天使の取り分、悪魔の分け前
アイ村テェ子
第1話 憧れとの再会
私は。造り酒屋の後継になる気なんて毛頭なくて。
とにかく歌好きだった。
それは、小さい頃から酒場に出入りしていたからかもしれない。
酒場には一台のピアノがあって、
そのピアノはいつ、誰が弾いても良かったんだろうけど、
ピアノを弾ける人なんてこの村にはそうそういなくて、大概満席時のテーブルがわりになってた。
その日は、国王軍が南国に訓練を兼ねて進行していて、ちょうどこの村の近くで宿営していた。
体が大きくて勢いのいい軍人が大挙して、店にある酒という酒を全部飲んで行った。
親が酒造りで忙しかった時期と重なり、まだ小さかった私は、いつものように自宅の隣でもあるその酒場で夕飯を食べさせてもらっていた。
酒場の主人はうちの両親とも仲が良く、事情も分かってくれていたので快く食事を出してくれた。
誰も弾かないピアノをテーブル代わりにして、賄い同然のパンとスープと少しのお肉。それがこどものお腹には最高のごちそうだった。
ふと、軍人の一人がこちらに近寄ってきた。背が高くて細身の、金髪の男性だった。軍服を着てはいたが、戦いに赴くような力強さは感じられず、きれいな人だな、と子ども心に思った。
その人は、私の顔を覗き込むと、
「食べ終わった?」
といった。
ちょうど最後の一切れのパンを口にほおりこんだところだったので、そのままもぐもぐと咀嚼しながらうなづいた。
男性は優しく微笑み、
「急がせちゃってごめん。これ、いい?」
とピアノを指さした。
これ?これって、この黒いテーブルのこと?
目を丸くして男性を見つめ返すと
「そう、これ。」ともう一度優しく言った。
私はもう一度うなづくと、食器の乗ったトレイをもってピアノを離れた。
「ありがとう。」
その男性は優しく優雅に、椅子に座るとそのアップライト型ピアノの蓋を開けた。
私はトレイを持ったまま、そこに立ち尽くした。
私はそれまで、そこが蓋で、それが開いて、その下に白や黒の鍵盤があるなんてことも知らなかったのだ。
そこからは男性のオンステージだった。
黒い大きなテーブルだと思っていた箱の上を男性の指が滑ると、箱全体から様々な音が鳴り響き、酒場全体が響き、それに合わせて軍人のお兄さんたちが大きな体を揺らして、大きな声を響かせる。
響き、響き、響いて、
私の心は完全にその響きの渦に飲み込まれてしまった。
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そんな小さい頃のことを思い出したのは、
また今夜国軍が、この村近くに宿営するらしい、という情報がはいったからだ。
ああもう、めんどうくさい。
国軍は南へ軍を進める際、街道沿いにあるこの村から少し離れた草原地帯にテントを張り、一夜を過ごす。村には軍全体を受け入れるほどの宿屋がないからだ。
お偉いさんの一部は村の宿で過ごすが、それ以外の軍人は基本的には村へは入ってこず、自分たちが持ってきた食糧などで済ませる。はずなのだが。
平和なこのご時世、ちょっと羽目を外したい、いや、羽を伸ばしたい方々がこっそりテントを抜け出して、村の盛り場でいつもと違う夜を過ごして帰ってゆく。そこまでが彼らの遠征の楽しみの一つとなっている。
そうなると村中の酒場をはじめ、商売をしている連中は一気に活気づく。
大量に飲み食いし、または家で待っている奥さんや恋人への土産を購入していく軍人たちは、大騒ぎはしたものの、物を壊したりだとか素人の女の子にちょっかいを出したりとかそういう行儀の悪いことはなかったから、客としては上客中の上客であり、商売の好機でもある。
造り酒屋である我が家も、あちこちの酒場から一気に注文が入り、今日は一日中配達に追われることになる。
ああもう、めんどうくさい。
早く終わってくれないかな。
早ければ夕方、いや陽が落ちる前にはこっそり抜け出した軍服の皆さんが現れるだろう。それまでには酒場はすべての仕込みを終えて準備万端整えねばならず、もちろんその仕込みが忙しくなる前に、酒の調達が終わっていなければならない。
というわけで、私は今朝からずっと、酒樽を荷台に乗せては、馬でひき、配達先でおろす、という重労働なのだ。
ああもう、めんどうくさい。
ちなみに、うちで扱う「酒」はいわゆるワインである。
秋のうちに収穫したブドウを醸してつくる、あれだ。
そこそこ歴史のある酒蔵なので、今年できたばかりのヌーヴォーもあれば、蔵の奥底のほうに眠らせてある古酒もある。それをご注文に合わせて、樽単位で客先に持っていく。
でも私は、うちの蔵にどんな酒があるのかは、いまいちよくわかっていない。
興味がないからだ。
私の一番の楽しみは、夜、隣の酒場に行って、ピアノを弾き、歌うことだけ。
自分のうちの手伝いは、飲み代を稼ぐためみたいなもんで。
細腕に筋肉つけて男顔負けに酒樽を運ぶなんて。
ああもう、めんどうくさい。
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さて、日が傾いてきたころ、最後の配達へと向かった。
うちのすぐ隣の、ピアノのある酒場だ。
名前を「アストロ・ヴィンナ亭」という。通称ヴィンナ亭。 酒と美味い料理を出すことで有名なBalだ。
この配達のついでに、そのままヴィンナ亭に居座るのがいつもの日課。
夕飯を頼み、大好きなピアノを弾き、歌を歌う。
親もそのあたりはわかってるようで、仕事さえすれば娘が夜な夜な酒場に入り浸ろうと何の文句も言わない。
まあ昔から放置されていたようなもんなんだけども。
おかげさまで私はすくすくと成長し、ちょっとした男には顔負けの体躯になってしまった。
髪を伸ばし、長いスカートをはいていればかろうじて女に見えるのだろうと思う。
だが、配達の時にスカートはとても動きづらい。赤毛を縛り、袖をまくる。
以前男性と同じようにパンツをはいていたら、ヴィンナ亭のお袋さんがめちゃくちゃびっくりし、状況を察してガウチョパンツを仕立ててくれた。南の遊牧民がはいているという裾の広いズボンだ。遠目にはスカートに見えなくもない。
ヴィンナ亭の厨房を取り仕切っているのは私の幼馴染、2年上のキース。
店の裏口から入ると、顔を出してくれた。
「まいどー」
「よう、遅かったな。」
「今日は忙しかったの!」
「悪いけど、一樽はそのまんま店の中に入れてくれないか。もう終わっちまいそうだよ。」
長身で色白のキースは、それだけ言うと忙しそうに厨房に戻って行った。
店内からはすでに賑やかな声と、食器同士が重なり合う音、そして香辛料と油のいい匂いがしている。
私は勝手知ったる倉庫に酒樽を三つ運び入れ、最後の1樽を転がしながら店内へ入った。
転がしながら、というのはこれが一番運びやすいからである。酒樽を斜めに立てて、縁を回すのである。60ゴウ(1ゴウ=1キロ)ほどある樽をいちいち担いでいては腰がもたない。
カウンターにはキースの親父さんが黄色い歯を見せて出迎えてくれた。
「よう、おつかれ。ちょうどここのが空になったところだ。間に合ったな。」
キースの親父さんは数年前に従軍してから足を悪くし、厨房の一切を息子に任せてバーのマスターよろしくカウンターでもっぱら飲み物を出しては客との会話を楽しんでいる。小さい頃に腹を満たしてもらい、なおかつピアノというものと出会わせてくれた恩人だ。
客席内はキースのお袋さんかが取りしきり、こまごまと動いては笑顔を振りまいている。
私は空になった樽を棚から下ろすと、親父さんと一緒に運んで来た樽を持ち上げ、定位置に乗せた。
よし、これで今日の仕事はおしまい。空樽は帰りに持ち帰ればよし。
大好きなピアノと歌が待っている。
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