第9話 団地散策


 建国記念日の三連休の初日。

 まだ暗いうちに、ザックに荷物を詰めて〝丑〟を出発した。辺りは薄っすらと青く、高いところから鳥の囀りが聞こえてくる。


 〝丑〟のエントランスホールのすぐ脇に住む管理人さんに悟られないように慎重に階段を降りて、例の公園まで急ぐ。

 空にはまだ星と月。街燈に照らされて私の形をした青い影が躍っている。ザックの横につけたシェラカップが揺れて一歩踏み出す度に音を立てた。ふと〝丑〟を振り返り、しょうもない事を思う。時代が違えば建物には沢山の家族が暮らしていて、今私がしていることは、本当に子供の冒険ごっこみたいなものだったのかもしれない。子供でいいと言われた通りに、無邪気な遊びで済んだのかもしれない。


 〝寅〟のエントランスホールを突き抜ける時にあのエレベーターが見えた。1階に鎮座している籠は、まるで何世紀も前からそこにあるかのように眠っていた。階段には相変わらず段ボールや建築端材のようなものがごちゃごちゃと置かれていたけれど、どれも浅い海に沈んだ難破船の一部のように沈黙している。

 

 夏樹さんと会ったのがまるで昔の事みたいに思えて、私は思わず足を止めてしまった。と、耳が音を拾った。自分の足音で気が付かなかったけれど、私以外の誰かが敷地内で動いている気配がする。

 私は難破船の影に隠れて息を殺した。今来たばかりの方向で、大きな体で猫車を押す管理人さんの姿が見えた。こんな早くから活動しているとは思わなかった。彼は視界の端から端までゆっくりと移動して消えた。


「?」


 管理人の肩や背中から何かが飛んでいくのが見えたけれど、暗いからその正体は判然としない。

 私はゴーレムみたいな姿が見えなくなったのを確認し、そろっと隠れ場所から出て奥へと向かった。



 〝寅〟と、双子の〝卯・辰〟を区切る場所。そこに境界である一本のロープが張られている。ロープの向こう側は彼岸だ。

 たった一本のロープが作った別世界はこちら側と完全に様相が違う。〝卯・辰〟の入り口は枯れた蔦や木に覆われていた。壁は根に割られてひび割れてしまっていたし、太い幹が階段の踊り場から飛び出してしまっていた。取り払ったとしても、ここにもう一度人が住むことは不可能だろう。

 

 エントランスホールでさえ、今の時期でなければ草木が繁ってしまっていて侵入は難しかったかもしれない。管理人さんの旦那さんに見つかるといけないので、私は蔦をかき分けて中に入り込んだ。振り返って植物の隙間から覗くと、〝寅〟がマシに見えてくる。管理されている場所とされていない場所で斯くも違うものなのか。


〝卯〟のエントランスホールは建物に対して大きくて、2階分くらいの高さがある為、まるで門みたいだ。

 自分の靴が枯れた蔦の葉を踏む音がホール内に反響して嫌に大きく聞こえた。なるべく静かに息を殺して抜けると、急に空間が開ける。例の広場。以前、夜を越した公園だ。〝卯・辰〟の上、遥かに高い場所に硝子の屋根が覆っていて、その枠組みは相変わらず幾何学的な不思議な模様をしていた。蔓延る蔦と、ガラスの天井の為に、やはりここだけまるで別世界の様に暖かい。


 公園のベンチにザックの中身を置いてグランドシートで包んでおき、用心しながら更に〝丑〟に戻り、残りの荷物を運ぶ。湯たんぽも忘れずにしっかり持ってきた。荷物を全て運び込んだ後に、出口を求めて飛んでいたあの蝶を探したけれど何処にもいなかった。



 ベースキャンプの設営を終えて一息つく頃には日がすっかりと昇っていた。朝ご飯のパンと、淹れたての珈琲を飲みながら空を仰ぐ。見上げた硝子の天井から陽の光が射しこんで、建物を覆う緑の葉の表面が白く輝いている。植物達の中には小さな花を咲かせているものもあり、いよいよ季節感が狂ってしまう。


 パンを飲み込んでお腹を満たし目の前の建物へと視線を転じる。先にこの空間を形作る〝卯・辰〟の中を散策し、終わったらいよいよ〝巳〟へ向かう予定だ。目の前の双子棟は高さも無く、散策には然程時間は掛からないだろう。

 まずは〝卯〟から探してみよう。


 〝卯〟には〝寅〟にあったようなレトロなエレベーターがあったけれど、流石に動かす気にはなれなかった。伝言板がエレベーターの前の壁に置かれていて、ごみ収集の曜日変更のお知らせと、誰かの落とし物を管理人さんに預けたことが薄っすらと書かれていた。


 エントランスから1階居住区へ。通路がほとんど植物で埋まってしまっていて通り抜けるのに苦労した。蔦だらけの壁に埋もれるようにドアがあり、ほとんどの部屋は鍵がかかっていて入れなかった。たまたま壊れて開いてしまっているドアがあっても、中にあるのは朽ちた空き部屋だけで目ぼしいものは何もない。2階も同様で、すっかり崩れた部屋があるだけ。


 3階に着いてやっと変化が現れた。蔦のカーテンの内側で、まるで商店街のように看板や幟のようなものが置かれていた。通路に面して窓があり、ドアが開いていなくても中を見る事ができる。窓も当然アパートのそれではなく、大きな観音開きのものが据えつけられていた。


 喫茶店だったり、鍼灸院だったり。不思議なことに1階や2階よりも片付いていて、そういえば階段に〝寅〟みたいに粗大ゴミが置かれてはいなかった事を思い出した。

 どのお店も勿論無人で、まるでゴーストタウンに迷い込んでしまったような気持ちになる。喫茶店のサイフォンの硝子は曇ってはいたけれど、割れていなかった。カウンターの傍に黒電話が鎮座していて今にも誰かからかかってきそうだ──。

 通路に置かれた小さな木製の椅子や、灰皿。鍼灸院の窓には施術メニューが。本屋さんには棚に納まったままの本が。まるで帰ってこない主を待つみたいにそのまま置かれていた。


 突き当りにあったのは、麻雀店だった。店の前の廊下に三輪車があって、その存在が妙に浮いて見えた。ここのお店の子供が使っていたのだろうか。ひょっとしたらこの通路で三輪車を漕いで遊んでいたのかもしれない。それをご近所さんやお客さんはにこやかに眺めていたのかも……?


 ドアは開いていた。

 中に入ると幾つかの卓に、牌が転がっていた。埃を被った賽子を戯れにつまみ上げてみた。すると、まるで土で作ったように簡単に壊れてしまう。


「……」


 一個一個の店をのぞいてみたけれど、夏樹さんの工房と思しきものは見当たらなかった。手紙に入っていたヒントの品物は、H型をした金属の破片。これ自体が何かを作る為の道具なのか、それとも材料なのか分からない。どういう理屈か分からないけれど、賽子と同じように金属片が崩れて消えてしまった可能性も無きにしもあらず。


 それにしても、なぜこの建物の人達は中にある荷物をそのままにいなくなってしまったのだろう。店の中で思案に暮れていると、廊下の突き当りに放置してあった三輪車がきぃきぃと鳴いた気がした。ひょっとしたら蔦の間を抜ける微かな風のせいかもしれないのだけれど、同時に微かな足音を耳にして、私は後ずさりして店の奥へと隠れた。


 カウンターの中に身を潜め、耳を欹てる。やがて、ざ、ざ、と確かにこの廊下で足音が聞こえるようになった。誰? 脳裏を過ったのは先刻見かけた管理人さんの旦那さんだけれど、それにしたら、足音が軽い気がする……。心臓の音が煩く耳の奥で鳴っている。外に漏れて聞こえてしまうのではないかと思うくらい、ばくばくと鳴り続け、苦しくなってくる。足音はついに、私の隠れている店の前で止まった。一秒、二秒、胸に手を当ててゆっくりと数を数える。目を瞑り100を超えた頃、足音は遠ざかっていった。


 私以外の誰が立ち入り禁止区域に入ってきたのだろう。それとも、廃墟だと思っていただけで、何者かがここで暮しているのか?


 深呼吸してから意を決して店を出て、周囲を窺う。足音はもうしなかった。私は何かに追われるように4階へと上がった。そうして息を飲む。4階の廊下は一面の赤。キノコの傘のように奇妙に出っ張っているこの階は、1から3階と違い、廊下の両サイドに部屋がある。天井は例の硝子の天井で、それは向こうの〝辰〟まで繋がっている。

 剥げてはいたけれど赤く塗られた壁と、金の装飾。至る所に提灯が飾られていて、ほとんどが破けていたけれど、中には完全に残っているものもあった。我に返り見上げた横断幕で、その階全体が飲み屋街であることを知る。嘗て人の居た頃はさぞ賑々しかっただろう。アルコールや料理の匂いが漂ってきそうな気さえする。


 4階の床を踏む。大体のお店の入り口は木戸で出来ていたけれど鍵が閉まっていて入れなかった。待合の為のベンチに置いてあったメニューを取り上げると、これまた先ほどの賽子のように綴じ紐から徐々に脆く崩れてしまう。

 中に一件だけ入り口が壊されている店があり、慎重に中に入るとレジが乱暴に開けられているのが見えた。随分荒らされていて、ひっくり返った椅子や、壊れたテーブルがあった。泥棒が入ったのかもしれない。厨房にはよくわからない何かの塊りが台の上に置かれていた。もう虫さえ集らないくらい干からびてしまっていたけれど、多分、何かの肉だったものだ。




 一度キャンプに戻り、手帳にメモをして、次は〝辰〟へ向かう準備をする。〝卯〟だけでも、なんだかどっと疲れてしまった。ここでキャンプをしても大丈夫なのか保証はない。

 もしも管理人さんなら、厳重注意されるだけで済むかもしれないけれど、浮浪者がどこかに住んでいたら、危険だ。時計を見るとまだ午前10時を過ぎたところだった。〝辰〟の散策の後で、別の滞在地を見つけることも視野に入れた方が良いのかもしれない。それにしても、ここの住人は何故家具も何もかも置いていってしまったのだろう。賽子やメニューが簡単に崩れてしまった事と関係があるのだろうか?


「……ふぅ」


 〝卯〟の様子を記す手を止めて、手帳を閉じた。考えても仕方がない。私の目的は夏樹さんの工房を見つけることで、八番街の謎を解くことではないのだから。危険があったらすぐに撤退して〝丑〟に帰れば良いのだ。



 相変わらず公園の中は光で満ちていた。雨さえも避けられる硝子の屋根は便利だ。この公園は天候に関わらず何時だって遊ぶことが出来る場所だったはずだ。


 〝辰〟のエントランスホールも予想していた通り、〝卯〟と変わらず天井が2階の高さまである広い空間だった。レトロなエレベーターも、伝言板もそっくり同じ。なんなら伝言板に書かれた内容まで同じ、ごみ収集日の変更と落とし物のことだった。違いは一枚の紙が磁石で留められていたこと。紙は古ぼけて見えたけれど、よく見ればあの土地開発のチラシだった。


「なんでこんなところに」


 驚きで思わず呟いてしまう。手に取ると、外の物と同じように持った場所から崩れてしまった。そんなに古いものではないはずだ。配られ始めてから、多分一年も経っていない。呆然として床に落ちた紙片を見つめる。奇しくも残った一片に日付が書いてあることに気が付いた。


「これ、去年の8月の」

「そのようだね」



 突然、すぐ近くで話しかけられた。腰を抜かさんばかりに驚いて、否、実際に腰を抜かしてしまった。目の前に立っていた人物は呆れたように腰に手を当てて私を見降ろしていた。



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