坂上秀一の場合 1

  坂上秀一の両親が離婚したのは、母親である玲子の不貞行為が原因だった。相手は週に1回のペースで通っていた料理教室の講師で、玲子はその男と平日の昼間に幾度となく肌を重ねていた。家族への裏切り行為になると分かっていながら男との関係を断つことができなかったのは、自分の心の弱さに原因があるからだ。玲子は男が与えてくる快楽に無条件に反応してしまう己の身体が恨めしく思いながらも、流されるままに流され続けた。ホテルで、男のアパートで、夫も息子もいない我が家で。玲子は自分より6つ年下の男に数えきれないほど抱かれた。


 行為が終わって男と別れた後、玲子はいつもベッドの上で胎児のように背中を丸め、ひとり静かに泣いていた。生活に不満はないはずだった。結婚もできた。幼いころからの夢であった念願の子供も授かることもできた。私は間違いなく順風満帆な人生を歩めている。これまで何度も強く自分にそう言い聞かせ続けてきた。しかし胸を締め付けるような寂しさだけはどうしても拭い去ることができなかった。


 玲子の心を繋ぎとめていたものは夫以外の男との退廃的な性の共犯関係であった。無論、そこに愛情というものはなかった。男も、そして玲子も自らの欲望やストレスを発散させるための道具としてしか互いのことを見ていなかった。男と肌を重ねている時だけは寂しさを感じずにいられる。もっと気持ちよくなりたかった。男の身体に溺れ、煩わしい家庭のことも何もかも忘れてしまいたかった。


 夫の和明は玲子の異変に早くから気づいていた。着るものやメイクにお金と時間を費やすようになり妙に色気づきはじめた妻のことを、和明は料理教室に通いはじめたので身だしなみに気を遣うようになったのだろうと思うことにしていた。しかし1度抱いた妻に対する疑念は毒が身体の中を這いずり回るかのように日を追うごとに膨れ上がっていった。それでも彼が玲子と向き合い話し合おうとしなかったのは、真実を明らかにすることへの恐れと玲子に対するある種の負い目があったからだ。


 今年に入ってから急激に増えた残業に、和明は忙殺されていた。せっかくの休みの日も仕事の疲労から回復するためだけに消費されてしまい、家族と一緒に過ごす時間はほとんどないに等しかった。婚約前は家庭を顧みない夫にはなるまいと、あれほど心に固く誓ったはずなのに、いったいどこで歯車がずれてしまったのだろう。坂上家は極めて危ういバランスの上で何とか成り立っている砂上の楼閣だった。


 破滅の瞬間というものは何の予兆もなく唐突に訪れる。床に額を擦り付けながら必死に許しを乞う母を目にした時、秀一は自分の中で何かが崩れ落ちる音を聞いた。目の前にいる母親という存在が急に汚らわしいもののように思え、悲しさとやるせない気持ちでいっぱいになった。自分の身体に、こんなふしだらな母親の血が流れているのだと思うと自分自身も汚れているように思えてならなかった。


 何かが終わりを迎えて、また何かが始まる。つまるところ人の一生とは多分、その繰り返しなのだろう。だからこれも何かが始まる予兆でしかないのかもしれない。泣き崩れる母を見ながら秀一はそう思った。

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