この追手、只者ではない
自転車を漕ぐこと三十分。僕と先輩は山の中にいた。周囲は樹木と雑草に囲まれ獣道すらない茂みの中だ。
「ここならひとまず安心だろう」
こんな場所に逃げ込んだのは車での追跡を防ぐためだ。先輩一人なら時速七十kmで自転を漕ぐことも可能だが、僕の自転車も引っ張ってとなればそこまでのスピードは出せない。追手が車を使えば簡単に追いつかれてしまう。そこで車では走行不可能な岩場、茂み、段差の多い山の中を隠れ場所に選んだのだ。
「先輩、疲れたでしょう。これを飲んでください」
「うむ。良き心がけだ」
祭り会場で先輩のオレンジジュースと一緒に買ったお茶のペットボトルを差し出す。飲まずに取っておいてよかった。
「クリアちゃんも飲む?」
「あたしはいい」
声の調子は落ち着いているが表情はまだ硬い。よほどあの二人が怖いのだろう。
「ねえ、クリアちゃんはどうして逃げ出したの」
「自由になりたかったの。あたしは何十年も閉じ込められていた。誰かに会うこともお喋りすることもできなかった。つらくて寂しくて仕方がなかった。だから逃げたの」
「それはひどいな」
何十年も閉じ込められていたってことは僕よりも年上なのか。まあ人じゃないわけだし容姿と年齢がかけ離れていても不自然とは言えないだろう。
「こんな童女を閉じ込めるとは許せんな。俺がお仕置きしてやる」
「やれるものならやってごらんなさい」
いきなり背後から聞こえてきた女の声に背筋が凍りそうになった。振り向くと黒づくめの二人が立っている。
「馬鹿な。どうしてここがわかった。どうやってここに来た。おまえたちは何者だ。ブドウジュースは持っているのか」
一度にたくさん質問するのは先輩の悪い癖だ。しかも最後にブドウジュースか。魔王の影響はなかなか消えないようだ。
「これくらいの距離ならすぐわかるのよ。その子もあたしたちも人じゃないんだもの。車や自転車を使わなくたって長距離移動なんか簡単にできちゃうのよ。それよりあなたたちこそ何者よ。どうしてその子が見えるの。どうしてその子を
律義にも全ての質問に答えてくれた。意外にいい人なのかも、いや人じゃないんだったな。
「これこれ、そんな敵対的な言い方はよくありませんよ。もっと友好的に話し合いましょう」
もう一人は男のようだ。言葉遣いは丁寧で腰も低いし、交渉するならこっちだな。
「きっとこのお二人は人並み外れた霊感の持ち主なのでしょう。たまにいるんですよ、我々を感知できる人間が」
「よくわかっているじゃないか。ならばその人並外れた男を怒らせればどうなるかもわかっているだろう。痛い目に遭いたくなければ早々に立ち去るがよい」
あーもう。せっかく平和的に解決しようとしてくれているのに。これじゃまとまる話もまとまらない。
「先輩は黙っていてください。いいですか、よく聞いてください。クリアちゃんはあなたたちを怖がっています。帰りたくないと言っています。こんな状態であなたたちに引き渡すわけにはいきません」
「ではどうしろと」
「自由にさせてあげてください。暗い部屋に閉じ込めたりせず、青空の下で伸び伸びと遊び、誰とでも楽しくお喋りし、お腹いっぱい食事をして、ぐっすり眠る、そんな日々を与えると約束してくれればクリアちゃんを返します」
「おう、そりゃいいな。そんな毎日が送れるのなら俺もおまえたちと一緒に暮らしてやってもいいぞ」
先輩の言葉は完全に無視して黒づくめ男はすまなそうに言った。
「残念ですがそれは不可能です。昔その子は世界に甚大な被害を与えました。それほど危険な存在なのですよ。閉じ込めるのはあなたたち人間を守るためでもあるのです。どうかご理解いただきたい」
「たくさんの人のためならこの子を苦しめても構わないって言うんですか。そんなの可哀想すぎますよ。絶対に認められません」
「ではどうするおつもりですか。見たところあなたは普通の人間で、そちらの目付きの悪い青年のおかげでその子を感知できているのでしょう。しかもその能力も限定的。やがて認識すらできなくなるはず。そうなったら存在しないのと同じではありませんか」
「そ、それは……」
そこまで見抜かれていたのか。確かに先輩の能力は限定的だ。肉と豆が消化されて胃から消えれば魔王の力は完全に消え感知能力も消える。現に今のクリアちゃんの姿は最初の頃に比べるとぼんやりと薄れ始めているのだ。
「それにもしその子が普通の人間だったらあなた方の行為は未成年者略取に該当します。正当な保護者である私たちに引き渡そうとしないのですからね。非難されるのはあなた方です」
「……」
もはや何の反論もできない。クリアちゃんには気の毒だがこの男の言う通りにするしかなさそうだ。
「わかりました。では」
「ちょっと待て。そんなに簡単に手放していいのか。後は俺に任せろ」
また先輩がしゃしゃり出てきた。でも今回は好きにさせておこう。もう僕には打つ手がないからな。
「そちらの言い分はよくわかった。おまえたちのモノはおまえたちに返そう。だが少しくらい誠意ってものを見せてくれてもいいんじゃないか」
「と言いますと」
「迷子を発見し、手厚く保護し、今まで無事に見守ってきたんだ。謝礼くらい貰ってもいいだろう。そうだな、百万円くれ。そしたらこの童女を返してやる」
吹っ掛けたなあ。たかだか一時間程度面倒見てやっただけなのに。時給百万円ってどこのカリスマホストだよ。
「それはまた法外な謝礼金ですね。はっきり言って無理です。私たちは人ではないのでそれほど多くの現金を所持しておりませんから」
「そうか、じゃあ十万円でいい」
いきなり九割引きかよ。駆け引き下手すぎるだろ。
「それも無理です」
「じゃあ一万円」
「無理です」
「九千九百九十九円」
「無理です」
「九千九百九十八円」
「無理です」
それからは延々と一円引きの交渉が始まった。横に立っている黒づくめ女の表情が怒りに満ちてくる。
「ああもう、
「これこれ、短気になってはいけないよ」
「うるさい。これ以上は時間のムダだ。こうしてやる。かっ!」
「ぐはっ!」
黒づくめ女の掛け声とともに僕の体は地面に叩き付けられた。動けない。両手両足は完全に伸び切ってビクともしない。この二人、こんな力が使えるのか。
「いやあー!」
クリアちゃんの悲鳴。這いつくばったまま見上げると宙に浮いている。
「さっさとこうすりゃよかったんだ。力こそ正義さ」
「やれやれ仕方ありませんね。さあ、こっちにおいで」
「やだー、帰りたくない!」
宙に浮いたクリアちゃんが二人の方へ引っ張られていく。ああ、こんな形で奪われてしまうとは、遣る瀬無いことこの上ない。
「おっと、そうはさせるか」
先輩が飛び上がった。五mほどの高さに浮いているクリアちゃんを抱きかかえて着地。まだまだ魔王の力は健在のようだ。
「ふっ、俺の自由を奪おうなんて百年早いぜ」
「ウソでしょ。あたしの金縛りが効かないなんて。それにその跳躍力、世界記録を超えてるじゃない」
「ほう、そちらの青年、ただの人間ではないようですね。こうなったらこちらも本気も出しましょう」
二人は黒いサングラスを外した。両目が青く光っている。晴れ渡っていた空に黒雲が広がり始めた。
「天誅!」
二人の声と同時に稲光と雷鳴が発生し先輩を襲った。
「うわああ!」
「先輩!」
どうなってんだこの二人、自然現象である雷まで自由に扱えるのか。いかに先輩でも雷の直撃を食らわされたらヤバいだろ。
「う、ぐぐ、なんのこれしき」
おお、クリアちゃんを抱いたまま両足で踏ん張っている。頑張れ先輩。
「しぶといわね。ならこれでどう、平伏!」
「ぐおっ!」
先輩の片膝が地に着いた。相当な重力が全身にかけられているようだ。ああ、先輩の両腕がだらりと垂れる。抱いていたクリアちゃんが地に落ちる。
「信じらんない、あんたどんだけタフなのよ。これほどの力を受けても倒れないなんて。これはもう人じゃないわね」
「そうですね。この青年、かなり危険な存在かもしれません。後顧の憂いを断つためにもここで命を奪っておいた方がよさそうですね」
二人の両手が光を放ち始めた。まずいぞ。本気で先輩を亡き者にするつもりだ。くそっ、こうなったら一か八かだ。
「先輩、動けますか」
「あ、ああ。まだ体の自由は残っている」
「僕のリュックにブドウジュースが入っています。先輩から取り上げたものです。あれを飲んでください」
「いいのか。あとで代金と慰謝料合わせて三万円払ってくれって言われても払わんぞ」
「このまま死を待つよりマシです。肉と豆が消化される前に早く!」
「わかった」
のろのろと体を動かす先輩。ここまで弱体化させられた姿を見るのは初めてだ。あの黒づくめの二人、相当な力の持ち主だな。
「ごくごく……はーうまかった。んっ、んんん、ぐわあああー!」
先輩が苦しみだした。でも放っておく。前回の魔王発動時もこんな感じだったからな。
「ちょ、ちょっと何よ。まだ術をかけてないわよ」
「どうも様子が変ですね」
「ふっふっふ」
含み笑いと同時に先輩の体が巨大化した。言葉を失って立ち尽くす黒づくめの二人。
「我はクロノス・パワード。異界の大魔王。小賢しい精霊の分際でよくもやってくれたな。目に物見せてくれる」
あーあ、魔王が発動しちゃった。後は野となれ山となれ、だ。
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