妖獣の唇に セイレーンの涙を

茅野 明空(かやの めあ)

プロローグ



 曇天の空に、カモメが舞っている。

 海は黒く重く波打っていた。波はそこまで高くなく、しずかに上下する程度だ。

 その海の中に、ポツンと漁船が浮かんでいた。マストも一本しかないような、古びた小さな漁船だ。帆もボロボロで、いたるところにつぎが当たっている。

 その漁船が大きく揺らぐ。右舷で上半身裸の若い青年が網を引っ張り上げていた。網を持ち上げて引き摺り込むたびに、船が揺れている。


「もっと丁寧に上げんか! 船が沈むわ!」


 船首でラム酒の入った瓶を片手にくつろいでいた老人が、青年を怒鳴りつけた。顔がだいぶ赤らんでいるので、相当酔っ払っている様子だ。


「じゃぁ爺ちゃんも手伝えよ!」


 青年が苛立ったように老人をなじる。老人は肩をすくめて瓶に口をつけた。青年は呆れたようにぐるっと目を回し、網を上げる作業を続ける。

 その時、網の最後を引っ張り上げた青年の手元から、何か硬質なものが音を立てて甲板に転がった。


「なんだ?」


 青年が訝しげにその物体を覗き込む。

 それは小脇に抱えられるくらいの大きさの不思議な色をした箱だった。

 二枚貝の内側のような、青、緑、薄いピンクのグラデーションが淡い輝きを放っている。女性の宝石箱のようなデザインだ。あけ口と思われる部分には、変わった形の鍵穴がついている。

 青年は箱を持ち上げて、色々な方向から眺めてみた。と、箱の裏側にナイフで削ったような文字が刻んである。


「なんか、書いてあるな。デ・・・・・・?」

「なんだ、見せてみろ」


 老人が瓶を脇に置いて、青年の横に近づいてきた。箱を受け取り、その文字を目をすがめて読んでいた老人の顔が、驚愕に歪む。


「こっ、これは!」


 箱を取り落とし、老人は甲板に尻餅をついた。その目は見開かれ、信じられないと言う様子で箱を凝視していた。


「デイヴィッド・グレイの宝箱じゃないか・・・・・・!」

「何言ってんだよ爺ちゃん。デイヴィッド・グレイは伝説の海賊だろう。実在しないって」


 呆れたように笑う青年に、しかし老人は怒りをあらわに手を振り上げた。


「伝説じゃない! 六十年前に実在した海賊だ! 俺はやつの船を見たことがある」


 老人は震える手を箱に伸ばした。その顔は恐ろしいものを見たような、でもどこか夢見心地のような、なんともいえない表情を浮かべていた。


「こりゃぁけったいなこった・・・・・・デイヴィッド・グレイの宝箱にはやつの航海手帳が入ってると言われている。その手帳に書かれてるはずの場所に辿り着いた者は、巨万の富を得て、さらに・・・・・・」


 老人の顔からは酔いが完全に覚め、その目は爛々と輝いていた。


「呪いを解くことができる」

「呪い?」


 青年が訝しげに老人を見やる。老人は青年の言うことが聞こえていない様子で、よろよろと立ち上がると、畳んでいたマストのロープをほどきはじめた。


「早く、早く帰るぞ! これを、ウアサル様に届けねば」

「爺ちゃん、どうしたんだよ? そんな箱大した値打ちもないだろう?」

「何を言っとる! これを手に入れようとどの国も動き始めるぞ!」


 戸惑う青年を前に、老人は雲行きの怪しい空を見上げた。


「国だけじゃない。忘れ去られていた生き物も目を覚ますじゃろう。恐ろしい、呪われた精霊が・・・・・・」


 老人は気づいていなかった。漁船のすぐ側の海面に、碧色に輝く鱗がチラリと瞬いたことを。

 鱗はすぐ見えなくなり、魚が跳ねた後のような波紋だけが、残った。



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