騎士よ、捧げよ①
午後九時を回った王都ホースシューの十三番街。呪術師や祈祷師、占星術師がこぞって店を構えるまじない通りを、ライリーは
寒さ厳しい冬の夜である。通りに人の姿はなかった。かわりに薬草を煮だした匂いや火薬の匂い、金属が焼ける匂いなどが、行き場をなくした亡霊のようにゆらりゆらりと漂う。
(……まるで通り全体がよそ者を拒んでいるようだな)
ライリーは空色の目をすがめ、外套の襟をかき合わせた。
通りの先、闇が深まる四つ辻の向こうで、街灯が不規則に点滅している。それは周囲に異常を告げる
背後からビュウと冷たい風が駆け抜ければなおさら、ここにいてはならないような、それでいてなぜだか奥へ奥へと誘われるような、なんとも不可思議な感覚にさいなまれては襟を握る手に力がこもる。
通りに入って三つめの角を曲がったときだった。
前方に目的の扉を見つけ、ライリーは薄い
一瞬口元が白くけぶり、
「いる」
続けてつぶやいたときにはもう、冷たい風を切って走っていた。
「夜分にすみません! ダイス・ホワイトフォールさん! ご対応願います!」
ライリーはかじかむ手で鉄のノッカーを握り、叩いた。三回ずつ、二度に分けて。
昼間訪れたときも同じようにした。あのときはまったく応答がなかったが、今、ドアの隙間から灯りがもれている。
いるのだ。今なら、いる。
期待と焦りで息が弾み、また口元が雲をちぎったようにけぶった。
「――はいはい、どちらさんで?」
陽気な調子の声とともに、ギイと扉が開いた。
やわらかな光の帯が外へと伸びてきて、ライリーは歓喜に胸が高鳴るまま相好を崩し――そして固まった。
相手も同じだった。
扉を押し開けた格好のまま、大きく眉を持ちあげ、口で輪を描き、たっぷり五秒は時の止まった世界の人になる。
のそりと、先に動いたのは彼の方だった。
「……これは驚いた。ずいぶんきれいなお客人だな。このあたりじゃ見ない顔だ」
軽く身を乗り出したその人の、青い右目がななめに見上げてくる。左目は黒革の眼帯の下で、どんなふうにライリーを捉えているのか、判然としない。
だが、ライリーが圧倒されたのはその目のせいではない。
「……お客人?」
ふたたびの呼び声に、ライリーははっとして背筋を伸ばした。立てっぱなしであった襟を急いで寝かせ、乱れた金色の前髪をざっと払う。
「失礼しました。あなたがダイス・ホワイトフォールさんですか?」
「そうだが……なんだ、亡霊を見たような顔をして」
「申し訳ありません。その、想像していたよりお若かったので」
「ああ、よく言われる。こんな頭だからな」
ダイスは左に流れるゆたかな前髪に手を差しこみ、皮肉げに笑った。
老いの象徴のような見事な
身の丈も身幅もライリーと比べて一回りは小さいが、目の奥には確かな光があり、声には強い張りがある。
挫折の苦みも成功の喜びもひと通り味わいつくした、一人前の男の風格だった。
「ああ、ひょっとして昼間書置きを残していったやつか?」
ダイスは右肩で扉にもたれ、素早くライリーの全身を観察しながらそうたずねた。
外套の下に金ボタンつきの黒の制服を着用しているので、ひと目で素性が知れたことだろう。
ライリーは胸に手を当てながらうなずいた。
「王国騎士団第四分団所属のライリー・ウィストンと申します」
「ああ、その名前知ってるぞ。ウィストン商会の御曹司だろう? えらく美形だってのも、なぜか家業をほっぽって騎士団入りしたってのも、おおいに噂になっていた」
「お耳に届いていたのなら光栄です、ダイス。ですがどうか、今は私の願いを聞いてください。あなたの作った幻書で仲間が苦しんでいます。あの死神の本の仕組みと、解決の方法をお教えいただきたい」
「――死神?」
「幻書から現われた死神に仲間が斬られました」
ほう――と、ダイスは顎を上げた。
長い
彼は
「『死神の幻書』――懐かしいな。黒の6番か、それとも10番か。もう手放して久しいが、未だ市場を渡っているのか。なんにしても、王国騎士がわざわざ作り手のところへ来たところをみると、ろくなことが起こってないんだろうな」
「はい。ご推察のとおり、事態は深刻です。ぜひあなたのご助力をたまわりたいと考えています」
「かまわないが……知りたいのはその幻書の仕組み――というので間違いないか?」
「そうです。原因が分かれば解決の道が探れます」
「確かに、たいていの困難はそうして解決をはかるものだな」
心得顔のダイスに、ライリーは思わず相好を崩した。
魔術師は総じて気難しい。すげなく断られる可能性も考えていたのだ。
この様子なら協力を得られるだろうし、カロンも助かる。
来てよかった。頼ってよかった。彼でよかった。
そのときその瞬間、ライリーは間違いなくこの出会いを神に感謝していた。
「――ことに騎士殿、あんた俺に
「は?」
いっぺんに醒めた。夢の泡がはじけたようだった。
ぽかんとして見た魔術師は、手首の装飾品をじゃらりと鳴らしながら腕組みし、片眉ばかりをくいと持ち上げる。
青い右目は存外まともな色を浮かべてこちらを見ている――が、意味が分からない。
「それは……ええと、どういうことですか」
「口づけ、接吻、キス。どんな言葉が伝わりやすいか知らないが、やることは同じだ」
よけいに分からなくなった。
「なに、深く考えなくていい。犬猫に舐められる程度のものだ。しらふでは無理だというなら酒をやるし、ご所望なら媚薬もある。――待て、なんだその冷たい目は」
「……いえ、いやがらせや悪ふざけなら心底軽蔑すると思っただけです」
「顔に出すぎだろう。というか、いやがらせや悪ふざけでなければいいのか」
自分で言いだしたくせ、魔術師は妙に常識的な反論を振りかざしてきた。
その矛盾を理解すべく、ライリーは強く口唇を閉ざし、顎を引き、少しの間黙考する。続けて、自分の中の倫理観や貞操観念、趣味嗜好などを再確認すると同時に、今優先すべきことは何か、すばやく
――結論、仲間の生命に勝るものなど何もない。
決断するまでわずか数秒。
ライリーは背筋を伸ばし、深くうなずいた。
「人命がかかっているのでやむをえません。溺れた人間に息を吹き返させるのと同じことと考えれば、自分自身も納得できます」
「真面目か」
「当然のことでは?」
真顔で言われたので真顔で返すと、なぜだかダイスはかくりと前に首を折った。
ほどなく彼の肩が小刻みに震え、柳のようにもさりと垂れる長く豊かな
直後にそろりと目をあげた彼は、開いた手を顔半分に押しつけていた。明らかに大笑いするのをこらえている。
ライリーは眉をひそめた。
「何かおかしなことでも?」
「いいや。顔がよくて実家が太い王国騎士なんて、そうとう気位の高いやつなんだろうと勝手に思っていただけだ。思わぬ裏切りだ。得した気分だよ」
ダイスは笑った。
なんだかよく分からないが、悪く言われているようではない。――おそらく。
あっけにとられていると、魔術師はおおいに満足したように青い右目を細めた。
「いいだろう。とりあえず詳しい話を聞いてやる。中に入れ。開け放しでは寒くてかなわん」
うう冷える、とわざとらしく震え、ダイスはいっそう大きく扉を開いた。
引きずりそうに長いローブの向こうから、明るい光と暖炉のぬくもりが手を広げてライリーを歓迎している。
(ひとまず、望みはつながった……のか?)
分からないまま、短く嘆息する。
まるく浮かびあがった白い息が、冷たい夜気にとけて消えた。
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