第6話 兄妹だと思っていたのは俺だけで、幼馴染はあの頃から女だった

理科室は絶妙に遠い。

生徒たちが日常生活を送る教室が集合した校舎とは別の校舎に追いやられており、特定の授業がない限りはあまり人が近付かない場所だった。


校庭とは反対方向に向かうため、部活動をしている野球部の「うぉーい」やサッカー部の「うぇーい」という掛け声も遠ざかっていく。校舎と校舎をつなぐ渡り廊下の中腹まで来ると静寂は途端に濃くなり、もうそこからは別世界が広がっていた。


上履きのゴム素材とリノリウムの廊下が摩擦を起こし、キュッと音が鳴る。静かな校舎内にすぐに馴染んで消えた。


くすんだオレンジ色の夕日が、窓と同じ範囲だけ廊下に落ちている。そこにたどり着いて少し立ち止まっていると、ほのかにあたたかさを感じた。

ゆうみが隣に座っているときなんかに伝わってくる、体温みたいにさり気なくて、優しい温度。


普段は刹那的に生きているくせに、こんな夕方にだけ、いろいろなことを後悔する。”エモい”よりもずっと自分事で、目を背けたくなるような感情が押し寄せる。


カッコ付けのためにブレザーの中に仕込んだカーディガンは、やっぱり少し暑い。そんな季節には、俺は決まってゆうみとの帰り道を思い出す。


あれは中学1年の春のこと。


俺たちがまだ男女、ではなく、性別を超えた幼馴染だった頃の話だ。



* * * * *



「今泉くん、今日、佐伯さえきさんと一緒に日直だね! いいな、いいなっ」


寝坊したゆうみは、長い髪を俺にとかされながら足をバタつかせた。


「は? まったくよくねえー。ていうか大人しくしてろよ」


勉強机(ほとんどぬいぐるみで埋め尽くされている)の椅子に座っているゆうみの後ろに立ち、俺は手際よくピンクがかった髪をまとめる。今日はポニーテールをご所望だったので、アイロンで毛先の動きに柔らかさをつけてから細いリボンで結んだ。


ゆうみは、普段から意味の分からないところで羨ましがる習性があった。そのなかでも、この日はとくにそうだった。


日直のどこが羨ましいんだか。

相変わらずズレているというか、なんというか……。


日本人の大半が苦手だと答えそうな、日替わりの役職を好む人種がこれほど近くにいたとは。天然記念物に指定して保護したいくらいには希少だ。


「あ、運動着忘れた。すぐ取ってくるから、その間に着替えとけ、いいな」


家が近所、かつ、俺たちの部屋は向かい合う位置にあった。加えて、お互いのベランダから行ったり来たりできるくらいの距離だったりする。

それを同級生に話したら、「この裏切り者……っ!」と走って逃げられたことがあった。


「りょーかあーい!」


俺がまだ部屋にいる時点で、ゆうみはパジャマの裾をたくし上げて脱ぎにかかる。

俺たちにとってはこれが日常で、「きゃあ、見ないでえっ」とか「お、おい、こんなところで脱ぐなよ……っ」的な恥じらいは残念ながらない。


さすがに人の目があるところでは俺はわきまえている。一方、ゆうみはところ構わずこの調子だが。


俺は、ゆうみの部屋のベランダへ一度出てから、自分の部屋のベランダへと飛び移った。運動着の入った袋はベッドの上に転がっていた。それを鷲掴んで、またゆうみの部屋へ戻る。


ゆうみはセーラー服を頭にかぶったまま、「むーむー」と唸っていた。くの字をしたヘソが丸見えだ。


「ったく、世話が焼ける」


肩あたりで溜まっている生地を下に引っ張る。ゆうみの頭がすぽんと現れた。


「よし、行くぞ」


「はいっ」


「あ、待って、前髪乱れてる」


言って、服を着るときに左右にわかれてしまったゆうみの前髪をさっと整える。

これは俺たちにとっての日常で、「あ、ありがとう///」や「べ、別に、虫を払っただけだし……っ」的なきゅんな会話も残念ながらない。


俺の指先が髪に触れている最中、ゆうみは顎を少し上げて目をつぶっていた。

それがまるでキスのときの体勢だとか、そんな色っぽいことは考えていなかった。


しかし、目を開けたときの、ゆうみの寂しそうな顔。

その理由は、幼馴染がただの幼馴染でなくなりつつある今なら、分かるというのに。


「日直」

「くじら」

「ラック」

「くじら」

「らっぱ」

「くじら」

「ライオン、あ、んが付いちゃったっ」


ゆうみがすっとぼけているのをいいことに、デタラメなしりとり(もはや、しりとりですらない)をしながら学校へ向かった。


「難波さん、今泉と一緒に日直やってくれないかな?」


日直のうちどちらかが、朝のホームルーム前に日誌を職員室に取りに行けばいいというルールがあった。登校してすぐ、遠回りになる教室には寄らず、職員室へ直行した。隣にはもちろんゆうみもいた。


先ほど佐伯から欠席の連絡が入ったらしい。担任は日誌を差し出しながら、ちょうど一緒にたゆうみにそんなお願いをした。


ゆうみは俺が結んだポニーテールを揺らしてこくこくと頷く。


「やります、やらせてください!」


担任の手から半ば奪い取るように日誌を受け取った。


日直がだるい俺と、日直がやりたくて仕方ないゆうみ。なんたるアンバランス。

が、しかし、さまざまな人間がいてこそ世界の均衡は保たれている。


俺は、ゆうみに日直の仕事を委ねる(押し付ける)気満々だった。


やる気のあるやつとないやつ、真面目なやつと不真面目なやつ。さまざまな生徒がいてこそ、学校の均衡は保たれている。


「失礼しました」


職員室を後にし、るんるんで前を歩いているセーラー服の後ろ姿に問いかける。


「なあ、なんでそんなに日直やりたいの?」


ゆうみは振り返る。その動きに沿ってポニーテールがスローモーションで宙を泳ぐ。アクセントに付けた細いリボンも一緒にふよふよと漂った。光を受けて黄色く透ける瞳。化粧もしていないのに唇は柔らかそうな桜色をしていた。


「日直がやりたいんじゃないよ?」


ゆうみは日誌で口元を隠した。






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