通過儀礼

 トイレから戻ってきた僕を見るなり母は「やはり直樹には何か悪いものが取り憑いてしまっているのでしょうか……」と不安げな表情を向けながらセンセイに尋ねた。心配そうな表情とは裏腹に母はうっとりとした目でセンセイのことを見つめている。これまで知らなかった母の『女の部分』をまざまざと見せつけられ、僕は何だか複雑な気持ちになった。


 様々な考えと様々な感情が代わる代わる押し寄せ、頭が混乱しているのが自分でも手に取るように分かった。祈り、神、救済。2人の会話から時々聞こえてくる、それらの単語が意味のある確かな言葉としてほとんど耳に入ってこなくなっていた。


 目と耳から伝わってくる情報を頼りにイマジネーションを無理やり働かせてみる。お得意の連想ゲームである。ぼんやりとしたイメージの奔流に徐々に焦点が合わさりはじめ、これまで抽象的だったものが具体的な形となって頭の中で息づきはじめる。白と黒。光と影。太陽と月。月の表面とその裏側。ダークサイドオブザムーン。父が家に残していった数あるCDアルバムのうち、たまたま目についたものが確かそんなアルバムタイトルだったと微かに記憶している。


 正直に白状すれば父に関するエピソードは、もうほとんど覚えていない。何せ、ようやく物心がつきはじめたという時期に運悪く両親の離婚は成立してしまっていたし、父が写っている家族写真や使っていた食器、カメラ、CD、本など、ありとあらゆる父の所持品は母の手によって冷徹に処分されていたのだ。


 思い出を葬り去ろうとする母と違って、僕は父と過ごした数少ない日々の思い出をどうにか繋ぎ留めておこうと躍起になっていた。しかし時の流れというものは残酷なもので僕がそうすることを良しとしてはくれない。父がどんな顔で、どんな声をしていて、どのような性格をした人物だったのか。時間が経つにつれ、思い出すことが難しくなっていった。日を追うごとに朧げになっていく父の面影。


 幸いなことに父の存在の痕跡を示すものは家の至るところにかろうじて存在していた。母は父の所持品を全て処分したつもりでいるようだったが、実際のところは、押し入れの奥の暗がりや戸棚の後ろ側などの人目の付かないような場所に、それらはあった。ボールペン、シックなデザインのハンカチ、埃とシワにまみれたウィリアムブレイクの詩集。


 品々たちは母に見つからないよう息をひそめ、持ち主の帰りを未だに待ち続けているように見えた。


 可哀想に。


 僕は心の中で言った。


 可哀想に。


 ◆◆◆◆◆


 新しい家族に囲まれ、幸せな日々を送っているであろう父について想いを巡らせてみる。家族を裏切り、家を出て行った父のことを恨んでいないと言えば噓になる。


 もし父が一時の性欲に流され、不倫などというつまらない真似をしなければ、もっと別の、輝かしい未来が僕らの前に開けていたかもしれない。ここにはいない父を相手に恨み辛みを吐いたところで何かが変わるわけでもない。僕だってそれは重々承知している。


 けれども理屈として理解できることと感情で納得できるかはまた別の話になる。僕は自分の置かれている立場や状況に全くと言っていいほど納得していなかった。


 1本の長い映画を見るような心持ちで自分の立ち位置を確認する。身の回りにある物や人からイマジネーションを得て、お得意の連想ゲームに耽る。そうやって現実から妄想の世界に逃げ込む。自分の心を偽ることにかけては、僕はそれなりに自信があった。


 「病院を数件ほど回ってみたのですが、どの病院も直樹のことをちゃんと診てくれないんです。身体のどこかしらに異常があるから意識を失ったり、さっきみたいに突然、具合が悪くなったりしてるのに。それなのに医者は『特に異常は見当たりませんでした』なんて寝ぼけたことを言って、挙句の果てには精神的なストレスが原因かもしれないとか遠回しに私を非難しようとしてくるんですよ。そんなのあんまりだと思いませんか? 私にはもうセンセイしかいないんです。ですから、お願いします。どうか直樹のことを助けてやってください」


 額をテーブルに擦り付けるくらいの勢いで母はセンセイに深々と頭を下げる。


 「彩さん。頭を上げてください。結論から申し上げますね。私の見解もその医師とまったく同じです。直樹君の身体は見たところ健康優良そのもののようですし、これといった異常も特には見当たりません」とセンセイは母に言った。


「ですが、センセイ。何もないのに前触れもなく突然、吐いてしまうことなんてことあるのでしょうか?」


 センセイは少し困ったような顔をした。それもそのはずで店内にはミートローフホットサンドを口にしながらパソコンの画面と睨めっこをしているサラリーマンや、ちびちびと珈琲を啜る30代くらいの女性もいるのだ。そんな状況下で母が周りを気にする素振りすらみせることなく堂々と、張りのある声で吐瀉物の話をしはじめるものだからセンセイが周りの目が気になってしまうのも無理はない。彼は1度、軽く咳払いをし、店内にいる客の様子にちらと目を配らせてから母に視線を戻し、話を切り出し始めた。


「直樹君の不調の原因は神が直樹君の心の戸を叩いたことによって生じた好転反応によるものだと考えられます」


「好転反応……」


 頭に引っかかるものがあったのか母は独り言を呟くように返しに言った。


 「ヨハネの黙示録第3章20節に出てくる言葉はご存知ですか? 『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸をあける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう』 神が直樹君のすぐ近くまでいらして下さったことで直樹君の運命が今まさに、大きく変わろうとしているのです。不調の原因は恐らく、急激な変化に幼い身体が追いついていないだけなのではないかと……」


 「それは危険な状態ということでしょうか?」


 「いいえ。これは人生の大きな節目に差し掛かったという天からの知らせです。ある種の通過儀礼イニシエーションのようなものですよ。ご安心ください。これは福音です。ですから、心配する必要はありません。症状は数日程度でおさまるでしょう」


「センセイ。私にはもう直樹しかいないんです。直樹にまでいなくなられたら私、この先どう生きればいいのか……」


 だいたいこんな感じで居心地の悪いチグハグな会話はしばらく続いた。自分の苦しみを打ち明けることにしか関心のない母と、まやかしの希望を母に与えようとしてくるセンセイ。黙って見守るばかりで何も行動を起こそうとしない僕。


 騙そうとする者、騙される者、静観する者。奇妙な三角関係の構図が影絵のように浮かび上がってくる。なにもかもが冗談めいていているように思えた。


 ふと窓の外に視線を遣る。細かい銀糸のような雨の粒が店のガラス窓を激しく叩いていた。雨音は神経質そうなピアノの旋律の中に稠密に組み込まれていき、やがてそれは大きくうねる音の洪水となって店内の空気を震わせている。僕にはそれがまるで、まとまった1つの巨大な音の奔流がまるで"リヴァイユ"という空間そのものを支配しようとしているように感じられた。

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