第21話 ファーストキスの代償に地位を失った俺は空を見た。
初めての女の子とのキス。嬉しくないはずがない。
それなのに俺は、ぽっかりと穴が空いたような気がしていた。
なんだこれ。氷河期が訪れてすぐに終わっちゃって、マンモスが絶滅したみたいな? アイデンティティの崩壊? 生まれ変わっちゃったみたいな? 新時代の俺来ちゃったみたいな?
何が言いたいのか自分でもよくわからないが、とりあえず俺のなかの何かが壊れたのは確かだ。羽化したての成虫みたいに、まだ新たな形態の体に慣れず、気持ち悪いくらいに初々しい。
目を開けたままキョドッていると、相原がゆっくりと瞼を開きながら唇を離す。
「続きはまた今度」
それから、俺の唇に人差し指を押し当てた。ひんやりと冷たい感触が、キスをしたことで感覚が研ぎ澄まされていた唇に感じた。
もしも本当に相原が男を騙して命を喰らうタイプの悪魔だったとしたら、俺はもうとっくに絶命している。大事なものを抜き取られたような感覚に加えて、手にも足にも力が入らなかった。
「ねえ、今泉くん知ってます? 恋愛に溺れた神様はだいたいが堕落するんですよ」
まだ吐息を感じる距離にいる相原は、ささやき声で言う。
「?……へえ、そうなんだ」
なんのこっちゃと思いつつ、頭がぼーっとして思考回路がまるでダメになっていた俺はとりあえず相槌を打った。
*
翌日。隣の席のゆうみに今度こそ顔向けできなくなった俺は、カバンで顔を隠しながら教室へ入った。
手探りで机の横にカバンをかけ、窓の外に視線を固定したまま椅子に腰を落ち着けた。ふぅーと大きく息を吐く。そして、はたと異変に気が付いた。
いつもなら校門を抜けたあたりから、なんなら学校付近に差しかかったあたりから、1歩踏み出すごとに女子、または一部の男子から歓声が上がっていた。
それが今朝は、この席に来るまでに1つも聞こえなかった。教室に入れば四六時中止むことのなかった、いい意味での俺の噂話をしている生徒も1人もいない。
それでも痛いくらいに視線は感じる。どことなく居心地が悪かった。
「今泉くん……」
背中に硬いものがツンツンと当たる。同時にゆうみの声が俺を呼んだ。
振り返ると青ざめたゆうみが、教科書の背で俺の背中をつついていた。
「……大変なことになってるよ?」
そう言うと、ゆうみは黒板のほうを指差した。
恐る恐る首をひねると、そこには、
「え……?」
昨日の保健室での一連の出来事が写真という形で切り取られ、黒板全面に貼り付けられていた。左上にデカデカと書かれているのが、どうやらこの特集のタイトルらしい。
『週刊清宮よりスクープ!! 今泉アキト、女子生徒を無理やり-!?』
「あー、はは、なんだこれ」
売れっ子俳優が週刊誌のゴシップによって転落するときの気持ちって、こんなんなんだろうか。
俺は勢いよく席から立ち上がり、いつもとは別の意味でざわめき始めた教室を出た。
廊下に出ると、今まで談笑していた生徒たちは一斉に静まり返る。昨日まで俺に道を譲ろうと道を開けてくれていた女子たちは、今日は俺を避けるように廊下の隅へ避けた。
態度が一変した生徒たちをなるべく気にしないよう目を逸らしながら、1-Dクラス-相原がいる教室へと向かった。
キスをした後、意味深なことを言っていた相原に聞きたいことがあった。
「相原、いる?」
教室のドア付近にいた女子生徒に訊ねると、昨日の今日でイマイチ俺にどう接すればいいのか分からない様子で葛藤したのち、ベランダにいる相原を指で示した。
「ありがとう」
教壇の上を通り、席と席の間を縫うように教室の真ん中を通過し、教室奥にある唯一の掃き出し窓からベランダへと出た。そこへたどり着くまでに、そこにいた全員が俺に注目していた。
「相原」
「イヤ! 近づかないでっ」
俺が並んで立つなり、相原はヒステリックに叫ぶ。
隣接するクラスと延々と続いているベランダから逃走を測ろうとするので、俺は咄嗟にその細い手首を掴んだ。
「やめて! 離して!!!!」
「離すから、理由を聞かせろ!! 昨日なんであんなこと言った? 今朝のことと関係あんのか?」
「助けて!!!!」
俺の問いかけなんか無視して、相原は窓ガラス越しにこちらの様子を伺っていた生徒たちに必死で助けを求める。
どうやら俺は完全に相原に騙されていたらしい。いわゆるハニートラップってやつだ。そんなん仕掛けられるの官僚とかでしょ? 俺なんかに仕掛けてなんの得があるんだよ。
ふと、引っ張り合っていた力が急に緩む。相原が抵抗をやめたのだ。それも手首を掴んでいる俺だけにしか分からないように、襲われている演技をしながら。
俺は物理的にふらついたのと、いろいろな意味で軽い目眩を覚えたのとで、後ろへ倒れるしかなかった。昨日の保健室のベッドの上での出来事がフラッシュバックする。調子に乗っていた自分を思い切り後悔した。
知らぬ間に人目に晒されるポジションに任命され、ゆうみにも愛想つかされ、挙句の果てにこれだ。もう散々だな俺。
崖っぷち感を覚えるより早く、俺はそこから転落し始めていた。終わったな。
どうにかする気もなく、すでに諦めていたんだと思う。
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