急・後編 回顧

あれは3年ぐらい前かな。僕がまだ26で、彼女が24だったから。僕には好きな人がいましてね。あ、これ別に面白い噺とかじゃなくて、まあ、人情噺?それも違いますかね。まあ、いいでしよう。その人は品川一実シナガワカズミと言いましてね。噺家を目指していたんですよ。そして、父に弟子入りした。それは5年前かな。もう不穏でしょう?

僕は一実に惹かれた。向こうもだった。楽しかったなあ、あの時は。今じゃ、糞にも満たない稽古も、まるで一瞬だった。あの清時さん、いや、まだ左凪か。年は向こうが上だったけど、先に弟子入りしたのは僕が先だった。父の財布から、万札をくすねていたのを父が感付いた時。あそこから、全てが狂っていった。左凪のことを少し可哀想に思った僕は、庇ってあげた。その場は一旦終わった。僕ももう何もない。だけど、左凪は破門になった。僕は許してあげるように父に説得しようかと思った。だけど。左凪は出ていく前に、僕のところに来た。あの時の感謝を伝えてくれた。そして、心配しなくていいって言ってくれた、僕の心を見透したのかな。でも、そうと来たら、わざわざ出しゃばったことをする必要はない。だから、僕はいつもの生活に戻った。噺して、一実と楽しく過ごして。んで、父はさ、酒癖がちょいとばかり悪かったんだ。或る日、自分の出番が終わったら、さっさと呑み飲めたんだ。そのときは、一実が付き添いで荷物持ちとかやってたんだ。嗚呼、一実の高座名は、「いちじく」だったかな。まあいいか。ウチに付いた時にさ、蠎蛇あいつ。一実のことを狙い始めたのさ、あの好色家め…。後に聞いたことだが、左凪とのアレを、仲裁されたことを快く思っていなかったらしくてね、それがあいつに拍車をかけた。逃げるいちじくを、それこそ蛇みたいにしつこく追い掛けたんだ。でさ、階段で逃げるいちじくのすそを掴んだらしいんだ。その時、いちじくは抵抗しようとしたんだろうね。袖を振った時、足を滑らせたんだ。そして、蠎蛇ごと転げ落ちた。打ち所が悪かったらしいよ。蟒蛇は軽い骨折で済んだけど、いちじくは…一実はそうはいかなかった。病院で騒いじゃいけないことはわかっていたけど、そうしなくちゃいられなかった。で、僕が一実を襲おうとした挙句、殺した蟒蛇を3年も放っていたのはね。いや、放ってすらないんだ。何せ蠎蛇は足を滑らせた一実を助けようとして、一緒に落ちたなんて言うだもん。でも、時間には罪の意識を軽くしてくれる効果があるようでね。2ヶ月前くらいかな。酔った勢いで、話してくれたんだ。笑いながらね。一度でもつまずく奴は、やっぱり同じことが原因で何度でも躓いたり、足をすくわれてしまうんだ。そして、俺は死神になってやろうと思った。蠎蛇の灯火を消してやろうと思った。だから、準備をした。そっくりな死神の強欲な男のように、斃れて貰う為に、毒を使うことにした。一応、育てて貰った恩を多少返してやろうと思って、大好きな鰒の毒を使ってあげた。さっき、自首するつもりって言ったのは、もう別に仇は取ったから、捕まってもいいや、と思ったから。でも、明日くらいに一実のお墓に行こうと思ったから、今、ここで正直に名乗り出たくはなかった。

『円禄が私達の方を見る。』

お後が宜しいようで。

『本当に落語が上手い人は高座から消えていくと言う。もう、噺が現実に展開されて、噺の情景しか見えないのだ。』

二上さん、この墓地に一実のお墓があります。私の代わりに、行ってくれませんか。

「え、嗚呼。はい。わかりました。」

頼みましたよ、あ、僕は元気になった、って伝えておいて下さい。

「…」

「じゃ、行きましょう。」

芝浜警部の手が岸柳の肩に置かれる。岸柳達は暗闇に消えていった。

「ここか…」

約束の通り、私は例の墓地へ行って、線香と花をお供えした。

「まるで、円游は登場人物に取り憑かれたようだと思いましたが、死神の時は円禄に、男の時も同様に、本当に取り憑かれていたんですね。」

帰りの電車で、心の中で言ったつもりが、口から出てしまったようだ。一つ空けて隣の人が不思議そうな顔でこちらを見ている。

「では、越後屋さん、取り調べを始めます。」

あの時の若い刑事さんだ。何だろう。

「あのー、刑事さん。」

「もう既に噺終わってますよ?」

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死神 原田案山子 @hrdream

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