騎士よ、捧げよ②


 表紙を開けば幻影が飛び出す魔術仕掛けの本。

 それをこのエーゲラウス大公国では幻書と呼ぶ。


 その起源ははるか昔――森をドワーフが走り、海を人魚が泳ぎ、空を飛竜が舞っていた時代とされ、精霊が与える力でのみ作り出すことができるそれは、人が人ならざるものの力を手にすることのできる唯一の手段でもあった。


 幻書は、ある者にとっては至高の美を生む芸術作品だった。

 ある者にとっては娯楽の一環で、またある者にとっては古い時代を知る史料、ある者にとっては家屋敷を手放してでも手に入れたい貴重な宝で――ときにそれらは重要な取引材料になり、国宝にもなった。


 それでいて、さまざまな人間の多様な価値観の中で揉み洗われたそれは、近代に近づくにつれ新しい価値を見出されてもいた。

 そのひとつが暗器――書物を模した加害道具としての有用性である。




「……ふむ。話を聞くかぎりお仲間が開いたのは黒の6番――俺が駆け出しの頃に作った幻書のようだな」


 魔術師はたるジョッキを片手に語った。

 口ぶりはいたって真面目だが、革張りのウィングチェアに斜めに腰かけ、逆さにしたおけをオットマンの代わりにし、ひじ掛けで頬杖をつくという行儀の悪さである。ついでに腹の上では青い表紙の幻書を開けたり閉じたりして、そのたびに吹き出す妖精のくしゃみのような微風に髪を遊ばせている。


(どうもこのダイス・ホワイトフォールという人は放漫な気質らしい)


 ライリーは悟りつつあった。


 工房であり店でもある室内は、どこもかしこもひどく雑然としており、テーブルの上には大小の本が塔のごとく高く積まれ、天秤は左肩を下げた状態で放置されている。羽ペンはインク壺にささったまま。そのインク壺の蓋はテーブルの上には見当たらない。ライリーが勧められたまるい腰掛にはさっきまで鍋が載っていた――というありさまである。

 正直不安だが、ライリーにはもう彼以外に頼れる者がいない。


「仲間は悪夢にうなされているようです」


 ライリーは両手で包んでいた樽ジョッキをテーブルに戻した。あたたかいミルクをご馳走になっていたところだ。おかげで指先がぽかぽかしていたが、そのあたたかさとは正反対に、声は暗く沈んでいる。


「悪夢……悪夢な。まあ、そうだろうよ」


 ダイスは天井の隅を見上げながら口元だけで笑った。


「若気の至りってやつだ。黒の6番はとにかく恐ろしく、凶悪に造った。あれに首を刈られて放っておいたら、ひと月と待たずにお仲間は死ぬ」

「それは――大げさな話ではないと思います」


 ライリーは膝の上でこぶしを握った。

 考えたくもないことだが、認めざるを得ないことだった。


 王国騎士カロン・ブラウン。

 ともに王太子付き近衛騎士の大役を賜った、ライリーの相棒。


 大任を務めるのに足りる強靭な肉体と精神を併せ持ったはずのその男は、死神の急襲を受けて以来、恐ろしいほどの勢いで心身が衰えている。


 福々ふくぶくしかった顔に頬骨が浮き、肌は粉を吹くほどに乾き、おしゃべり好きだったはずの口は、いくら呼びかけてもかすれ声すら返さない。 


 半開きのまぶたから濁った眼がのぞいているのは分かっているが、そこにあるものを漫然と映しているだけのようで、目の前で手を振ろうが虫が飛ぼうが反応しない。


 まるで生けるしかばね


 その状態に至るまで、わずか十日である。

 その間、どんな名医も名薬も、彼を治せずにいた。

 むろんライリーも、彼が衰えるさまを歯がゆく見ていることしかできなかったのだ。


(カロンを救わなくては)


 使命感に身を焦がされ、ライリーは立ち上がった。

 手の甲でざっと口元を拭う。

 恋にも愛にも――家族愛にさえも――さして甘い経験のない身だが、要求してくるからにはダイスの方にはそれなりの心得があるだろう。身を委ねればよいだけだ。


「さあ、ダイス。いかようにもどうぞ」


 身長差を考慮して彼の足元で片膝をつくと、ダイスをぽかりと口を開けてライリーを見下ろした。


「……待て。やる気満々か。逆に引くぞ」


 なぜか半眼で言い返してきたので、ライリーはむっとして言い返す。


「あなたがおっしゃったことでしょう」

「確かにそうだが、やむなくだ。俺とて男の口唇くちびるになど興味ない」

「どういうことですか」


 ライリーは眉を寄せた。


 この取引がいやがらせや悪意でないのなら、その行為は彼とって価値のある報酬と考えてしかるべきだ。興味がないとはつまり無価値だということ。話が前後で矛盾する。


「はあ……本気で真面目だな。いや、頭が固いのか?」


 ダイスはあきれた様子で逆さまの桶から足を下ろした。

 見せつけるように短いため息をつき、蛇の指輪をつけた人差し指を、散らかったテーブルの上にとんと突き立てる。


「いいか、騎士殿。ど素人のあんたのために、まずもって説明する。幻書の成り立ちを解説するには、何人なんびとも作り手と口唇を重ねねばならん。それは魔術における絶対不可避の法則だ」

「……というと?」

「魔術のことわりは言葉では伝えられんのだ。声に出そうとすれば喉が詰まり、文字で書こうとすればペン先が折れる。試しに一度砂地に指で書こうとしたら爪が剥がれかけた。精霊がくれてよこす魔術の縛りは一般人が想像するよりずっときつい」


 熱弁に、ライリーはおそるおそる問い返した。


「……それほど重大なことなんですか」

「当然だろう。あんたの実家だって、商品の仕入れ値をほいほい教えたりはしないだろう? それと同じことだ。秘密を守る担保が己の身体だってのは――まあ、魔術師の宿命だよ」


 言いながら、ダイスは左目を覆う眼帯に軽くふれた。


 魔術師になるには五人の精霊と契約しなくてはならず、その契約にはを精霊に捧げなければならない。そしてその代償は重ければ重いほど強い力を得ることができる――。

 世に広く知られた話だ。


 ひょっとすると、ダイスの年齢にそぐわない白い髪や、眼帯の下の左目は、その代償なのかもしれない。そう考えれば、彼の言った魔術の縛りの重さについて推し量ることはできた。


「……申し訳ありません。浅はかな質問でした」

「相手が素人なら許すさ。同業者なら張り倒すところだがな」


 その寛大さに礼を言い、ライリーは椅子に腰をおろした。

 ダイスがひょいと眉を持ち上げる。


「あきらめるのか?」

「気の進まないことを強く要請するのは本意ではありません。ほかの方法を探します。あなたにはお知恵を拝借できればそれで充分ですので、ご安心を」

「真面目か」


 またダイスは言った。今度は笑っていた。やけに愉快そうに。

 なんだか少しいやな笑い方だ……と思った矢先に、その口の端が大きく吊り上がり、とがった犬歯がむき出しになる。


 一瞬警戒した。


(なんだ――?)


 思ったときには、ダイスは声をあげて笑った。


「命拾いしたな、騎士殿。俺の口唇はべらぼうに高いぞ」

「お――お金をとるんですか!」

「当たり前だろ。身体に負荷をかけるほどの秘密なんだ、あんたの月給三か月分くらいはもらわないとな」


 思わぬ不意打ちにぎょっとする。

 金やその額が問題なのではない。話の順序が問題なのだ。

 これでははじめから騙しにかかったようなものである。

 がめついだけなら許せるが、姑息な手段は騎士として容認することはできない。


 (まさか、あの装飾品も金の代わりに巻きあげたものか――?)

 

 半分無意識に警戒の範囲を広げていると、彼はライリーの疑いの目すらもおもしろがるように、肩を揺すって笑った。


「まあ、そもそも頭の固さが問題だな、騎士殿」


 ダイスは王様のようにウィングチェアにもたれかかった。

 揶揄するような口ぶりだが、意外といやな表情はしていはい。青い右目が楽しげにライリーを見る。


「騎士殿。あんた、病にかかったら臓器の仕組みを学ぶのか?」

「……どういうことですか?」

「幻書の成り立ちなど知る必要はないってことだ。病にかかったら医者を訪ねるか、薬を買うかするだろう? それと同じことだ。悪夢にうなされているなら悪夢を退ける新たな幻書を開けばいい」


 至極まっとうな主張に、ライリーはぽかんとした。


「……なぜそれを先に言わないんです」

「言ったら商売にならない」

「からかわないでください、ダイス。非常事態なんです」

「からかっちゃいないさ。世の真理を口にしたまでだ。そして非常事態に助力を乞いに来たのなら最後まで頭を低くしていろ、おきれいな騎士殿」


 露骨な上から目線でそう言って、ダイスは左右の肘掛けをぐっとつかみ、立ち上がった。

 そうして首の飾りをじゃらりと鳴らし、向かったのは壁の色をすっかり隠してしまう書棚の前だ。そこに並ぶ蔵書を金の蛇が這う人差し指で端から順になぞっていき、列の中ほど、深緑の背表紙の上でぴたりと止まる。

 鷲掴みにするようにそれを引き抜けば、彼の親指の付け根あたりがぐっと筋張った。

 それほどの厚さがあり、重さがあるということだ。

 革の表紙に刻まれた銀文字の表題がきらりと光る。


 いかにも魔術仕掛けの――幻書らしい幻書だった。


 ダイスはそれを左手に抱え、ゆるりと振り返った。


「濃緑の15番だ。こいつを10日間、日の出と日没の前にお仲間に見せろ。意識があろうとなかろうと、とにかく視界に入れればじきに効果が出る。ただし酒は飲ませるなよ。魔術の理が狂う」


 ライリーは差しだされるまま幻書を受け取り、その表紙を見、ダイスを見た。


「……本当に、そんなことですむんですか?」

「死神の幻書は一瞬でお仲間を痛めつけたはずだが?」

「確かにそうですが……」


 納得はしつつも、複雑な思いがする。

 ずしりと重いこの本に、いったいどんな魔術がこめられているのか。

 期待もあるが不安もある。あんなことがあったばかりだから、なおさらだ。


「この幻書は、何が起こるんですか?」

「俺が話せるのは使い方だけだ。それ以上のことを知りたいなら口唇くちびるを貸せ。直に記憶を送ってやる。――必要か?」


 とっさに顎を引き、首を振る。

 ダイスは声を立てずに笑った。答えなどお見通しの顔だった。

 妖精が魔法をかける楊に人差し指を振り上げ、


「貸し出しってことにしといてやる。十日分の使用料を払え。そのかわり、無事にお仲間が回復したら必ず返しに来い。それは俺も気に入っているやつだからな」

「もちろん、おっしゃるとおりに」

「それから、俺は会ったばかりの人間を信用しない主義だ。賃料とはべつに担保を要求する。あんたが必ずそれを返しに来るように――そうだな。その制服の金ボタンがいい。心臓に近い位置にある――そう、これだ」


 ダイスの指先が外套の合わせ目をかき分け、野花を摘むようにボタンに触れた。

 騎士団のシンボルである大鷲をあしらった、金色のボタンだ。


 暴漢と揉みあえば落失することもあるため、団に戻れば予備が多く準備されている。正直なところ担保とするには充分な役目を持たないものだが、そうと伝えてサーベルや徽章きしょうを要求されると困る――と、ライリーはすばやく算段し、ボタンに手をかけた。


「分かりました。これを預けます。ただし、決して悪用しないと約束してください」

「もちろんだ。用がすめば返す」


 ライリーがボタンを渡すと、ダイスはいっときその金色の輝きに目を細めたあと、指輪の蛇にそれを丸呑みさせるかのようにボタンごとぐっとこぶしを握りしめた。

 他意はないのだろうが少し不気味に感じる仕草だった。


(善人なんだか悪人なんだか分からない人だ……)


 あまり周りにいないタイプである。

 

「ところで騎士殿」


 ダイスが振り向き、ライリーは「は、はい」と首を伸ばした。


「なんだってお仲間はあの幻書を開いたんだ?」


 ダイスは問うた。ただの疑問、というには厳しい口調で。


「なぜ――とは?」

「言ったろう。黒の6番は危険な代物だ。俺はこれでも無関係の人間が不用意に開かぬように、あからさまに怪しい表紙に仕上げたつもりだ。賢明な人間なら手を触れるのも厭うくらい、おどろおどしいのにのな」


 確かに――と、ライリーは思った。


 現物を目にしたからよく分かる。

 鍵がかけられたうえに鎖で戒められていたあの幻書。

 闇より暗く、地獄への扉もかくやというほどぶ厚い表紙の真ん中には、今にも叫び出しそうな髑髏どくろが半立体的にあしらわれていた。


 ふつうを見たら恐れをなす。興味は持っても開かない。本能的にダメだと判断する。カロンだって怪しんだ。


 それでも彼があの死神の幻書を開いたのは、職責を全うするためだった。


 検品。


 すなわち、危険がないかどうかを確かめるために、あのいかにも恐ろしげな表紙を開かなくてはならなかった。正当でかつ合理的な理由だと思う。


 しかし、ライリーは王国騎士の一員として、迂闊にそれを口にするわけにはいかなかった。


 言えるわけがない。


 あの危険に満ちた幻書が、王太子への献上品として届けられたものだったのだ――などということは。

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