035 アレクシアの死 第二王子フィリップの懊悩
もう自分は死ぬ。ヴィクター男爵領の領主であるノーマン・ヴィクターの妻であるアレクシア・ヴィクター男爵夫人は、かすれた呼吸のままにベッドの脇に立つ執事の手を取った。
「……シヴィルを、頼みましたよ……」
聞こえるか聞こえないかの微妙な音の連なりを理解した執事は頷いて答える。肝臓の半分を使えなくされたことによって、アレクシアの体内を巡る血液は徐々に毒素を蓄えるようになり、それが半年以上経過したことによって臓腑の大半を腐らせていた。今は貴族ゆえの魔力と買い漁ったポーションによって生きながらえているが、度重なるポーションの摂取によって肉体に耐性ができてしまったのか、中級薬相当の効果を持つ高価なハイポーションですらアレクシアの命を永らえさせることはできていない。
またポーションの過剰摂取によってポーション中毒を起こしているアレクシアは、霧状にした麻痺ポーションを常に摂取することで鎮痛と、精神の平衡を保つ必要があった。
当然ながら零細男爵家の収入ではアレクシアの延命はできず、次期当主であるシヴィルの婚約破棄によって得られたミスリル貨で購入したポーションによって命を永らえている。
もちろんアレクシアもすぐ死ぬことが男爵家のためになると理解していたし、夫であるノーマンが、生きるだけで大量の財貨を吐き出す必要のあるアレクシアの死を願っていることは、潜ませているメイドたちによってアレクシアの耳にも届いている。
だが、どうしてもアレクシアには延命する必要があった。
生きたい、死にたくない、それはもちろんある。死を望むような苦痛をもってしても、実際に死が迫ると生きていたいと願ってしまう。
アレクシアは十代でヴィクター家に嫁ぎ、子を産んだ。
未だ三十代も半ばのアレクシアにとって、人生は半ばすら越えていないのだ。
魔力を持つ貴族ゆえに百五十歳は生きるだろうと思われた人生が三十代で終わることに神を呪いたくなる気分のアレクシアは、それでもやるべきことをやらなければならなかった。
延命中のアレクシアは、まずレオンハルトの位置情報を保持している、契約魔法を施した司祭を事故に見せかけて暗殺させた。
これは教会勢力を敵に回す行為であるし、男爵領にいる数少ない魔法の使える司祭が死ぬことはシヴィルが継承することになる男爵領の弱体化を招くが、やらなければならなかった。
アレクシアが死ねば、ノーマンはレオンハルトを呼び戻すかもしれない。
アレクシアは探させていないのでレオンハルトが今どこにいるかはわからない。それでも運良く生きているということだけは理解できている。
レオンハルトは未だ契約魔法に縛られている。
どうやって生きているのかはわからないが、絶死の魔境たるSランクダンジョン『魔の森』にレオンハルトはいるのだ。
ならば待っていれば近いうちに必ず死ぬ、はずだ。
しかしその前にノーマンによって保護されてはたまらない。ゆえに、契約魔法の痕跡から後を追うことのできる司祭の死は絶対だった。
なお、レオンハルト・ヴィクターと名乗る謎の魔法使いが王都にいる情報はアレクシアの耳に入っているが、同姓同名の別人だろうと彼女は判断している。いや、本人であってもならば問題はない。子供のレオンハルトの足で魔の森から王都に移動したのなら、行き帰りだけで半年以上が経過する。ならば契約魔法によって、魔の森に年の半分以上はいなければならないレオンハルトは死ぬのだ。むしろ王都にいるレオンハルトが義子のレオンハルトであることをアレクシアは願った。頼むから死んでよね。頼むから。
そんなアレクシアが司祭を処理したなら次はシヴィルの帰還を阻まなければならなかった。
シヴィルはアレクシアと同じ呪いを受けている。被害は親指一本と聞くが、それが利き腕の親指であることが問題だった。剣も握れず、ペンも持てなくなったシヴィルに対するノーマンの評価は地に落ちた。シヴィルのスペアとして育ててきたレオンハルトの追放を心底から後悔するぐらいには。
ゆえに、シヴィルが領地に戻ってきたならばノーマンは出来損ないと判断してシヴィルを殺すだろう。
アレクシアはシヴィルにその旨を記した手紙を送り、けしてヴィクター領に戻ることのないように強く命令した。
死に目に愛息子に会えないことはアレクシアの心をひどく痛めつけたが愛ゆえにアレクシアは耐えなければならなかった。
(あとは……)
当主であるノーマンさえ、死んでくれれば……アレクシアはそこまで考えて、あと半年時間があればと、自身がもうすぐ死ぬことを悲しんだ。
王都で実家の人間が使っていた暗殺組織が壊滅したゆえにアレクシアはノーマンの暗殺ができなかった。
ゆえに実家よりメイドを数名呼び寄せ、自身の死後にそのメイドたちにノーマンの籠絡を行うように指示を残している。
アレクシアの実家は法衣貴族とはいえ、子爵家だ。その子爵家で飼っている貴族を籠絡する専門のメイドたち。彼女たちを使って、ノーマンを籠絡させ、薬と性の快楽に溺れさせて、早死させる。メイドたちは子宮を取り除いているため、子供の心配もない。
シヴィル、とアレクシアは息子のことを考えた。
ノーマンとの愛のない結婚生活で得られた、唯一の愛情を持って接することのできる息子。
平民のメイドたちから見れば不評のようだったが、王都で生粋の貴族主義に接して育ってきたアレクシアからすればあんなもの別になんの問題もないだろうと考えている。
本当に性格が歪んだ貴族というものは、平民メイドなど虫けらにしか考えていない。アレクシアがそうであるように。
ふふ、とアレクシアは嗤う。
(……レオンハルトが孕ませた小娘たちは、シヴィルの教育用に残しておけばよかった、わね……)
好意を持っていたメイドやレオンハルトの子供をシヴィルに殺させて、シヴィルに生粋の、王都貴族流の獲物の狩り方というものを教えられないことがアレクシアの心残りの一つだった。
ノーマンのように素手で牛だの魔物だのを引き裂いて領民の慰撫を行うなど生ぬるい。赤子を鍋で煮立て、母親に食わせてから、その母親を犬や豚に食わせるような刑罰こそを喜んで執行するのが王都生まれの貴族である。
無論、これらは表立ってやるわけではない。こっそりと趣味の合う貴族家同士がお互いの別邸や隠れ家で気に入らない平民を酒を飲みながら処刑するのが王都貴族の嗜みである。
懐かしい、とそんな悪鬼の所業を思い出し悦に浸るアレクシアは、麻痺ポーションがもたらす痺れで、まともに動けない身体が憎かった。
身体さえまともならば、最後にひと目でも息子に会いにいけるものを……。
◇◆◇◆◇
アレクシアのような思想の貴族令嬢は、レオンハルトが妾にした女生徒たちの一部にもいた。
シエラの第一次募集はちゃんとした教育を受けられない不幸な令嬢が多く、そういった令嬢は少なかったが、二次募集で集められた令嬢たちにはきちんと王都流の貴族家の教育を受けた令嬢が多かったからだ。
それは仕方ない部分が多い。
軍閥貴族の妻になるように教育を受けた少女たちである。
夫の実家で死なないためにはそういった教育を受けて、
ゆえに彼女たちは自分がレオンハルトの一番になるために他の令嬢を害さずにはいられない、そんな思想を持たざるを得なかった。
そんな令嬢たちにとって、淫紋による『家族化』はレオンハルトの傍にいるために必須の処置でもあった。
無論、淫紋を刻まれても、出し抜いてやろうと考えていた令嬢もいた。だがそんな令嬢たちも結局は淫紋によるネットワークに取り込まれて、
レオンハルトが使う『淫紋』の本質は性魔法ではない。
契約魔法と隷属魔法のあわせ技、
淫紋による家族化は、ある種、蟻や蜂のような昆虫のネットワークの構築に似ている。
レオンハルトの側室と愛妾たち。いずれ彼女たちは自分以外の令嬢が産んだ子供さえも自分の子供だと認識するようになるだろう。
そうでなければ、きっと邪魔だと殺してしまう。
ゆえに、レオンハルトはそのように処置をする必要があった。
むろん、妾を増やさなければ問題は発生しない。しかしレオンハルトは、魂が欲する欲求によって、自分の子を孕む女を増やさないという選択肢はなく――。
◇◆◇◆◇
ゆっくりとアレクシアは庭先を眺めた。クソ田舎。魔の森に接する資源の乏しい領地。見るもののない、つまらない場所。
執事を傍に寄せて、アレクシアはせめて王都から持ってきた絵でも部屋に飾るように指示を出すべく――……。
「奥様……?」
ぱたぱたと開けていた窓から風が流れてくる。アレクシアの目は開いたままだ。虚空を見つめている。
執事とメイドたちは、眠るようにアレクシアが死んだことに気付き、頭を下げた。
本人の内心がどうであろうと、性癖が貴族的で平民に厳しかろうと、彼女は男爵領を富ませるために努力した。
内政下手の夫のフォローを行っていたのはアレクシアだった。彼女は確かに役割を果たしていた。
「……――お疲れさまでした。どうか安らかな旅路を」
こうしてアレクシア・ヴィクター男爵夫人は、苦しみながら死亡した。
◇◆◇◆◇
「……レオンハルト・ヴィクターが和解の提案に頷いただと?」
アクロード王国の第二王子であるフィリップ・アクロードは側近の貴族令息の報告に眉を寄せた。
「どういうことだ? 今更王国を恐れたなどではないだろう?」
「おせっかいのグラットン・ジョーが動いたようです」
ジョー子爵、社交界で有名な御仁の名前が出て、フィリップはなるほどと納得した。
昨今の貴族令息の間を吹き荒れる嵐のような婚約解消・破棄に貴族の交渉役であるジョー子爵が懸念を示し、レオンハルトに接触したのか。
王族の血が流れているとはいえ、貴族令嬢をわざわざ奴隷にしてまで結婚させる奴隷商貴族のやることにフィリップは鼻で笑おうとし――周囲が自分を見ていることに気づき、ふんと平静を保ってみせる。
ここでジョー子爵を馬鹿にすると、臣下の心が離れると理解したのだ。なにしろ最近のフィリップに良い所はない。
レオンハルト陣営に将来の部下となる令息たちの婚約を次々と解消及び破棄され続けてきて、最近はとうとう第一王子である兄の側近として軍閥貴族から送り込んでいる近衛騎士団長の息子まで婚約破棄されている。
あれは好んでいる平民令嬢に懸想しているので「これでアンの傍に堂々といられますからな。得したもんです」とケラケラ笑っていたが、フィリップの目から見れば冗談ではない悪夢のような出来事だった。
確かに平民女であるアンは平民にしてはそれなりに見どころのあるいい女だが、派閥の有力者である近衛騎士団長の長男、ガルス・アンダルシア伯爵令息が将来一人身になることがほぼ確定したのだ。
一人身ではガルス・アンダルシアは終わりだ。
平民を愛して、元婚約者をないがしろにしていることが発覚しているので次の婚約者は決まらないか、かなり問題のある家か、害になるほど低い家格になる。時期伯爵としては詰んでいる。おそらく次男以下が次の伯爵になるだろう。
兄の側近候補に軍閥貴族から送り込んだ人間がこのザマというのは、やばいもんなんてものではない。政治生命が危うくなるほどの失態だ。
それに追い打ちをかけるかの如く止まらない配下の婚約解消と破棄。破滅の足音が聞こえてくるかのようだった。
当たり前だが、貴族にとって第一は家の維持だ。王家への忠誠は、フィリップとしては少々悔しいが第二、第三に下がる。
アクロード王国は絶対君主というほど王家の権力が強い国ではない。
無論、最初は一人の優れた超越者たる王によって統治された国家だった。
だが、長い歴史の間に国家が戦争やら大規模開拓などで大きくなると、辺境伯やら大公やらが発生し、徐々に王の権力が削られていくことになった。
加えて長い歴史による貴族の腐敗も加わり、昨今の貴族の心情では王族への忠誠はそれほど強くなくなっている。
王族の権力が、実際のところそこまで強くないことを理解している第二王子フィリップとしては、今回の失敗は自身の政治生命が断ち切られかねないほどやばいものだし、将来の配下である令息たちの視線が自然と厳しくなっていることも自覚している。
発言一つで離反して第一王子に付きかねないことも。
というか、ジョー子爵との交渉が一番必要なのはフィリップである。
自身の派閥の令息の婚約者を探してやらなければならないのだ。訳あり令嬢でもなんでもいいから縁を結んでやらないとまずかった。
(あー、令息たちの将来はほとんどが騎士だ。それだけに、このままだとまずいな)
フィリップは内心の苦しみを顔に出さずに思考する。
大貴族令息が多い側近中の側近たちは婚約を破棄されていないが、中堅以下の家格の部下は仲睦まじい少数以外はほとんど全滅だ。
あまりの不甲斐なさに何をやってるんだ、と怒鳴りたい気分である。
婚約者のいない独身騎士ばかりが部下になるなどフィリップとしては悪夢でしかない。
独身の騎士など一人前ではないというのはすべての騎士団の暗黙のルールであるし、王族であるフィリップの目から見ても、婚約者のいない貴族令息など半人前以下にしか見えない。
血を、子を、家に残してこそ貴族だ。平民の妾に血を継がせた騎士がいてもそれらを取り立てようとは思わない。
きちんと貴族の妻がいなければ、社交と家政の取りまとめができる妻がいなければ貴族としては失格なのだ。
貴族ならば婚約者は持って当たり前。出世するなら結婚は必須。独身騎士など出来損ないだから死地に送って殺してしまえ、は何代前の王国騎士団長の言葉だったか。
そんな怒りを胸に抱くフィリップだが、彼は気づいているのだろうか。
そもそもの原因はレオンハルトを敵に回したらやばい人物だと判断できずに、愛妾にすべく手を回していたシエラを奪われた怒りのままに、冒険者ギルドにSランク冒険者を複数投入する襲撃依頼を出した結果なのだということに。
フィリップの視線が独身になった令息たちに向く。
(失敗した俺も悪いが、こいつらが婚約破棄されたのはこいつらのせいだろ? 俺は悪くないよな?)
婚約者とちゃんと付き合っていたり、まともな条件で婚約していたら、婚約破棄はなかったはずなのだ。
それを破棄されてからどうにかしろなどフィリップとしてはグズどもが失敗を王子である自分に押し付けてきているだけにしか見えなくなってくる。
ため息を吐きかけて、慌ててフィリップはそれを心中のみで吐き出しておく。表向きは平気な顔を保つのが上に立つものの義務である。
「で、ジョー子爵はどういった条件の和解案を出したんだ?」
「レオンハルトと第三王女殿下との結婚を、正室案で提案しました」
第三王女セラフィーナ・アクロード。美女、美少女と名高いアクロード王家の王女の中でも随一の美少女だ。アクロード王国十四美女の一人でもある。
令嬢狂いの噂があるレオンハルトが和解に頷くに足る相手であるが、今回は単純に令嬢をぶんどりまくって満足したところに以前世話になったジョーから提案があって、鉾をおさめただけ、というのはレオンハルトとシエラだけが知っていることだ。
「
しかしフィリップの記憶によれば第三王女セラフィーナはイェリイェスタ大公家の長男と婚約が決まっていたはずだ。
幼少期からの婚約に加え、美しく利発なセラフィーナを大公家では我が娘よとばかりにかわいがっていたと聞く。それを差し出す? 軽んじられたと判断した大公家が謀反ぐらいしてもおかしくないが? 大丈夫なのか?
「レオンハルト・ヴィクターから貢物があったそうです。王家にミスリル貨二千枚、それと魔物絹百反。ミスリル鉱石百キロ。加えて過去に失われた王家の神器が出され、大公家にも同じくミスリル貨一千五百枚と魔物絹五十反、ミスリル鉱石五十キロ。加えて過去に大公家より失われた神器が送られ、婚約解消が成立したようです」
「神器……だと、まさか神剣アクロードソードか?」
「はい。大公家には神盾アクロードシールドが」
ドラゴンライダーにして、アクロード王国の始祖が所有していた神器は長いアクロード王国の歴史の中で散逸していて場所がわからなくなっていた。それが王家と大公家に戻されるとは。
王国の歴史的に稀に聞く吉事である。たとえ大公家の婚約解消がそこにあっても、それを凌ぐ吉報となる。
なお、アクロード王国三神器はカイン・ストレイファのアイテムボックスの中に入っていたものである。
隠しダンジョンの宝箱にあったもので、カインが自身の戴冠イベント用に回収していたのだ。
カインからすれば最重要のイベントアイテムであるが、アイテムとしての性能も破格だ。
神器という名前に相応しく、優れた素材と製法、いくつものエンチャントが施された最高級武具である。
とはいえ、クリア後のお楽しみダンジョンでもある魔の森のユニークボスたるデスレックス素材を使った最新最高の製法の武具には性能が劣っていたので、レオンハルトになんら惜しまれることなく王家に贈られている。
そんなレオンハルトの事情を知らないフィリップは顔を綻ばせる。暗黒しか横たわっていない自身の未来に光が見えたのだから。
「大公家の悲願が叶うのならば、セラフィーナを手放してもおかしくはない、か」
「はい。婚約者のアスマン様は最後まで抵抗し、結婚を強行しようとしていたようでしたが、如何に家族同然とはいえ、未だ家族ではない婚約者のために神器を見逃す手はありませんから」
なにしろこれを逃せば大公家は単独でレオンハルトと交渉しなければならない。
惜しむことなく神器とミスリル貨を出せるレオンハルトである。
如何な大国の大公家とはいえ、交渉材料に出せるものがないのが存在しないことは明白だ。
無論、大公家にも年頃の令嬢がいるが、セラフィーナに劣る令嬢を出しても馬鹿にされたとレオンハルトが感じ取ればそれで交渉は終わりである。これでは現当主は大公家の傘下貴族たちから美女に拘って、神器を逃した馬鹿モノと呼ばれることになってしまう。
大公家の歴史を尊重するなら、息子の婚約者を差し出してでも、神器は取り戻さなければならない。
「アスマンの奴も口惜しかろうな。今は十六だから、あと二年でセラフィーナも学園を卒業だったのにな」
貴族の通う学園は通常十二歳から入学可能で、領地経営やマナー、外国語、数学、魔法、武術などの様々なことを学んで十八歳で卒業する。
そのセラフィーナが卒業して、大公家に嫁入りしていれば大公家の身内となっているから、この提案は退けることができた。
息子の婚約者は取り上げられても、妻を取り上げることはできない。
婚約者でしかない以上、未だ大公家の身内ではない。
大公はセラフィーナを全力で守る理由が作れない。情があっても無理なものは無理だった。
たかが二年、されど二年である。
学園卒業と同時に結婚、というのはアクロード王国貴族のスタンダードだ。それ以前に結婚というのはあまり聞かない。学園卒業前の結婚はよほどの魔力持ちか、十五歳で授かる神授スキルがよかったか、弱みを握られているかのどちらかだった。
というのも婚約者の資質を見極めるのに学園という環境が好都合なのだ。出来が悪ければ卒業できないので、結婚相手には最低限、学園卒業という学歴を望む貴族は多いため、退学や留年などもってのほかである。
レオンハルトは平気でやらせているが、結婚した令嬢が妊娠して妊婦のまま学生生活というのも外聞は悪い。
ちなみに領地を継ぐ当主などは学園卒業と同時の結婚が多いが、騎士となった貴族令息などが婿入り、嫁取りする場合は、騎士団内での出世レースに勝って、そこそこの地位に上がったら結婚できるというパターンが多い。
学園で才能があっても騎士団内での立ち回りが悪く、結婚しない方がマシ、というパターンもあるからだし、婚約者である令嬢の社交の腕前を確認する必要もあるからだ。
「しかし……王家の姫を嫁がせる相手が、ただの魔法使いか?」
「いえ、婚約の祝として贈られたミスリル貨と神器とは別に、ミスリル貨と魔道具、ポーション、魔物素材などが大量にレオンハルト・ヴィクターより王家に贈られ、その返礼として
ミスリル貨も、魔道具もポーションも魔物素材もレオンハルトが拠点の倉庫に大量に放置しているものだ。倉庫を増やしすぎても、ということで今回、無数にある倉庫から倉庫一棟分が吐き出されている。なおSランク素材が大量に含まれたそれはアクロード王国の国家予算の二十年分に相当する量の価値があった。
「領地に爵位だと? どこか空いている土地があったか?」
王家の領地を切り取って与えるのかと第二王子が問えば、側近は首を横に振った。
「まず、与えられる爵位は迷宮伯です。迷宮に拠点のある貴族、という意味での迷宮伯。重要なダンジョンなどの守護役として王家に伝わる爵位です。ただ、今では迷宮伯という爵位は過去のスタンピードなどですべて断絶していますが、王家でも伝統ある爵位ですね。陛下がレオンハルト・ヴィクターに寄せる期待の現れかと。それと、
ちなみに土地の安堵とは、なにかあっても王国の戦力を派遣して手助けしてやるという約束事のようなものである。
今回は場所が場所だけにほぼ建前になる。
しかし王子は初めて聞いたかのようにびっくりした表情をした。
「開拓地だと……奴の拠点はそこまで広いのか?」
レオンハルトへの襲撃に際して、魔の森に拠点があるとは聞いていた。
だが、せいぜいが維持できる程度の屋敷だと思っていたフィリップに側近は少し呆れた様子で言う。
第二王子は
「五百人を越える奴隷と、百人を越える貴族令嬢とその使用人が住んでいる拠点ですよ。特に、レオンハルト・ヴィクターと
令嬢たちのレベルは鑑定結果でわかっていたことで、それは従軍して自力でレベルを60まで上げたフィリップにとっては屈辱の内容だ。
「腰を振って得られたレベルが何の役に立つというのか」
「殿下、貴方に言うまでもありませんが、レベルが10も違えば、ステータス差で押し切られます。それにレベルだけではありません。武術、魔術のスキルは学園に在籍している貴族令嬢ならば必須で習得しています。そんな令嬢たちが百名近く、加えてSランク冒険者の奴隷もいますし……王国軍の兵士の平均は20~30といったところですから。国軍全軍でも下手をすれば蹂躙されますよ。それと、一年後には人口は倍以上になるでしょう。
すでにシエラなどの初期に側室となった令嬢の妊娠は王国側でも確認されていた。
冷静な側近の言葉に、はんッ、とフィリップは鼻で嗤ったところで、側近が自分を冷たい目で見ていることに気づく。
上がり調子であるときは頼もしいと思われていたフィリップ王子の傲慢な性質は、こうして下り坂になると悪癖として目立っていた。
ただし仕方がない面もある。王子という高すぎる地位に加えて、過去に何度か行われた獣人国家への征伐で、国軍の総大将を何度も任されたという経験が、相手をどうしても過小評価してしまうのである。
「ちッ……わかっているッ! で、迷宮伯か。どの程度の位なんだ? 実際のところは」
「Sランクダンジョンの迷宮伯ですからね。辺境伯ぐらいには影響力が強いかと」
産出する資源や、王国に納める税などから勘案すればそれぐらいの影響力を今後持つようになるだろう。
王国側としては、レオンハルトに令嬢たちと遊ぶ以外の野望がないことに安心しなければならなかった。
「辺境伯ぅ……父上は正気か?」
「実際、それ以上に影響力がありますから。陛下もヴィクター伯の寿命が尽きるまでは好きにさせるつもりのようですよ。第三王女殿下も正室として受け入れてもらう予定ですし、殿下との子供を王家に取り入れるつもりでしょう」
「……気に食わん」
「殿下、
そっと周囲に聞こえないように囁かれたその言葉に、フィリップは目を丸くして側近を見た。
幼い頃より一緒に勉強に励んできた側近の令息は、フィリップに対して囁くように言った。
「殿下――フィリップ王子の廃嫡の噂が流れています。出どころがどこかはわかりませんが、おそらく陛下が流した噂です。ヴィクター伯への態度を改めなければ……――」
「わか、った……ッ」
血を吐くような気分でフィリップは側近の諫言を受け入れた。
廃嫡――何度も敵対国家である獣人国家への遠征を成功させた俺がこんな簡単に廃嫡されるだと、とフィリップは父親である国王を恨む気持ちが湧き上がってくる。兄である第一王子よりも成果を上げ、国軍を精強に育て上げたこの俺が……ッ!
そのような考えでいる第二王子フィリップは気付いていない。
それらすべての功績を帳消しにして余りあるぐらいに、レオンハルト・ヴィクターに敵対した事実は重いということを。
そう、
相手が高貴だとか高貴じゃないとか重要人物だとか重要人物じゃないとか金を持っているとか持ってないとかそういう雑多でどうでも良い情報ではなく、単純に、レオンハルト・ヴィクターは敵対者に容赦しないという一点が重い。
レオンハルト・ヴィクターは敵対した者は殺す。だいたい見える範囲の関係者ごと殺す。
それは王家による依頼で『予知』のザラキエルが予知を行い、判明した新たな事実だった。
フィリップによる冒険者襲撃が開始前に頓挫したという情報を耳に入れた国王は、ザラキエルを一時的に雇い入れて、いくつかの予知をさせ、レオンハルト・ヴィクターの行動に関して調べあげた。
具体的には、敵対した場合、どの程度まで許されるということをだ。
結果として、敵対すれば王家は確実に滅ぼされるという結果だけがわかった。
レオンハルト・ヴィクターは、どこまで殺していいか悩んだとき、最小限これだけ殺しておけばいいだろうという範囲までは確実に殺しにくる。それはどこまで逃げても殺しにくる。強力な
そして超越者ゆえに、その範囲が大雑把すぎた。
敵対した場合、軍相手ならば、その所属兵士だけ殺されるが、指示を出した貴族は最低三親等までは確実に殺される。
場合によっては根を断っとくか程度の考えで一族族滅させられる。そして大きな確率でアクロード王家は根を断っとくか、の分類に入る。敵対した場合は二つある大公家と八つある公爵家も滅ぼされることが予知でわかっているし、それらの情報は大公家と公爵家の当主たちに共有されている。
――レオンハルト・ヴィクターは
甘いがゆえに、自身の妾である令嬢を守るために、相手が敵対したくなくなるか、敵対する力がなくなるまで徹底的に
ゆえに国王はフィリップが浅い自尊心と緩い考えで再びレオンハルトに敵対するならば手心を加えることなく廃嫡にするし、場合によっては臣籍や市井に下ることも許さず、生涯幽閉するつもりであった。
そうして、フィリップが自分で生み出した屈辱に自分でまみれながらもなんとかレオンハルトへの敵対をやめて数日後、第三王女の輿入れの日がやってくる。
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