旧弊の道理

「――どうにも、事情がよく解らない」

 喜一郎の死の報告のあった日の翌日、道場で座る衛はそう言う。

「事情など」

 楓は茶袴と白い着物に襷掛けし、はちまきを額に巻いていた。

「門下の者が殺され、その骸までもが不当に扱われたとなれば、これは捨て置けるものではありませぬ」

「だからと言って、知らせのあった翌日に討ち入りに出るったあないだろうさ」

 そんなの、御一新前だってそうはなかったぞ――とまで言ってから、衛は溜め息を吐く。

「だいたいだなあ、檜山が殺された相手に、お前が勝てるのかい?」

「――秘術の限りを尽くします」

 なんの答えにもなっていない。

「お前に授けた秘術が通じるのなら、檜山もむざと敗れることはなかったろうよ」

「しかし、」

「まあ待て」

 意気込む妹を片手で制し、衛は言った。

「いずれこの落とし前はつける。だが、どうつけるかを決めて、その筋道をつけなけばな。今は旧弊が幅を利かせてた時代じゃあないんだ」

「…………!」 



  ◆ ◆ ◆



「……それで、檜山さんは殺されていたと」

「はい」

 道場の中央で向かい合った二人は、互いに頷きあった。

 その二人の横に控えている楓は、心配そうに兄と客人を眺めている。自分が何を心配しているのかということは彼女当人にもよく解っていない。ただ、とにかく不安なのだった。

 喜一郎の話は、はっきりとしない頭のままで外にでたところまで進んでいて。

「確かに、父の横に立っていたのは、その男でございました。そして、父の生死を確かめようとしていたのか、跪いていましたが、やがて父の髪の一部と、刀を手にとって立ち上がり」

 彼を見たのだ、という。

「――何もせずに立ち去ったのか」

「いや」

 じょういである、とだけ言った。その声が眠る前に聞いたそれであるということを、はっきりと悟った。

 怒りと恐怖が同時に身の内を蝕んだ。怒りのままに撲りかかろうとした腕を、恐怖にすくんだ足がひきとめた形になった。かろうじて、喉から声が出た。絶叫であった。

 それは怒声であったか、悲鳴であったか。

 その声にはじかれたように、古武士は踵を返して立ち去っていく。

 喜一郎は、叫び続けていた。

 ――それが、一年ほど前の話なのだ。

「その後、その武士が父が生前仕えていた宮内家の北尾重兵衛であると知り、また実戦において〝花隠し〟なる秘剣を以って不敗であると聞き及び、美和坂先生の下に弟子入りしたのです」

「いや、待て」

 そのまま話を続けようとした喜一郎を、衛は慌てて止めた。

「何か」

「何か、じゃないよ。さっきも言っただろう。相手まで解ってんなら、そいつは官憲の仕事だ。徳川様の時代じゃあないんだよ。殺されたからって殺し返しちゃあいかん」

(道理です)

 兄の言葉を聞き、楓はそう思った。

 仇を討ちたいという気持ちは解るが、今は時代が違うのだ。

 江戸の昔でさえ、武士同士の私闘は禁じられていたのである。当世にあっては到底許されるはずもなく――

「北尾は捕まりません」

 喜一郎は、言った。

「捕まらない?」

「上意とは、上意討ちのことです」

「――――」

「北尾重兵衛は、旧主である宮内家の先代当主の命によって、父を殺しにきたのです」

 まさか、という声を二人は飲み込んだ。

 それこそあり得るとは思えない。

 そも、上意討ちというのは旧幕藩体制化においてのみ成立していたものである。主君の上意を受けて配下の武士がその人物を討ち果たすという行為であり、今の世の中でいえば殺人罪だ。だいたいにしてからが「主君」などというものがいないのである。千代田のお城には、すでに将軍さますらおられぬ。

 楓は困惑のままに兄を見て、兄もまた眉をひそめ、珍しく自分と同様に混乱しているのが見てとれた。

 衛は改めて聞いた。

「そもそも、そんな上意討ちだのなんだのって話、何処から舞い込んできたんだい?」

 そうだ。

 檜山佐吉を殺したのが北尾重兵衛である、までは事実にしても、そこから上意討ちとまでいくのは、あまりにも話が飛びすぎている。「上意」という言葉を聞いたという話であるが、「じょうい」なら「攘夷」だってありえる。

 その「攘夷」で今更どう人が死ぬかなど解らないが、「上意討ち」など持ち出されるよりかはまだありえそうに思えた。

「村から出た父の友人を探しだし、聞きました」

 その人は先代まで芝村で庄屋をしていた矢野家の三男で、今の村長の弟であるという。御一新を期に大阪に行って長らく村にいなかったが、先代の庄屋の十三回忌に帰ってきて、佐吉の死を知って線香をあげにきた。

 その折にぽつりぽつりと、檜山家の人間がどうしてこちらに移り住んだのかの事情を語り聞かせてくれた。

 それによると、宮内家に仕えていた檜山佐吉は先代の当主の勘気を蒙り、それで国元から逃げ出して芝村にやってきたのだとの話だった。

「そりゃあ、随分と思い切ったというか、図太いというか……」

 衛は首を振った。

 今では同じ県内であるが、宮内家は隣国の藩主であり、その所領は川一つ越えたところにあった。確かに別の国で、別の家の領地であったとはいえ、ごく近い。

 それについては。

「当時の母は身重であったそうです」

 とのことであったらしい。そんなに遠くにも行けなかったし、産気づいたのが芝村で、そのまま居着いてしまったのだそうだ。その時に生まれた子は娘であったが、六つを数えず亡くなったということだが。

 そこまで聞いていた衛は、「そういえば」と思い出すことがあった。

「宮内家というと、あれだ。新任の警察署長があそこの出身だった」

「はい」

「そうか……宮内家の先代の当主と言えば、その頃に亡くなられていたなあ」

「…………………?」

 どうやら、何らかの結論に達したらしく、しきりに頷く衛を見て、楓は首を傾げた。

 今、兄の口にした断片的な言葉では、どれほどのことも彼女には解らない。

 衛は妹の顔と喜一郎の顔を見比べ、溜め息を吐いた。

(どういう、こと……?)

 ぴんとこない話だったが、その後も二人の話は続き、それでだいたいの概要は楓にも知れた。

 宮内家というのは今でいう宮内子爵家で、御一新も無事に潜り抜けて華族の列に加わっていた大名家であった。

 この先代の当主というのは気性は荒いが内政には積極的に力を入れて多くの難事を解決し、当代の名君と称えられた。赤字であった藩の予算を在任十五年で黒字に転換させ、治水工事を行って民草の生活を安定させたというのだから大したものである。その程度のことすらも楓は知らなかったが、衛は「ご一新よりも、だいぶん前の話だからなあ」とぼやくように言う。

「まあここらの近辺では名君として知られていたものだよ」

 その先代が、どういう理由でか上意で桧山吉佐を殺すように部下に命じていた。

「父を討ち取れという上意に、どのような理由があってのことかは解りませんが……」

「そういうものは、家中に記録くらいはあるものだが」

「私ではそこまで調べられませんでした。父も、矢野家にそこまでは教えてなかったそうです」

「そういうものかも、しれんな」

 自身が殺されるに至る理由など、生半に他人に語り聞かせることでもない。

 とにかく檜山佐吉という武士は、かつて旧主に上意討ちを向かわされるようなことをした――ということであった。

 だがそれは、もはや旧時代のことである。その頃にどれだけの遺恨があったものなのかは知らずとも、今更にそれを果たそうとすることなどに意味はない。それどころか罪ですらあった。

「――とはいえ、主は主だ。恐らくは、末期に至ってなお、それを心残りとしていた旧主のために、家臣の誰ぞが気を利かせた……というところかね」

 そしてたまたまなのか、そのように図ったのか、そこまでは解らないが、折よくも警察署長は宮内家の旧臣だった。

「兄上、それは」

「……隠蔽、したんだろうな。檜山さんが殺されたって話は聞いていたが、物取りだか押し込みだかの仕業ってことになってたはずだ」

 少なくとも、今時みかけぬ武士の姿をしている男が下手人だというの話は、聞いたことがない、

 衛はそうぼやくように呟き、楓もまた頷いた。

「そこまで調べ上げるのには、一年かかりました」

 喜一郎は、まっすぐに衛を見ている。「宮内家の先代もとうになく、しかし、実行した男が特定できたのです。それが」

「北尾重兵衛……紫電流か」

「はい」

 しん、と……道場の中の空気が冷え込んだかのように静かになった。誰もが言葉を探しているようで、どうにも見つけられないというもどかしさにも似たものがある。

 それでも喜一郎は、改めて自分の目的を語った。

「今の時代は、仇討ちなどは流行らぬこと、してはいけないことだとは重々承知しております。しかし警察署長が事件を揉み消してしまっては、下手人の捕縛などは夢のまた夢です。それはあまりにも――あまりにも道理が通りません。通らないではないですか。命じられたままに人を殺して、罰も受けずにのうのうと生き延びる輩がいるなどと。だから私は、父の仇を討ちます。相手が旧時代の道理を待ちこむのなら、私もそうするまでです。仇討ちに、せめて父を殺した北尾重兵衛を討ち果たせねば……!」

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