騎士よ、挑め①

    ◆ ◆ ◆


 開かれた本の上で白の精霊が舞っている。


 美しさの中に儚さが垣間見える、少女のような精霊だ。

 次々と降りそそぐ雪の結晶をときおり手のひらで受け止めながら、白いドレスでくるくると踊り、たまに読み手と目を合わせたかと思うと、世にもかわいらしく微笑んでみせる。


「……美しい」


 頬にかかる黄金の髪を指先で払い、彼は熱く、深いため息をついた。


 ウィリアム・ヒル・ランカス。


 エーゲラウス大公国王太子にして熱心な幻書の愛好家である。

 彼はほどなく四十歳に手が届こうかという立派な紳士だが、カウチにもたれて幻書に見入る翡翠色の瞳は、さながら恋する乙女のようにきらめいている。


「白の精霊にふさわしい季節になりましたね」


 ライリーは暖炉にまきをくべながらそっと声をかけた。

 本来目下の者から声をかけることは慎むべきだが、王太子はその点はおおらかだ。もとより慈悲深く、公正で、身分や階級を重要とは考えない人なので、ライリーの言葉にもしかと目線を合わせ、「ああ」と笑顔で返事をする。


「寒くなればなるほど彼女に会いたくなる。本当に美しい」


 絶賛するウィリアムは、今にも白の精霊を抱きしめそうだ。暖炉の火があかあかと照らしているせいもあるだろう、その麗しい横顔は紅潮しているように見える。


 いつもどおりの姿だ。


 彼は数ある所蔵品コレクションの中でも、その幻書を――故ジュリア・ストーンネールの傑作『冬の円舞ワルツ』を、格別に愛していた。

 眠気を誘う春の午後でも、まぶしい夏の朝でも、その表紙を開いては疲れを癒すのだ。さながら恋人のもとに足しげく通うかのように。


 そして彼がその習慣を当たり前になぞってくれることに、ライリーはほっとしていた。

 

 なにしろカロンが死神の急襲を受けたとき、ウィリアムも現場に居合わせたのである。

 あの死神の恐ろしい形相はもちろん、そば仕えの騎士が斬りつけられる瞬間までも目撃したのだから、心に傷を負ったり、幻書に対して忌避的な感情を持っても仕方がないと考えていた。

 ――あるいは、そんなショックさえも白の精霊が癒したのかもしれないけれど。


 ライリーは立ち上がり、背筋を伸ばした。


 開け放しの扉から続きにある書庫が見えている。

 書棚に行儀よく並んだ幻書の大半が王太子の所有する私的財産で、一部は公費で賄われた資料、机の上に積まれているのは検査のすんでいない献上品だ。


 ウィリアムは幻書の愛好家であると同時に研究者でもあって、これまでに幾度か論文を発表している。

 それでいてすぐれた実業家でもあって、駆け出しの魔術師を集めて簡素な仕組みの幻書を大量生産し、市民でも手の取りやすい価格で広く売り出す――という新しいビジネスモデルを作りあげた。

 ついには幻書の保護と発展を目的とした協会まで立ち上げるほどで、今や王太子ウィリアムの幻書に対する情熱は本物だと国中に知れることとなり、その結果、彼のもとには新書から古書まで、ありとあらゆる幻書が集まるようになっている。


 ダイス・ホワイトフォール作の黒の6番――『死神の幻書』もその中のひとつだ。


 ダイスの初期の作品で、かつ一冊しか作られていない幻書だったため、その希少性を評価されて献上品として受け入れられたのだ。

 ダイスは決して著名な魔術師ではないし、人気が高いわけでもないが、世に二つとない幻書となればそれだけで貴重で、ウィリアムも当初は喜んでいたくらいだ。


 が、一歩間違えれば死神に斬られ臥せっていたのは王太子だったかもしれないのだから、今はただただぞっとするばかりだ。

 いや、本当に恐ろしいのは、それが本来の狙いだった、という可能性があることである。


 死神の幻書を献上したのが誰だったのか、実はまだ明らかになっていない――。


「ライリー」


 はっと顔をあげた。いつの間にかウィリアムが幻書を閉じていた。

 ライリーは急いで彼の方に向き直り、姿勢を正す。


「はい、殿下」

「カロンの具合はどうだ? 呼びかけに反応が見られるようになったと聞いたが」

「はい。まだ会話ができるほどではございませんが、数日前まで眠っているか起きているかも分からない状態でしたので、格段に回復していると思います」

「そうか。作り手に助力を乞うべきというそなたの考えは正しかったのだな」

「……はい」


 ――助けを得るために想定外の代償を求められる一幕もあったのだが。

 それはそれとして、確かにダイスから借り受けた幻書の効果は着実に出ている。


「申し訳ありません、殿下。私が至らぬばかりに、殿下にまでご心配をおかけしております」

「なにを言う。そなたが詫びることではないだろう。カロンにあの幻書を開くように命じたのは私だ」

「いえ。本来検品は私が果たすべき務めです。私があの幻書をうまく開くことができなかったために、カロンが身代わりになったようなものです」


 ライリーは後悔からぐっと頭を下げた。

 献上された幻書を検めるのはライリーの仕事である。だから、こうして王太子付きの騎士の中でもわずかな者にしか許されていない、私室への立ち入りも許可されている。


 しかしあの日、ライリーは『死神の幻書』をどうしても開くことができなかった。


 理由は分からない。

 本を戒めていた鎖は頑丈な鉄製だったが外すことができたし、表紙の素材は革でくるんだ板材で、魔術の術式を記した紙は羊皮紙。作りそのものは一般の幻書とそう大きな差はなかったはずなのに、表紙をめくろうにもめくれず、こじ開けようにも指もかからず、ついには左右に引き裂く勢いで力をこめたが、びくともしなかったのである。

 そしてライリーより体格にすぐれたカロンが助太刀を申し出て、被害に遭った――。


「ライリー。そう自分を責めるな。カロンは回復しつつあり、あの幻書は書庫に封じ、二度と開かないことにした。問題は解決したようなものだ」

「しかし――」

「それにだ」


 ウィリアムはライリーの反論を封じてにこりとする。


「今回『死神の幻書』の危険性が分かった。これは有意義な発見だ。そして次の犠牲者を生まずにすんだと考えれば功績だとも言える。胸を張ってもいいことだと私は思うが、どうだ?」


 と、瞳をのぞきこんで言い聞かせてくるから、ライリーは親に叱られた子どものように何も言えなくなる。

 実際、この国では二十歳を迎える前に結婚する者も多い。二人の歳の差はまさに親子に近く、こうして言いくるめられることも多かった。


 しかし今日はただでは引き下がれない。

 ライリーは決然とその場で片膝をついた。


「では殿下。私も『死神の幻書』に関する捜査に加わることをお許しいただけないでしょうか」

「捜査に? そなたも加わると?」


 はい、と、ライリーは深くうなずいた。


「気持ちは分かるが、任せておくべきではないか? 捜査を担っているのは上級騎士たちだ。そなたとは相性が悪いだろう」


 顔を曇らせたウィリアムの懸念は、正しく的を射たものである。

 上級騎士とはつまり貴族出身だということで、同じ制服をまとってはいても、商家出身のライリーは彼らと住む世界が違う。


 おそらく協力を申し出ても誰も歓迎しない。むしろ煙たがられるだろう。分かっている。


「ですが、殿下」


 ライリーは食い下がった。


「私はダイスとじかに会って、彼が話の分かる男だと知りました。現状の捜査は『死神の幻書』が献上された時点から遡るように行われていますので、私はダイスの協力を得て逆から調べてみたいと考えています」

「逆から――と言うと、ダイスが『死神の幻書』を手放したときから、ということか?」


「はい。ダイスは『死神の幻書』を幻書専門の古書店に売ったと証言しました。あの幻書はかなり特徴的な装丁ですので、その後の販売先も追えるのではないかと思います」

「確かに、あれは幻書としては異端だ。そう頻繁に所有者が変わることはないだろう」


 顎をなでて少し考え、「よし、分かった」とウィリアムはうなずいた。


「許可しよう、ライリー。ただしそなたの本分はあくまで私の近衛だ。通常業務は遅滞なく行うよう申しつけるが、いいな?」

「もちろんです。感謝申し上げます、殿下」


 ウィリアムはもう一度深くうなずき、さあもう立ちなさいと言わんばかりにライリーの背中に手をやった。そのとき、


「――殿下、侍女が参りました」


 扉の外から声がかかった。王太子が待ちわびたように顔色を明るくする。


「仕上がったようだな。ライリー、受け取りを」

「はい、ただ今」


 急ぎ扉を開けると、そこに立っていたのは侍女ではなく、扉の外で警戒にあたっていた騎士だった。

 これまではカロンが務めていた役目だが、今はほかの分隊から応援が入っている。今日の当番はこの国でも一、二位を争う大貴族の御曹司オリバー・カーソンだ。


 否応なしに身構える。

 エラジカに似た顔立ちのこの男とは、正直、良好な関係性にない。


 彼はいつもどおり、ライリーを見るなり汚らわしいものでも見るように顔をゆがめ、手に持っていたものを無言でつきだすのだ。


「ありがとうございます」


 ライリーは礼を言ったが、返事はなかった。

 鼻先で扉を閉められ、廊下からすべりこんだ冷たい風が荒々しくライリーの前髪をねぶる。


 王太子の私室でずいぶんな不作法だが、二重扉のおかげで王太子の目を汚すことは避けられている。分かったうえでの行動だ。


 ため息を殺しながら、ライリーは受け取ったものを広げた。

 ライリーの制服である。先ごろボタンがとれているのに気づいた王太子が、侍女に付替えの指示を出していたのだった。


 その場で袖を通す。部屋は充分にあたたかかったが、上着もなく勤務するのは落ち着かなかったのだ。すべてのボタンを留めたら人心地がついた。

 戻る前に一度見直すと、上から二つ目のボタンが、それだけ生まれたてのように輝いていた。心が洗われるようなまばゆさだった。


「殿下。おかげさまで、制服が元に戻りました」


 室内に戻って披露すると、ウィリアムはつくづくとライリーを眺め、満足げに微笑んだ。


「うむ。やはりそなたほど騎士の制服が似合う者はいないな」

「とんでもないことです」


 何を着ても敵なしの美しさを持つ王太子の前では、誰も頭をあげられない。彼は二人の王子とひとりの王女――さらに言うなら王や王妃の中でも、特に容姿に秀でた人だった。


 さて――と、ウィリアムは声をあげた。


「そろそろ次の仕事に移ろう。ライリー、部屋を頼む。来客対応が終わり次第戻るゆえ、暖炉の火を残しておいてほしい。見ておいてくれるか」

「承知しました。いってらっしゃいませ」


 ライリーは廊下に出、オリバーともども、王太子が近衛や侍従と合流し、階下へ降りていくのを見届けた。


「……平民が」


 ひと気が消えたとたん、舌打ちが聞こえた。

 空色の目を端によせると、素知らぬ顔をして前を向くオリバーの、細い目だけが冷たくライリーを見下ろしているのに気がつく。

 

「商人は商人らしく街でそろばんでも弾いていればいいものを」


 むき出しの悪意を、ライリーは臆せず受け止めた。

 彼ら上級貴族のゆがんだ選民意識が嫌いだ。それをわざわざ口に出すところが、とくに嫌いだ。

 しかし強い反論や抵抗こそ彼らを喜ばせることを、ライリーはすでに知っている。


「――私の代わりが務まる者がいるのならいつでもお役目を返上しますよ」


 なめらかに言い返し、ライリーはため息とともに踵を返した。


 二度目の舌打ちが降り、きつい視線が背中に刺さったが涼しい顔でやり過ごした。

 憎らしげに顔をゆがめるオリバーの、行儀の悪い口唇が青ざめている。

 冷える廊下で長く立ち番にあたっていたせいだろう。

 ぬくぬくと育った貴族の御曹司にはつらい役目かもしれない。

 嫌味でなく、少し憐れに思えた。

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