第2話 ワインの色

だが。


「この樽で足りる?」


ちょっと不安になった。

いま持ち込んだばかりの樽はすぐに栓を開けられ、次々にコップへと注がれ、ホール係のお袋さんの手によりテーブルへ運ばれる。軍人の酒の進み具合ときたら、水のごとく、いや、水以上ではないだろうか。


「ま、足りなくなったら頼むよ。」


お前の家の蔵から、お前が配達せよ、ということだ。

数年に一度のことだ。ここで稼がずしていつ稼ぐ、といった気合が満ちている。

おじさんはにやりと笑った。


「でも、今年はまたやけに多くない?」

「新しい王様が即位されたから、みんなお祝い気分なのかもな。ほい、突っ立ってないでコップ洗え。」

「でもピアノ…」

「こんな日は無理だ、見ろ。」


例のピアノは今日もテーブル代わりだ。しかも二、三人は使っていようか。

ああなると、酒がこぼれたりすることもよくある。それがすごく嫌で、私が勝手にピアノの上にテーブルクロスもどきの大判の布をかけてある。

たしかに今日という日が終わらない限りは憂さ晴らしも叶わないか。あーあ。


「相変わらず、歌か。」


とおじさんが言った。


「そうだよ。外から人が来た時は、特にさ。」


ぼんやり待つよりは、と食器を回収しにテーブルを回り、洗い物を手伝いながら、それでも客がはけるのを待っていた。

本当ならこんな日こそピアノが弾きたい。


ピアノで弾く曲は、ほとんどが自己流で。

稀に来る流しの吟遊詩人の歌を耳で聞いてそれをピアノで再現する、その繰り返しだ。

何が正しくて何が間違ってるのかなんてわからない。ただ、心の赴くままに、鍵盤を探り、記憶に似た音を叩く。その繰り返しだった。

その成果で完成した曲もいくつかある。

それを客の前で披露しては酒をおごってもらったり、ヴィンナ亭の客引きにもなっていた、と思う。

でも本当は、村の外に出たい。

もっと村の外を旅して、いろんな音楽を聞いて、演奏したい。

こんな小さい村じゃなくて。



突然、ピアノの音が美しく鳴りだした。

見ると、先ほどピアノの前に座っていた輩はすでに退散し、かけてあった布は取り払われ、ピアノの蓋は開き、誰かがその美しい鍵盤に指を乗せていた。


誰が…!!


と見ると、軍服を着た青年が、ピアノの前に座り、優しい微笑みを浮かべていた。


幼い時の記憶が、驚きの速さでよみがえる。

あの時の軍人だ。

音を聞いたらわかった。

鍵盤から奏でられる音、滑らかな指、忘れようもない。あの時のあの人ではないか。

ヴィンナ亭の客たちはとにかくやんやと騒ぎ、やれあの思い出の曲をとか、流行りの歌をとかリクエストしているが、

ピアノの主人は御構い無しに美しい音を撫でて、そして自らも歌い始めた。


おお、我らが輝く 太陽

心のままに 進め 高く

望みのままに 行け 今こそ

理想の地こそ 切り開けや


古くから伝わる歌謡曲であり軍歌である。


朗々と歌い上げる美しさに皆息を呑み、そして拍手を送った。


私もつい、拍手の波を掻き分けて彼の元へ近寄って行った。

あなたは、いつぞやの人でないか、と問いたかったのだ。


「あの。」


と声をかけたと同時に、私と青年将校の間に割って入った声があった。


「いやいや、大したもんだ!いい声だな。どうだ、いっぱい飲まんか。俺のおごりだ!」


と、ハゲデブ親父は大きな声を響かせ、青年将校のまえにワインがなみなみと注がれたコップを差し出した。


なんだよ、私の方が先にその軍人さんに声をかけたのに。あの時の人ではないか、と聞きたかったのに!


「ちょっと、邪魔しないで!」

「なんだ、女中か?」

「邪魔ったら、邪魔なんだよ!」


と、禿頭を叩いてやろうとしたのと同時に、なんらかの違和感があった。

違和感の正体は、ハゲデブ親父の差し出したコップ。

の、中身。


「そのワイン、何?持ち込んだの?」


この店のワインは全部うちが収めているはずだが、ハゲデブおやじが持っているワインの色がいつも見るものとは違う気がして、咄嗟にそんなことを聞いてしまった。


するとさっきまで陽気だったハゲデブ親父の顔がスッと、真顔に変わった。


なに、その顔。

街の親父がするような顔じゃない。


一瞬の沈黙の後、いつのまにか近くにいたキースの親父さんが声をかけた。


「ワインがどうした。え?」


親父さんはハゲデブ親父と青年将校の間に割って入っていった。


「飲まないのか?」

と、親父さんは青年将校とハゲデブ親父の顔を交互に見る。

青年将校は、

「俺は酒はやらないんです。だから、お気持ちだけ。」

とハゲデブ親父に言った。


「そんなら俺が代わりに頂いてもいいかな?」

と、キースの親父さんはハゲデブ親父の肩をがっちりとつかんで、言った。


えっ。


大勢の客が賑わうこのアストロ・ヴィンナ亭で、このピアノの前に集った者だけがその違和感を感じていた。


キースの親父さんはハゲデブ親父の手からコップを奪う。

にこやかな顔とは裏腹に、乱暴にその手から違和感のワインを奪う。


親父さんが飲むの、それ?

どうして?


青年将校のかわりにワインを煽ったキースの親父さんは、その数秒後に飲んだばかりのワインを吐いて倒れた。


「親父さん!」

あたりは真っ赤になり、親父さんが吐いたものがワインなのか血なのかわからない。とにかく親父さんは口を押さえて苦しんでいる。


「そいつを捕まえろ!」

誰かが叫ぶ。

ハゲデブ親父はその姿に似合わない身軽さで、人と人との間をかき分け、外へ向かう。

ここは今、客のほとんどが軍人である。

命令とともに反射的に動く訓練された男たちがハゲデブ親父の腕をつかむが、つるりと抜けられ、殴ろうとするとひょいとしゃがまれ、逆に急所への攻撃を食らう。

右へ左へと蛇のように人と人の間をかき分けて出口へ向かって進んでいたが、やがて誰かが服をつかみ、足をかけ、バランスを何とか崩し、ハゲデブ親父の上に数人が馬乗りになり、身柄を確保した。


「親父さん!親父さん!キース!きて!」

私は声の限り親父さんに声をかけ、必死にワインを吐かせようとした。


叫びながら、私は一つのことだけ考えていた。

毒が盛らたのは、あの青年軍人だ。

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