第6話 イスカ④

 ■


 ヨハンが黒森に足を踏み入れてすぐに魔猿の襲撃があった。その様子にヨハンは妙なものを感じる。

 魔猿とは狡猾だ、それゆえに慎重でもある。


(様子見なりなんなりがあると思ったのだが)


 ともあれ、早々に始末させてくれるなら都合が良いと手帳から触媒を取り出そうとしたその時。


 ヨハンは弾かれる様に横に飛び、地面に転がってソレをかわす。その額には冷や汗が浮かんでいる。


「……ちィッ! こいつら! ふざけやがって!」


 ヨハンは魔猿の危険度を過小評価してはいなかった。

 道具も使えば罠も使い、身のこなしは野生の猿を遥かに凌駕し、魔力を循環させる事で強化された肉体強度は、例えばその辺の一般人が包丁等で突いたとしても傷を負わせる事は出来ない程に強靭だ。

 過小評価など出来よう筈もない。


 しかしそれでも。


 ヨハンは走りこみ、時には木を盾にしてソレを防ぐ。

 べちゃりと音がする。

 木にそれがぶつかったのだ。

 続いて悪臭が振りまかれる。


(に、匂いとは微細な粒が鼻に……つまり、俺の体内にアレが……。こ、殺す!!)


 そう、糞である。

 魔猿はよってたかって樹上からヨハンに糞を投げつけているのだ。


 それだけならばヨハンとて熟練の冒険者、むざむざ糞塗れになったりはしない。


 だが魔猿は狡猾で……


 盾としていた木に魔猿が回りこんでくる。

 背後から投げられればひとたまりもない。


 ヨハンは木の影から駆け出し、別の場所へ移動しようとした。そして転んだ。


 罠だ。

 地に生える草を輪にして編んだ原始的なものだが、焦ったヨハンは見事に引っ掛かってしまった。


 転んだ拍子に懐から手帳が落ちてしまう。

 そこへ糞弾が飛んできた。


 ヨハンは自身の背で手帳を庇った。

 背に感じる生ぬるい感触。


 ■


 無表情になったヨハンは木の影で手帳を出し、親を亡くした娘の涙をしみこませて90日間月光を浴びせた待雪草を取り出した。


 ヨハンが使おうとしているのは希死の呪いだ。

 第2級禁忌指定。

 使用がばれれば魔導協会が追っ手をかけてきかねない。

 連盟は関知しないだろうが。

 ともあれこの術は余りにも死を無差別に振りまく。


 もしこの術が発動すれば、魔猿のみならず黒森の生態系が崩壊してしまうだろう。だがそれで良いと、いっそ森を滅ぼしてしまうほうが世の為人の為であると今のヨハンは本気で思っていた。


 希死の呪いは術者が本心からどれだけ怨念を、怒りを、悲しみを、やるせなさを抱いているかにより効果を大きく上下させる。


 その思いが真摯であればあるほどに、呪いはよりおぞましくなっていく。


 ■


 いまはもう無い国の話だ。


 その国の王太子はとある公爵令嬢と婚約をしていた。

 公爵令嬢は王太子を佳く支えられる妃になろうと厳しい王妃教育も頑張ってこなしていた。


 王太子は日々頑張り結果を出す公爵令嬢を次第に疎ましくおもっていった。

 なぜなら周囲は公爵令嬢の頑張り、健気さばかりを賞賛し、自分の事を見てくれないからだ。


 だが体面もある為、二人は表面上は非常に仲睦ましかった。


 しかし王太子の内心は令嬢への羨望、嫉妬、それらが次第に憎悪と形をかえていく。


 そしてある日、内に一物抱えた男爵令嬢が王太子に粉をかけてしまう。


 紆余曲折はあったが、結局王太子は男爵令嬢に転び、男爵令嬢は王太子を都合の良いように動かし、公爵令嬢を貶めた。


 そして悲しいことに王太子の両親……王と王妃は間抜けだった。

 悪賢い男爵令嬢にまんまと操られた王太子の言をまるっと信じてしまった。


 事態は公爵令嬢の排斥にとどまらず、どんどんどんどん大きくなり、やがて公爵家そのものの取り潰しにまで話がすすんでしまう。


 公爵は王に談判にいくが、それを叛逆と捉えられ縛り首とされた。


 更に追い討ちをかける様に、叛逆罪は基本的に連座。

 公爵令嬢の母親、幼い弟も……。


 捕らえられ処刑を翌日に控えた公爵令嬢は王太子を、男爵令嬢を、王を、王妃を、王国民を、王国すべてを呪った。


 夜半、血の一滴をグラスへ垂らし、血混じりの水に語り掛ける……元はといえば市井のお遊びのようなものではあるが、そんなものにしかすがれなかった公爵令嬢の哀れさたるや。


 だが彼女は真剣だった。

 この時、公爵令嬢に術師としてのたぐいまれな資質があった事が災いしたのかもしれない。


 資質はある。

 ならば後は作法だが、呪いというモノで一番大事なのは、どれだけ純度の高い真摯な想いを込められるか、である。


 公爵令嬢は己の血涙をグラスに垂らし、ありったけの思いで呪った。

 結果としてその王国は国民の1人にいたるまで、目から血を流し、爛れて死んだ。


 この哀しくも悍ましい話は何度も劇として演じられたり、吟遊詩人がうたいあげたりする事で多くの者達が知っている話だ。


 この様に、“誰もが知っている話”と言うものは一種の集合意識と言える。

 術師とはそこから力を引き出す者達の事だ。

 力を引き出すには、有形無形の触媒……例えるならば、集合意識と言うモノが入った箱を開ける為の鍵を使わねばならない。


 この触媒はヨハンが多用する草花、鉱石の様な分かりやすいものや、あるいはもっと特殊な形での触媒と言うのも存在する。


 希死の呪いに必要な触媒は待雪草だ。

 この白く小さな鐘の様な花を咲かせる可愛らしい花は、かの滅びた王国の国花である。

 その花言葉は“あなたの死を望みます“。


 ■


「乙女の涙は毀れ、粉雪に混じる。刑場の落首、頬に伝うは恨みの血。砕けよ心。凍てつけ魂。命よ絶えて、咲け、白鐘の……」


 ──花


 と言いかけた所で、ヨハンは正気に戻った。

 森を滅ぼしたら依頼対象の花も枯れるではないか、と言う事に気付いたのだ。


 だが術の福次効果だろうか? 

 悍ましい気配は森を駆け巡り、魔猿達は退散していった。


 上衣の背が糞塗れになるといった大きな犠牲は出たものの、探索行はスムーズに進んでいった。


 そして無事に奥地にたどり着き、目的の花を見つける。

 濃い紫色の、薔薇にも似た花弁を持つ美しい花が一面に広がっていた。


 ヨハンはほんの僅かその美しさに見惚れるも、必要分採取をして森を引き返していった。


 ■


 村へ帰還したのはその日の深夜だ。

 門番に事情を話し村へ入れてもらったヨハンだが、流石に時間も時間なので、馬小屋を借りて眠りにつく。村に宿泊場がないわけではないが、時間的にも部屋を取る事ができないからだ。

 なお上衣は処分し、予備の物を着込んでいる。


 翌朝、ヨハンは村長へ会いに行き依頼の達成を伝えた。

 村長は大喜びで薬師を呼び…………


 ■


「……これで大丈夫です。あとは十日程継続して薬を飲めば治りますよ」


 薬師の説明にマリーベルは笑顔を浮かべて頷く。

 彼女の気持ちが落ち着いたと見るや、ヨハンは依頼票を差し出し、マリーベルにサインを貰った。


 頭を下げ、礼を言い続けるマリーベルを押し留め、ヨハンはほんの僅かな笑みを浮かべながら言う。


「まだ治った訳ではない。無理はしない事だ。それと、花は十分な量を採取したから君の分は足りるだろうが……仮に、また流行り病にかかって今度は別の者の為に花を、と言う事なら次からは銀貨50枚を貰う。これは相場よりやや安い」


 マリーベルは目をぱちぱちと瞬かせ、真剣な表情で頷いた。薬師は困ったように笑っている。

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