第15話 脱出

「見に行っちゃダメよ。すぐに町から出なさい。」

そう言ったのはカツさんの奥さんだった。

「でも、私が何か火元を残してきちゃったかもしれない。私のせいだ。」

私は動揺していた。キースの、おじさんやおばさんが大切にしてきたものを、私が燃やしてしまったかもしれない。


今にも走り出しそうな私の上を掴んで、「そうじゃないの。」とカツさんの奥さんは言った。

「多分、放火だろうって」

「放火?」

「そう。」

聞き返す私に、カツさんの奥さんは優しく言う。

「昨夜この辺りじゃ見たことのない人たちがヴィンナ亭の辺りをうろついていたって。」


カツさんも同じようなことを言ってた。

昨夜の残りの、大皿にあった肉をパンに挟みながら、カツさんの奥さんは言う。


「うちの旦那の上着があるから、それを着ていきなさい。あんたは背が高いから男の子に見えるでしょう。」

と、パンを手早く紙に包み、銀貨の入っている袋と一緒に私に押し付けた。


カツさんの奥さんに手をひかれ、子供達がまだ寝ているところを跨ぎながら、出口へ向かう。昨日まで遊んでいた子たちはふっくらしたほっぺを膨らませてすやすやと寝ている。


カツさんのダボッとした上着をかぶせてもらい、髪の毛を帽子の中へとひっつめた。そうなると「お父さんのお古をきた少年」のような変装が出来上がった。


外へ出ると、太陽はまだ遠くの山から向こう側にあって、空を白白と照らし始めたところのようだった。

ヴィンナ亭の方角を見ようとしたが、カツさんの奥さんに抱き寄せられた。

「あんたが無事でよかった。それだけを神様に感謝しなさい。」

それだけ言うと、かつさんの奥さんはすぐに体を離した。

「街を少し離れてから、荷馬車にでも載せてもらいなさい。小金を渡せば乗せてくれる人はいくらでもいるから。」

「でも。」

どうしてヴィンナ亭は火事になったのか。

どうして私はヴィンナ亭に行ってはいけないのか。

どうしてこんなに慌てて出発しないといけないのか。

私はこの街にいてはいけないのか。

「振り向いちゃダメ。まっすぐ進みなさい。」


よくわからないけど、きっとカツさん達はヴィンナ亭の火を消すために頑張ってくれていると思う。

そして、その原因は多分私だ。

私がここにいるから街で家事が起きた。変な人たちがうろついていると言っていた。

偶然とは言え国王殺害を未然に防いでしまった、私の口封じが目的なんだろうか。

やるなら私だけにすればいいのに。

どうしてみんなを巻き込むのか。

これ以上余計なことは言うな、するな、と力で訴えかけてきている。


小さな街で火事が起きると、周辺の一切のものが焼けて大変なことになる。

多分、隣接しているうちのワイン蔵にも及んだに違いない。

見に行かなくちゃ、という責任感に似た気持ちがお腹の中をぐるぐるするんだけど。


ぐいぐいとみんなの気持ちが私の背中を押す。

ここにいてはいけない。

私がここにいたら、今度はカツさんの子供たちにまで何かあるかもしれない。


走り出すと、ヴィンナ亭の方角の空が赤いことに気が付いた。

邪魔をしてはいけない。みんなに迷惑をかけてはいけない。

こみあげてくる気持ちを全て押し込めて、町の中を駆け出した。


---------


町からだいぶ離れ、空が白からいつも通りの青へ移り出した頃。

無心で街道を歩いていた。

振り返らないように、そして、目立たないように。

最初は街道を外れた草地を歩こうかとも思ったけど、昔、母が言っていたことを思い出した。


「『目立たないって』どういうことだと思う?」

「かくれんぼのこと?」

と幼かった私が尋ねると、

「隠れるとか、見つからないというのとはちょっと違うの。」

と母は言った。

「人に紛れて、その場所にいるのにおかしくないに人間になりきるの。今、何をしているのか、どこに行くのか。いつもそこにいてもおかしくない、気を引かない人間としてそこにいることが、一番目立たないこと。」


母は、父に輪をかけて不思議な人である。

どうしてこんなことを言っていたのかわからないけれど、今はそれが役に立つ。

変にこそこそせず、キョロキョロせず、平静を装って、王都を目指す旅人のふりをすることにした。


私は多分、見つかってはいけない。

誰に、なのかはわからないけど、誰かが私を見つけたがっている。いや、多分殺したがっている。10代後半の体格の良い娘。カレンを。


歩きながらカツさんの奥さんが持たせてくれたパンを食べる。味のついているお肉が挟まっていて、美味しい。

ちょっと乱暴そうに食べた方が男っぽいだろうか。普段なら座って食べたいところだけど、時間がない。なさそうなふりをする。


やがて後ろの方からロバに引かせた荷馬車がやってきた。

先に行かせようと思って、脇に避けた。

「よう、どこまで行くんだい」

と、荷馬車に乗っていた背中の丸いおじさんが声をかけてきた。答えないのもおかしいので、

「王都まで。」

と短く言ったが

「俺もそっちだ。乗ってきなよ。」

とひとなつっこい顔でニッと笑われた。

「金がない。」

「そんなもんいいよ。おれも昔、荷馬車に乗せてもらって助かったことがあるんだ。こういうのはな、お互い様よ。さあ。」

少し迷ったが、お言葉に甘えて乗せてもらうことにした。


荷物の一番後ろに、邪魔にならないように乗る。

どこに行くのかとか、いろいろ質問されたけど、ああ、まあ、そんなところ、とぶっきらぼうに返事をしておいた。

でもそれでもおじさんは人懐こく、いろいろ話かけてくれる。腹は減ってないかとか、親はどうしているのかとか。

旅の道中に話し相手が欲しかったのかもしれない。

この背中の丸いおじさんを何かに巻き込んではいけない。優しい人だ。


王都の手前の分かれ道で、背中の丸いおじさんと別れた。

「礼なんていいんだよ。お前さんがそのうち、困っていそうな人を見つけたら助けてやってくれれば。そういうもんだよ。」

そう言うと、おじさんは東の方角に向かって荷馬車を走らせて行った。


軽く会釈をして見送ると、私はやっと、今来た道を振り返った。

たくさんのものをあの町に置いてきた。

でも、作ってきたワインたちはもうあそこにいない。

キース達は、王都にいる。


私は王都の門に向けて一歩踏み出した。

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