第4話 『デビルマン』という名

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 こんにちは。ようこそお越しいただきました。

 ここはダラダラと映画のイメージを述べていくエッセイです。大抵映画の感想ですらない。


 さて、映画エッセイ流れ第4弾は『劇場版デビルマン』です。リクエストを頂いたので書いてみます。ホラーから外れたぞ! 多分。

 劇場版デビルマンはご存じの通り永井豪原作の漫画を元にしている。原作漫画は当時としてはエロも交えた大人且つ深い世界観の特異さとインパクトの強さから大ヒットした(多分、なにせ連載が自分の生まれる前なので)。それでアニメになり様々なスピンオフ作品を色々な作家が書いている、ようするに名作中の名作といっても過言ではないだろう。自分も超好きだし。デビルマンの内容については頁末尾にネタバレとして書いています。


 この映画はあらゆる意味で失敗した。その主な要因を絞りに絞れば2つある。1つ、構成が酷い。2つ、役者が酷い。


1.デビルマンの構成

 1つめの構成について。この映画のある意味凄いところは、この映画には原作漫画に出てくる名前がありそうな奴らはみんな出てくることだ。それでその場面場面の配分が無茶苦茶だ。そしてその混乱は原作を知っているかどうかは関係ないレベルで生じている。

 デビルマンというとどういう話が思い浮かぶだろう。人間不動明がデビルマンになって悪魔と闘う。シンプルに行動を追えばこれが骨子のはず。


 一番無茶苦茶なところ。上記内容を前提とすればそのメインはデビルマンが悪魔と戦うところだろう。確かに不動明はデビルマンに変身して悪魔と闘う。けれどもそのシーンが著しく少ない。2時間の尺でデビルマンが出てくるのは最後10分だけ。スーパーマンでクラーク・ケントが最後10分しかタイツシーンにならなきゃ詐欺だと思うだろ?

 何故こんなことになっているかというと、他のキャラの登場シーンを単純に平板に割り振ったからだと思う。


 デビルマンが悪魔と闘うシーン、飛鳥と不動明のシーン、シレーヌのシーン、ジンメンのシーン、美樹ちゃんのシーン、ミーコのシーン、これらのシーンを重軽を考えず平板に均等に割り付けている感がある。

 ミーコって変な液出すだけのキャラのはずなのに、デビルマンと一緒にいる期間が長いからヒロインであるはずの美樹ちゃんより長尺だ。


 うーん、でもこの説明だと恐らく原作を知らない人は理解できない。

 じゃあ桃太郎に例えよう。桃太郎には犬猿雉以外にもおじいさんとおばあさんと桃が出てくる。桃太郎が鬼退治をしている(デビルマンが悪魔と闘う)シーンと同じ長さで桃が上流から川を下ってくる映像が流れる。鬼退治と同じ長さのシーンでおじいさんが芝を刈っている。おばあさんも長々と洗濯をしている。

 これ、物語のメインストリームがどこにあるかわからないよね。


 加えて原作にもない且つあまり意味があるとは思えないオリジナルのシーンに尺が裂かれている。例えば美樹ちゃんを盗撮するストーカーとかデブが3人ボディプレスするとか。そんなのを入れるならもう少しシレーヌ増やすとかあるだろう(主役2人については次項のとおり増やしても無駄に思う)。


 何故こんなにミーコに長尺を割っているのだろう。事務所のパワーバランスかな。ひょっとしたらあまりに演技の酷い主役他のシーンを削りたかったのかもしれない。本末転倒だけれど。そんなわけでミーコ役の演技は比較的マシだ。

 ともあれシーンの重要性の判断が明らかにおかしい。


2.デビルマンの役者

 2つめ役者が酷い。特に主演の2人が酷い。

 そもそもデビルマンは本来懐が深すぎる作品なんだと思う。『デビルマン』の世界は、【人間が悪魔になりうる】という世界で、その中で様々な価値観の対立を描く世界観、っという共通認識を前提としている。対立軸は複数あるけど、例えば人間vs悪魔でもいいし、悪魔vs悪魔人間、天使vs悪魔、なんだったら悪魔同士でも人間同士でもいい。

 だから「隣の人から悪魔と疑われてる」っていうだけの悪魔も何も全然出てこない日常の1コマだって十分にデビルマンの世界たりうる。スピンオフの中にはデビルマンも中心的な悪魔も出てこない作品もある。岩明均の描いた話とかそう。それでもデビルマンの世界観として成立する。デビルマンの世界であることに一抹のリアリティがあれば。


 そうするとリアリティって何だろうという話。リアリティというのはようは共感又は非共感。話の中にAとBがいて、どちらかの心情により添えられればそれでいい。両方に共感できる必要もなくて、どちらかの視点で他方が自分ではないと認識しうれば十分だと思う。AのBに対する感情は嫌悪とか反発でもいい。対置する価値観があることを自己認識すればいいので。

 ええとそれでだね。共感というのはそもそもそんなに難しい概念ではないんだと思う。シーンの少なくとも誰かにリアリティを感じられればそれでいいんだ。この映画の問題点は共感できる奴が1人もいないこと。登場人物が何故そんな行動をするのかがわからない。そうなると話の内容がわからなくなってくる。登場人物の考えがわからないというのはそういうことだ。


 で、この映画で何故そんな事態に陥っているのか、その理由はわりあい単純。心理描写がない。映画なのに心理描写? って思うだろうけれど、当然ながら存在する。

 映画の心理描写、それはつまり役者の演技、セリフと行動。風景描写から心理を表すというのもあるけれど、当然ながら役者は動きやセリフでその登場人物の心理を表現する。登場人物のセリフや行動に心理がまるで乗ってない。しかもどうしてそんな場面でそんな行動と一緒にセリフが出るのか心底わからない。

 まず最初の衝撃的なシーンは不動明がデビルマンになるシーン。

「あーおれでーもんになっちゃったよー」

 ……。

 ここは何ていうか、動揺とか葛藤とか色々有るべきでしょう。だって人間じゃなくなっちゃうんだよ? それによる将来とか、今後悪魔と戦わなきゃいけないのかだとか、色々、普通、あるよね?

 でもなんというか棒すぎて、セリフから感情が読み取れない。それは喜怒哀楽どの感情なのでしょう? それすらも。つまり共感すべき感情自体がわからないのだ。共感できるはずがない。


 次、美樹ちゃんが首になるシーン。

「あー」

 君、美樹ちゃん好きだったんじゃないのかな。

そして美樹ちゃんのお父さんにデビルマンであることがバレたシーン。

「ふわー」と叫んで空を見る。

 草原で空を見るという行為自体もわけがわからない。これ、どういう心境を表現しているのさ。ていうか、そもそもヒロインである美樹ちゃんとの関係もほとんど描かれていないからこれまでの映画の内容という手がかりもなかったりする。そういえばこのシーンはいわゆる「ほわーん」として有名だけど、ほわーんとは聞こえないような気はするな。表紙は有名だからほわーんで描いてみたけど。いや、そもそも「ふわー」でも「ほわーん」でもどっちでもいいんだけどさ。

 全部が全部これ。作中で登場人物が何を考えているのかわからない。どうなのだこれは。

 まあ役者自体も学芸会以下ではある。そもそも上記の「でーもんになっちゃった」というような説明的なセリフは、主役らに演技力がないからこそのわざわざ挿入された説明文なんだろう。演技派の俳優ならきっと、このシーンはおそらく無言でもこなせるんだ。それだけ本来は情景が鮮やかなシーンのはずなんだ。


 でも役者以前の問題もある。おそらく主役の不動明のキャラが適切に作りこまれていない感がある。原作では不動明は人間的に悩んで人間的に苦しむキャラクタだ。弱いからこそ苦しみ、苦しむからこそ変化して狂気をはらんで乗り越える。そんな熱い奴。

 でもこの映画ではハードコアな不動明というキャラクタから棘を全部抜いている。なんとなく、主役のモデルに暴力的とか変なイメージが付くのを嫌ったんじゃないかという気もする。この映画の不動明って何もしないんだよね。だから美樹ちゃんが死んでも「あー」なんだ。美樹ちゃんを殺した奴らを殺しに行ったりはしない。


 結論として、デビルマンに暴力という設定を付与できないとしたら。そうすると例えば原作クラッシャーと呼ばれたとしても、優しいデビルマンとか、臆病なデビルマンとか、そういった新しいキャラクターを作るしかない。

 そもそもデビルマンは懐が深い物語だから、新解釈っていえば認められないまでも議論を呼ぶ余地はあった気はする。興行的にもそっちのほうが美味しいような気がする。けれども結局作られなかったので、デビルマンは空っぽになった。

 この映画のデビルマンには行動の指針がなく、心理描写も行動動機も見えなくなった。ひたすら流されていく。そして一本の作品のコアというか芯もなくなった。


 お前、誰なの?


 その他にもCGはどうのと色々言われているけれど、ポリゴンの造形自体はよかった記憶はある。ただデビルマンと敵と背景だけ描いてもなっていう。空間的広がりがないというか、普通フォグとかライトとかぼかしよか汚しとか入れるものだと思うのだが、自分的にはなんか微妙かも。

 結局のところ、そもそも原作ファンには噴飯ものなわけです。何故なら原作の価値観は全て破壊されているから。この映画では不動明の主観を起点とした対立軸は作られなかった。積極的に悩みも苦しみもせずほわーんと悲しんでいるだけの不動明。自分はZ級が好きなタイプだからこれはこれで経験だと思えるけど(面白いとは言っていない)、全うなファンは受け入れられないだろう。


 原作未読の方にとっても意味がよくわからない話だと思う。だって原作のあらすじをただ平板に追う以上の意味なんてないんだから。


3.一方、その頃のCASSHERN

 さて、デビルマン公開の少し前に『CASSHERN』が上映された。これは新造人間キャシャーンというアニメを原作とした実写もの。デビルマンが上映されるまでは『CASSHERN』が史上最低の実写映画とされていたが、デビルマンはあっという間にこれを覆して『CASSHERN』はまだよかった、という再評価がなされることになったラッキーなようなかえって不遇なような映画。

 自分は『CASSHERN』も『デビルマン』も両方とも映画館に見に行った。率直に言うと『CASSHERN』は公開当時(デビルマンが上映される前)からわりと好きなんだ。これは自分はデビルマンの原作が好きで、キャシャーンは原作を見てないからなのもあるのかなと思う。原作と違うという指摘はたくさん見た記憶があるし。


 ただ『CASSHERN』は世界観として筋が通っていた。安っぽくて青臭すぎる世界でも「この世界はこうだ」という定義づけがなされてそれを押し通す潔さがあった。

 『CASSHERN』の世界観はようはスチームパンクだ。ストーリーはボロボロだとしても、その浪漫という一欠片を握りしめてエンディングまで走り抜けた。そしてスチームパンクな世界観は素晴らしい色彩を振り撒いた。冷静に考えるとものすごくチープだとしても。あの、ええと、このチープさは人によって耐えられる限界を超えている可能性はある、とは認識している。だからチープすぎてドンびくという意見も一定は理解。


 一方、この映画が受けなかった理由もよくわかる。ストーリーも短絡的だし登場人物が人として浅い。後半のダレ具合もなかなか酷い。でもこれは多分映画ではなくビデオクリップなのだよね。カフェで流すような。だから映像が美しければいいんだ、きっと。極論音はオフにしてもいいくらいに美しい映像に溢れている。ともすれば安っぽくはあるけど。

 翻って見ると、デビルマンは何もないんだ。原作もののよさはストーリーそれ自体の素晴らしさという点で現れる。ストーリーも一応は原作をなぞっているものの登場人物を壊してしまっている。そして監督は壊したものに変わる価値観を付け加えることはできなかった。そして焼け野原になった。

 一方のCASSHERNは多分最初に監督がイメージする映像美がきて、それにストーリーを強引にあわせたんだと思う。色々破壊されたけれどもある意味で筋は通された。そういうところに違いがあるのかなと思う。


 さて、今回はこんなところで。映画館で見てから随分時間はたっているし、今回はわりと好き勝手書いたから、ひょっとしたら後でちょくちょく修正が入る気がする。


 次回は「邦画のホラーのおすすめを教えて」というリクエストを頂いています。自分の邦画ホラーの最高峰は「黒い家」だと思ってる。でもこれを中心にエッセイ書くといまいち広がらないから、ちょっと考えてみようかと思っています。当エッセイは常にリクエストを募集しております(見てなければリクエストに添えないすみません。)。

 See You Again★


ーー 以下デビルマンのネタバレ

 高校生の不動明は不良と絡まれている時に親友の飛鳥了に助けられる。了の父親は悪魔について研究していて、その家の地下には悪魔と合体するための術具がある。了はこれから悪魔が攻めてくると明に告げ、明に悪魔と合体したデビルマン(悪魔人間)となって一緒に悪魔と闘おうと誘う。明は色々悩んで(多分)デビルマンになることを了承し、次々と襲い来る悪魔と闘うことになる。

 原作はとても面白いので、是非読むことをお勧めします。文庫本で5冊です。

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