引っ越しです。このマンションは売ることにしました。でも、モカはうろうろするばかりです。
日常の家事は何とかこなせるようになったとはいえ、それは、あくまでも私がやっていた日常の家事です。今まで、見て来たことでもあり、繰り返しやっていれば出来るようになったと言う訳です。でも、今度は引っ越しです。勝手が違います。
何とか引っ越しも終わりましたが、私もモカもくたびれました。犬はよく眠ります。それも、そのままで、どこでも寝てしまいます。私がフローリングで寝てしまったものだから、モカもソファーで寝てしまい、風邪を引いてしまいました。
「ちゃんと、ベッドで寝なきゃ駄目だよ」
彼がモカに風邪薬を飲ませながら言いました。幸い、軽く済みましたけど、私も落ち着きません。別に、新しい環境が合わないとかではなく、もしかして、私はこのまま、ずっと犬のままなのではとの思いに囚われ、いえ、私だけでなく、モカも元気がないのです。
「人間が、こんなにも大変だったとは…」
「人間も大変だけど、犬も大変よ。命あるものは、みんな、大変なのよ」
「それでも、人間が一番大変です。私はお金のことがわからないし、文字も数字も読めないし、包丁も怖くて使えない」
「それは、仕方ないわよ。人間は長い時間をかけてそれらを学んでいくけど、モカたちはそうも行かないもの。それでね、モカ。犬に戻った時は、人間だった時の事を覚えてるの」
「覚えてません」
「では、人間になった時は、何か、覚えてるとか」
「ええ、少しは覚えてると言うか、思い出します。でも、どうして、こんなことになってしまったのでしょうか…」
「それは、私にも、いえ、誰にもわからないことよ」
「私、犬に戻りたいです。一人で留守番は嫌だけど、由梨ちゃんとの前の家での暮らしは楽しかった。なのに、どうして、こんなことに…」
私たちは抱き合って泣きました。
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