彼女の呪いが解けるとき 8




 ジャニは、震える体を押さえつけるように、思い切り息を止めて縄梯子から身を乗り出していた。

 自身の震えを悟られるわけには行かない。毅然とした姿勢で敵船の前に身を差し出しつつも、ジャニはリチャードの視線に身をすくませていた。

 あの、自分を支配していた青い目がこちらを見ている。もう、彼は自分の正体に気づいているだろう。その証拠に、こちらに銃を向けていた部下たちをリチャードが怒鳴りつけている。


 島を出て、イグノアの軍艦に取り囲まれていると気づいたクックは、すぐにジャニを宝が詰められた麻袋の影に隠した。


「この距離なら、まだ向こうはお前に気づいていないだろう。俺たちがあの船に乗り移るまで、ここに隠れてろ」

「嫌だ! 私だけ助かりたくなんかない!」


 もう逃れようのない絶望的な状況に、流石のクックも諦めてしまったのか。ジャニは胸が塞がる心地がした。一人取り残される恐怖にジャニは抵抗したが、クックの思惑は別にあった。


「俺が時間稼ぎをする。皆の目がボートからそれたら、お前は密かに泳いで翼獅子号に乗り移り、バジルたちの縄を解くんだ」

「クック、危険すぎる! 無茶だ!」


 ジャニの身を案じて抗議の声を上げるロンに、しかしクックはじっとジャニの目を見つめて言った。


「このまま全員あいつらに捕まれば、例外なく縛首だ。お前も、リチャードの屋敷に連れ戻される。それでいいのか?」

「・・・・・・いやだ。私は、みんなと一緒にいたい」


 涙ぐみながら首を振るジャニに、クックは口の端を上げて笑って見せた。


「ジャニ、お前ならできる」


 そして、クックたちはリチャードの船に連行されてしまった。

 残されたジャニは、クックの言う通り、海兵たちの目がボートから逸れた隙に、静かに海に潜って翼獅子号を目指していた。

 体温を奪い取る冷たい海水に、行く手を阻む波に、何度も気持ちをくじかれそうになる。しかし、クックはまだ、諦めていないのだ。自分がここで諦めるわけにはいかない。

 なんとか翼獅子号に辿り着いたジャニは、必死で短剣を駆使しながら船体を登り、甲板に辿り着いた。見張りの海兵から身を隠しながら、縛られているバジルたちの元に忍び寄る。ジャニの姿に気づいたバジルは驚愕に目を見開いたが、ジャニが短剣で縄を切り落とすと、ニヤリと笑ってジャニの頭に手を置いた。


「よくやった、後は任せろ!」


 そして拘束を解かれたバジルと船員たちは、船に乗り込んでいた海兵たちに後ろから襲い掛かり、船を奪還することに成功した。

 しかし、リチャードがクックの頭めがけてサーベルを振り上げたのを見て、ジャニは無我夢中で飛び出したのだ。


 ジャニは声が震えないよう腹に力を込めて、リチャードに向かって怒鳴った。


「クック船長たちを解放して! 今すぐ!」

「ジュリア、何を言っているんだ。この海賊どもに感化されておかしくなってしまったのか? 早く、私の元に戻っておいで!」


 両手を広げ、優しくそう言いながら、リチャードがかたわらの部下に横目で指図したのを、ジャニは見逃さなかった。指図された部下が、柱の影に隠れながらバジルたちに向かって銃を構えている。

 それに気づくと、ジャニは手にしていた短剣を自分の首元に突きつけた。リチャードの顔から血の気がひく。


「ジュリア、何を・・・・・・!?」

「彼らに手を出したら、私はこの首を切り裂いて死ぬ」


 ジャニは、もう自分の手が隠しようがないほど震えていることに気づきながら、鬼気迫る表情でリチャードを睨みつけた。


「おい、ジャニ! 何してるんだ、やめろ!」


 クックやバジルがギョッとして叫ぶが、ジャニは動かなかった。ただ、リチャードの目を見つめ続けていた。


(私を、愛してくれているのなら)


 今まで、恐れ続けていた祖父の目を真っ直ぐ見つめながら、ジャニはこれまで切望していた彼の愛情をその目の中に探していた。


(皆を助けられる方法は、これしかない・・・・・・!)


 その時、リチャードの傍で、密かに動く者がいた。

 キアランだった。

 彼は腰のピストルを抜き取り、真っ直ぐジャニに向かって照準を合わせた。


「そんなに死にたいなら、さっさと殺してやる! 邪魔な小猿め!」


 蔑むような笑みを浮かべ、キアランの指が引き金にかかる。ルーベルとパウロが阻止しようと飛び出すが、間に合わない。


 周りを凍り付かせるような銃声が一発、響いた。


 ジャニがひゅっと息を止める。

 やがて、息が詰まったような咳を一つして、口の端から血を流して倒れ込んだのは、キアランだった。

 いつの間にか、リチャードの手にはピストルが握られ、その銃口はキアランに向けられていた。彼の手はわずかに震えている。

 胸を打たれて即死したキアランの姿をしばらく見つめた後、ジャニはリチャードに視線を向けた。

 リチャードと目があった。

 彼の目は、必死でジャニの体に傷がないか確かめていた。そしてジャニの無事を確かめると、心からの安堵を浮かべたのだった。

 二人の視線が絡み合う。

 その時、ジャニは言いようのない感情に心を揺さぶられた。視界がぼやけていく。リチャードの顔が歪んでしまう。まるで、泣きそうな表情にも見える。でも泣いているのは、自分の方だった。

 もう、彼の元には帰れないと思う。許せないという気持ちもまだしこりのように残っている。それでも、自分が求めてやまなかった彼の愛情は、ずっとずっと前から確かにあったのだ。

 自分が気づかなかっただけで。

 リチャード自身にも見えていないところで。

 二人の間に、それは確かにあった。


(お祖父様。ごめんなさい。ごめんなさい)


 ジャニの頬に、涙がいく筋も伝っていく。


(私はもう、“ジュリア”には戻れない。“仮面の少女”はもういない。お祖父様の元には戻れない。だけど)


 喉元に突きつけていた短剣を、ゆっくりと下ろす。


(私は、あなたに愛されていた。それだけは、信じていいんだよね?)


 どれだけ、見つめあっていただろうか。

 ふと、リチャードの目に、拭えぬ痛みがよぎった気がした。しかしそれは一瞬で、リチャードはジャニから視線を逸らすと、隠れて銃を構える部下たちに向かって静かに声をかけた。


「銃を下ろせ。奴らを解放しろ」

「な、何を言っているんですか、提督!? あんな小僧の言うことに従うのですか!?」

「言う通りにしろ!!」


 リチャードの怒号は雷のように轟いた。部下たちは気を飲まれたように立ちすくんでいたが、やがて彼に言われた通り、銃を下ろし、クックたちの縄を解いていった。

 自由になり戸惑うクックに、リチャードは視線を逸らしたまま言う。


「あの宝を積んだボートは戴く。私の気が変わらないうちに、さっさとあの船に乗って消えろ」


 クックは、固く口を閉ざしているリチャードをしばらくじっと見つめていたが、何も言わずに背中を向け、ロンたちを引き連れて、翼獅子号に向かって架けられた渡し板を歩いていった。


「ジャニ」


 翼獅子号に乗り込んだクックに声をかけられ、ジャニはリチャードの船から視線を逸らし、振り返った。


「本当に、俺たちについてきていいのか?」


 クックの表情は真剣だった。

 彼の後ろでは、ロン、メイソン、グリッジー、パウロ、ルーベル、アドリアンを抱えたウルドもこちらを伺っている。

 彼らの案じる気持ちがひしひしと伝わり、ジャニは恐怖と緊張で強張っていた体が内側から解きほぐれる心地がした。

 確かに、リチャードの元へ帰れば、何不自由ない暮らしが待っているだろう。だがそこに、本当の自由はない。鳥籠に入れられた鳥のように、もう二度と羽ばたくことのない青空を見上げることしかできないのだ。

 そしてこの船に乗っている限り、約束された安全はない。生きるための戦いに翻弄ほんろうされ、明日の命も定かではない。しかしここには、みんながいる。

 ジャニは力強く、頷いた。


「私は、ここで生きていきたい」


 クックの顔に柔らかな笑みが浮かんだ。しかしそれは一瞬で、すぐに表情を引き締め、船中に轟くような声で号令をかけた。


「さっさとバルトリア島に帰るぞ! 面舵いっぱい!」

「了解、船長!」


 喜びに満ちた喧騒を背後に聞きながら、ジャニはゆっくりと遠ざかっていく軍艦に目をやっていた。

 軍艦の船縁から、リチャードがじっとこちらを見つめている。

 またいつか、彼と出会う時が来るのだろうか。

 自分がこの道を選んだ以上、次に会うときは剣を交えることになるかもしれない。それでも、その覚悟を胸に、自分は生きていかなければならない。


(さようなら。ごめんなさい。ありがとう)


 どんな言葉も、この場にはそぐわない気がした。だからジャニは、ただ、想いを込めた微笑みを唇に浮かべた。


(私も、愛していたよ)


 リチャードが、何か言った気がした。しかし、もう言葉は届かない距離になっている。彼の口元を覆う髭で、唇を読むこともできない。


「ジャニ! 早く来いよ!」


 パウロが自分を呼ぶ声が聞こえる。

 ジャニは断ち切るように視線を逸らし、リチャードに背を向けた。






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