坂上秀一の場合 2

 秀一の祖父は昨年の秋、肺がんのためにこの世を去った。母と別れてから、まだ数か月程度しか経っていなかった。立て続けに降り注ぐ不幸の連続に秀一たち親子はただ啞然と事の成り行きに身を任せる他なかった。誰かが裏で自分たちを破滅の道へと誘おうとしているのではないか。1度にいろいろなことが起こりすぎたせいか、まるで自分が物語の中にいる登場人物のうちの1人のような気さえしてくる。


 祖父は主治医から煙草の量を減らすよう何度も注意を受けていた。しかし妙に頑固で偏屈なところがあった祖父は、肺がんであることが発覚するまで医師の忠告や親族の不安を無視し煙草を吸い続けた。好きなものを我慢して長生きする人生のいったい何が楽しいのか、と祖父は常日頃から口にしていた。。


 秀一は子供ながらに祖父の言っていることは正しいと感じた。それと同時に和明や叔父たちが言っていることもまた正しいと思った。自分を育ててくれた親にいつまでも健康で、長生きしてほしいという思うのは子供として当たり前の感情であり、願いでもある。しかしその気持ちは単なるエゴイズムに過ぎないのではないか。


 秀一は祖父の意思をもっと尊重すべきだと考えていた。そもそも人生の主導権を握るのは他人ではなく自分自身であるはずだ。だというのに本人の意思を蔑ろにし、周りが勝手に話を進めていくのはおかしい。秀一は自分の思っていることを和明に打ち明けてみることにした。結果は惨憺さんたんたる大失敗に終わった。


 『お前は、おじいちゃんに長生きして欲しくないのか?』


 一般的な倫理観を照らし合わせて考えてみれば、このような返事が返ってくるのは当然と言えば当然である。和明は信じられないものを目にした時のような驚きに満ちた表情で我が子を見つめ、秀一は自分の伝えたかった主張を歪めて受け取る自分の父に失望に近い感情を抱いた。


 祖父の死後、遺産相続をめぐって親族の間で頻繁に話し合いが開かれるようになった。それは目を覆いたくなるほどの醜い争いにまで発展した。


 ――お兄ちゃんたちは酷いわ。お父さんたちの介護を私だけに押し付けておいて、遺産は法定相続分通りに分けようっていうのはあまりにも身勝手すぎるわよ!普通こういうのは介護をした人がより多くもらうべきでしょ?


 ―― 親父の介護をお前に押し付けてしまったことに関してはすまないとは思っているよ。でも俺や和明には家庭がある。親父の面倒をみるためにわざわざ実家の近くに引っ越すのは現実問題として、まず無理な話ってことくらいお前にも分かるだろ? それに、俺たち知ってるんだぜ?


 そこで長男の祐司は一旦、話すの止めて弟である和明に視線を送った。それに気づいた和明は渋々と言った感じで話し始める。最終的に泥を被ることになるのは結局、俺なのかよ。自分の手を決して汚そうとしない兄に内心で毒づきながら、和明は目の前の妹を真正面から見据えながら言った。


 ――そこにあるブランドもののバッグも羽織っているコートも、身に纏っているもののほとんどは親父から買ってもらったんだろ? それってもうほとんど生前贈与みたいなもんじゃねえか。 いい歳こいて親の金にたかるような真似しておいて、ちっとは恥ずかしいとは思わないのか?


 大の大人が泣いたり騒いだり罵り合ったりと感情を露わにしている様子を秀一は珍しい生き物の生態を観察するような気持ちで見ていた。


 大人たちの喚き合いを見るのに飽きた秀一は、こっそり居間を抜け、仏壇のある部屋へと向かった。薄暗い部屋の中で彼は仏壇の前で腰を下ろし、マッチを擦り、蝋燭に火を灯す。黄色い炎が祖父の遺影と位牌を照らし、複雑な形の影を畳の上に描いた。家族の誰とも心を通わすことができないという孤独感が秀一の精神を疲弊させ蝕んでいった。だが、孤独は彼に考える時間を与えてくれる。


 仏壇に飾られている祖父の遺影を見つめながら秀一は人の一生や死について想いを馳せた。遺影の中でこぼれるような笑顔を見せる祖父は無意味な生について考える孫の曇った表情をじっと見つめていた。

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