第3話 山名さん
「モカ!!」
スマホはテーブルの上の小物入れの中ですが、私にはどうすることも出来ません。モカを呼び、スマホを取り出させ、通話状態にさせることが出来ました。
「お早うございます。すみません。今日ちょっと。あの、色々ありまして」
「えっ、なになに、どうしたの。よく吠える犬だなぁ」
えっ、私の声が聞こえない?私は尚も声を大きくして話しかけました。
「おーい、由梨ちゃん。早く出てよぉ」
何てことでしょう。私の声が聞き取れないなんて…。
その時、モカが言いました。
「ちょっと、待ってね」
「うん」
モカの声は聞こえる…。
ひょっとして、私の声はモカにしか聞こえない?と言うことは、私はモカとしか会話出来ない…。
私はモカに言葉を伝えることにしました。
「ごめんなさい。今日は行けなくなりました」
「ええっ、ドタキャン。楽しみにしていたのに、何かあった」
「はい。あの、電話ではちょっと…」
私は意を決しました。もう、彼しかいません。
「勝手を言いますけど、私のマンションまで来てくれませんか」
「えっ、いいの」
「はい、相談したいことがありまして。場所、知ってますよね」
「うん、すぐ、行く」
彼の名は、山名哲也。私と同じ、デパ地下の肉屋の副店長です。
私の仕事は、総菜屋の厨房の中ですから、限られた人としか接してませんけど、お昼は社員食堂で、他の売り場の人たちも一緒です。制服を見ればどこの売り場の人かわかります。ですから、彼の顔は知っていました。でも、それだけです。
「山名さん」
ある時、彼から声を掛けられました。
それにしても、どうして私の名前を知っているのでしょう。
「ああ、ごめんね。実は僕も山名なんです」
私の名は、山名由梨。
何と、彼も同じく「山名」だったのです。
「いや、同姓の人に会ったの初めてだから。別に珍しい名前でもないけど、不思議と今まで同姓の人に会ったことなくて。この間、山名さんで呼ばれたから、振りむいたら、あなたの方だった」
それから、彼と話をするようになりました。とは言っても、職場も勤務時間も違うので、挨拶程度ですが、肉屋に買いに行くと、その時は彼が出て来て値引きシールを張ってくれました。
「明日、予定ある?」
定休日前のある日、肉を買いに行けば、彼から言われました。
「いえ、特には…」
10時にデパートの前で待っていると言い残して、彼はさっさと店の中に入って行きました。
もう、私はびっくりです。これって、デートの誘いですか。
翌日、いつもなら一緒に遊んでくれる日なのに、出かける私を見て、モカはつまらなさそうにしていました。
デパート前で落ち合い、近くの喫茶店に入りました。
改めて、簡単な自己紹介となりました。彼の方は、ずっと母と二人暮らしだったのですけど、姉が離婚して子供3人連れて出戻って来ました。10歳の長女、姪は家が狭いと文句を言ってるそうです。でも、それまで住んでいた家の広さとそれほど変わらないのに、人数的に1人多いのと、やはり、異なった性はウザイとかで、とにかく彼に早く家を出て行ってほしい…。
「5対1。それも、あっちは女ばかり。もう、肩身狭くて」
私の方は、母や妹とは折り合いが悪く、親戚が海外赴任になったので、その間、このマンションに住まわせてもらっている。犬を飼っていることなどを話しました。
本当の事は、とても言えません。
それにしても、彼はどうして私なんかに声を掛けたのでしょうか。デパートにはきれいな女の人がたくさんいます。ああ、そうでした。聞いたことあります。きれいな人には既に恋人がいたり、端から相手にされない場合もあります。だから、私程度に目を付けた?
でも、私には、この大変な状況を相談できる人がいないのです。そのことに気が付いた時は愕然としました。
彼とは外で会うのは今日で3度目です。今日は少し遠出をすることになっていました。それが、急に家まで来てほしいと言われたのだから、さぞ、驚いたことでしょう。
あっ、でも、彼が来ても、おもてなしどころかお茶すら出せない…。
仕方ありません。彼が力になってくれることを願うばかりです。その前に、モカに彼との受け答えを教えなければ。そうこうしているうちに、彼がやってきました。
「いらっしゃい」
「お邪魔します。わあ、広くてきれいだなぁ」
私は、あれでもと思い彼な話かけてみました。
「ああ、かわいい犬。名前は?モカか。呼びやすいね」
やはり、私の声は届きませんでした。
彼はシュークリームを持って来てくれました。でも、モカが火を恐がるので、お茶の用意が出来ないのです。
「あの、手首を痛めてしまって、ガスが付けられないのです。ガスを付けてもらえませんか」
「それはいいけど。病院に行った方がいいんじゃない」
そう言いながらも、キッチンでガス火を付けてくれました。私はモカに皿とフォークの用意をするよう言いました。
「皿は、そろっと。気を付けてよ。フォークはそこじゃなくて、こっち」
モカもぎこちないながら、何とかやりこなしています。お湯が沸きました。
インスタントコーヒーとティーパックはテーブルの上にあります。彼は私の分もコーヒーを入れてくれ、皿にシュークリームを載せる頃には、私の様子がおかしいことに気づいたようです。
「痛いの。じゃ、先に病院に行こうか」
「いえ、大丈夫です」
「腱鞘炎かな。無理しない方がいいよ」
モカはもう、シュークリームが気になって仕方ないようです。ついに手を伸ばしました。そして、あっという間に、口の中に押し込んでしまい、やはり、咽てしまいました。
驚いた彼は、それでも、すぐにコーヒーをモカに飲ませようとしてくれましたけど、やはり、モカには苦かったようです。私は必死で、水を飲むようにと、モカに言いました。
「水を…」
彼は水の入ったコップを持って来てくれました。今度は、モカは少しずつ飲み、こぼすことはありませんでした。水を飲み、何とか落ち着いたモカに言いました。
「これから、話をするけど、ちゃんと、伝えてね」
「はい」
さすがに彼も、モカである私や、吠えてばかりいる犬の様子を訝しく思っています。
「お話があります。大変なことが起きました。信じてもらえないかも知れませんけど、本当の事です。真面目に聞いて下さい。お願いします」
「うん。真面目に聞く。それで、なに、どんなこと…」
「実は、朝起きると。私とモカが入れ替わっていました」
「えっ、入れ替わった?入れ替わったって、どういう事…」
彼もすぐには理解しかねたようです。当然です。誰だって、現実にこんなことが起きてしまうだなんて、夢にも思わないことです…。
「まさかぁ。えっ、その、まさかが起きたぁ。そんなこと、ある?」
彼も、混乱していることでしょう。それでも、先ほどからのモカと私の妙なやり取りに気が付いたようです。
「じゃあ。目の前の由梨ちゃんは由梨ちゃんではなくて、モカで。この犬のモカが由梨ちゃんてこと?」
「はい、そうです」
これは、モカが答えました。私も犬語で訴えました。
「ええっ、こんなことってあるんだ…」
「ですから、助けてください。お願いします。哲也さん。このままでは生きて行けません。私であるモカはどこかの病院へ、犬の私は保健所に入れられてしまいます」
「そうだけど。何をどうすれば…。ちょっと待って、考えさせて…」
しばらくして、彼は立ち上がり、ベランダに出ました。そこでまた、外を見ながら考えているようでした。
私は、モカに抱きしめられながらも、モカの不安が伝わってきました。そして、彼がベランダから戻ってきました。
「僕、ここに、引っ越して来ていい」
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