金魚

 長い梅雨がようやく終わりを迎えようとしている。自室の開かれた窓からはすっかり新緑に色づいている山が見え、アブラゼミたちの合唱や風鈴の涼し気な音色ながじっとりとした暖かい風にのって、夏を象徴する匂いや音たちが次々と運ばれてくる。全てがまぶしく、輝いて見えた。


 僕は四季の中で夏が最も好きだった。夏は様々なことを想像するキッカケを与えてくれる。通り雨が過ぎ去った後の水分をたっぷり含んだ土の匂い、綿菓子みたいな入道雲、青々と生い茂った木の葉、夏の強い日差しに灼かれたアスファルトの匂い。とりとめのないことを延々と考えている間だけ僕は自分が透明な存在になれたような気がした。それは僕にとってある種の発見であり、救いでもあった。


 奇妙に聞こえるかもしれないが僕は誰よりも孤独を恐れているくせに、誰よりも孤独であろうとしていた。 他人から傷つけられることを恐れているのに、心は常に誰かとの繋がりを求めていた。


 どんなに他人が恐ろしくても、どれほど他人を遠ざけようとしても数分後には、自分が誰かと繋がっていることを確かめずにはいられない。人は誰しも、いくつかの矛盾を抱えながら生きているもので、どんな人間にも多少の歪みはあるものだ。普通の人間なんてこの世のどこにもいないのだ。


 僕は理不尽な現実に対抗する方法をいつも探していた。無いものをいくら探しても無駄だろうと思う人も当然いるだろう。しかし僕が重きを置いているのは結果の方じゃなかった。結果はこの際、関係なかった。何かを為そうとしたという事実が残れば僕はそれで良かったのだ。


 たとえ何も為せなかったとしても何かを為そうとする意志があの時、自分の中には確かにあったんだという事実さえあれば、それは自分を慰める言い訳にもなり得る。自分を救う手立ては多いに越したことはない。


 愚かしい思索の結果、僕は自身を特別な存在だと規定することで問題を先送りにすることができるという考えに辿り着いた。その考えは強靭な意思の力を持ってすれば自分にとって都合の悪い事実を歪め、自らの弱さや醜さを無視できるのではないかというある種のナルシシズム的思考に由来する。人の心の動きというものは不思議なもので、ひとたびその考えに囚われてしまうと、だんだんとそれが世界の真実のように思えてくる。


 それは俳優が役を演じ続けているうちに役と自分の境界線が曖昧になってくることとどこか通じるものがあるように思えた。役を演じている内に自分自身を見失ってしまい、自分がどこにもいないという思いに駆られることが役者には時々あるらしい。そういう感覚は自分にも分かる気がする。なんとなくだけれども。


 『自分は正しいことをしている。自分は間違っていない。だからこれでいいんだ』


 僕がナルシズムとくだらないプライドで塗り固められたくだらない生き物に変貌を遂げるまで、それほど長い時間はかからなかった。


 ◆◆◆◆◆◆


 夜の帳が降りた。自室の窓を開けると、濃い油絵具で塗りたくられたような真っ暗な夜空に瞬く星達が舞台に上がっていた。白いレースのカーテンが夏の夜風でふくらんで僕の頬を優しく撫であげてくる。東の夜空を見上げていると、ひと際明るい光を放つ星を見つけた。あれは夏の大三角形を構成する3つの星の内の1つである”こと座”のベガだろう。


 僕は窓際の椅子に座り、夏の夜空で繰り広げられる天体ショーを眺めていた。1階からは聞こえてくる母のすすり泣く声が聞こえていた。祖母が死んだのが2年前。つまり兄が亡くなってから、まもなく4年の年月が経とうとしている。


 時間は傷ついた母の精神を治してはくれなかった。夜になると母は決まって寝室にこもり、ベッドに顔を押し付けながら泣きはじめる。それが兄の死後、新たに加わることになった母のルーティンであった。


 しばらくすると母の泣き声が聞こえなくなったので僕は窓とカーテンを閉め切り、星空を眺めるのを止めた。先ほどまで部屋を明るく照らしていた月の光は遮光性の高いカーテンによって遮られ、代わりに水槽の青白いライトが殺風景な部屋の全体を映し出してくれた。


 部屋には本もなければ、家庭用ゲーム機などもなかった。流行りの話題についていくことも、積極的に会話に交わろうともしなかったので当然ながらクラスでは浮いた存在になった。彼らの目には恐らく僕という人間は何に対しても趣味を示さない、協調性に欠けた不気味なクラスメイトの1人程度にしか思われていないだろう。いてもいなくてもいい存在。それが教室での僕の立ち位置であり、与えられた役割だった。


 窓際から離れたベッドの上に腰を下ろし、深くため息をつきながら机の上の小さな水槽にじっと視線を注いだ。水槽の中では2年前に祖母と縁日に訪れた時に買ってもらった小さな金魚が同じところをぐるぐる何度も回って寂しそうに泳いでいた。


 金魚が尾びれを動かすたびに水草がゆらゆらと揺れ、極採色に彩られた金魚の鱗に微細な泡がいくつも纏わりついている。僕にはそれが卵をぶら下げながら泳いでいるみたいで、何だか笑えた。


 窮屈そうに水槽を泳ぎ回る金魚と視線が合った。黒い穴のような2つの目が真っ直ぐ僕を見つめている。金魚の目は、僕の目とどこか似ているような気がした。

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