燕飛、燕廻

 とりあえず、事態の背景が解らなくては動きようがない――衛はそう妹を説き伏せた後、道場に一人座り、腕を組んで考え込んだ。

 行灯の揺らめく光りに照らされる横顔の眼差しは、しばし虚空へと向けられていたが、やがて行灯そのものを見る。

「旧弊の道理か――ふん。いずれこの行灯の如くになくなってくものなんだろうに」

 そうぼやくように言う。

 行灯を今使用しているのは、石油ランプの匂いを彼が好んでいないという、それだけの事情でしかない。

 もう随分と前から、行灯はあまり使われなくなってきている。

 まだ田舎では使われているところもあるが、夜には石油ランプを使用することが当たり前になって久しい。

 始めて石油ランプを見た時は、その明るさに目が眩むかと思った……というと大袈裟であったが、行灯よりはるかに安全で、明るい照明器具の登場と普及は、彼をして世界が一変してしまったと感じさせずにはいられなかった。

 その眩しさに脅威を抱いた者たちが『ランプ亡国論』などと言い出したのも、すでに懐かしい話だった。

 聞くところによれば、これよりもなお明るく、安定した電気の明かりが東京を中心に普及しつつあるという。

「御一新からこっち、何もかもが目まぐるしく変わり続けているっていうのにな――」

 何故、今更に、自分はこんなことを考えているのだろうか。

 かつて天狗の化身とさえ謳われた剣豪は、そのように行灯に向けて独白する。



  ◆ ◆ ◆



 結局、迫力に押されて入門を許した。


 紹介状もあってむげには断れぬという事情もあるが、その熱心さに心打たれたということは否定できない。

 しかし。

「どうにもなあ……」

 衛は、ぼやくように自室の書籍の山の中で胡坐をかき、腕を組みながら首を捻った。

 壁の向こうから木剣のかちおう音が聞こえて、時に「遅い」「緩い」だのという声がする。

 一昨日に訪れた喜一郎は早速住み込みで弟子入りして、今は彼の妹の楓が稽古をつけている。

 楓は彼とは歳の離れた実妹であるが、剣の腕は生半ではない。特に小太刀の技は大したものである。

 そう紹介すると、さすがに喜一郎は驚いていたが、それはむしろ楓が衛の血の繋がりがある妹だということについてのようにもみえた。

 無理もない話である。

 少なくとも五十前後の男の妹と考えるには、楓は若すぎたのだ。

 後妻の連れ子とでも考えた方が、辻褄が合う。

 あるいは楓も兄同様に若作りと思ったのかもしれないが、実際に楓は若い。

 二人の父が、後妻に生ませた娘なのである。つまりは腹違いだ。歳が離れているということもあって、衛にとっては半ば娘のようなものであったが。

 衛が鍛え上げた楓の技は、到底、喜一郎の及ぶところではない。

 当然である。

 いかに父の仇を討つ覚悟を決めていたとは言え、つい一年前までは百姓働きをしていたのである。最近になって美和坂和馬に弟子入りしたという話ではあるが、さすがにその程度ではどうにかなるほど、剣というのは甘くない。

 美和坂和馬は元は北辰一刀流の剣士で、玄武館で四天王といわれた森要蔵に学んだ。森要蔵は後に戊辰戦争で亡くなったが、麻布永坂に道場を構えていた頃があり、美和坂はその時期に入門して免許を得ている。

 その後、彼は故郷に戻ってから諸派の剣士と交流し、工夫を重ね、遂には心伝一貫流を称するに至っていた。

 こちらもやはり近在に聞こえた剣客で、衛とも若き日には酒を酌み交わして剣理を語り合った。あの頃の自分らには国の行く末も天下の趨勢も何も関係はなかった。剣一筋でどこまでも歩いてゆけると信じていられたが――。

「ぎっくり腰たあ冴えないよなあ」

 歳はとりたくないねえ、とぼやくようにひとりごちる。

 美和坂が弟子入りした喜一郎を衛に紹介した理由の一つが、それだ。

 当人としては、仇討ちの是非はともかくとして、自分を頼ってきた以上は一人前に育て上げたいとは考えていたようだ。

 熱心で、何よりも才覚があると。

「上手に伸ばせば、下江以来の使い手になるやもしれぬ」

 と書き添えてあった。

(下江――秀太郎以来とは、また大きく見積もったものだな)

 当世の撃剣において天下一と称されたのが、北辰一刀流の下江秀太郎である。何年か前に日本橋に道場を開いたが評判になったのは、記憶に新しい。

 彼を慕って多くの剣士がその道場に詰めかけたと聞く。

 美和坂とは、道場こそ違うが元は同流という誼もあって、面識もあり、若い頃には北辰一刀流の玄武館で何度か試合したこともあるという。

 詳しい戦績は聽いたことはないが、負け越したようだ。

 そんなこともあって、美和坂は下江を殊の外意識している。

 その美和坂が、下江に比肩すると見積もった程に見込みがあるのだというから、相当なものだ。

 それでも、よる年波には勝てぬ。ならば仕方ない……ということらしい。

 紹介状には、切々とそのようなことが書かれていた。

「にしても、どうしたものか」

 木剣の音が聞こえる。

 喜一郎がこのうえなく本気であるということは、みてなくても解る。

 打ち下ろす剣に迷いがない。相手が女であろうと容赦はせぬという気迫が音から、時折に漏れる気合からそれが察せられる。


 剣に必要なのは半端な小細工ではなく、気合である。


 今はその気合で以て、燕飛、燕廻の形をさせている。

 彼の伝える吉岡流剣法は、由緒によるならば念流の開祖である念阿弥の直弟子であった唐人・李三官より発するとも、祇園藤次の流れであるとも言うが、定かではない。

 吉岡家の三代目は、塚原卜伝や上泉武蔵守にも学び、家伝の念流に工夫を加えて吉岡流を立てたとする。

 佐伯家は宮本武蔵と勝負したということで知られる、四代目の吉岡憲法直綱の弟子であったという。

 その後、元和の頃に事情あって京都からこの地に移り住んでから他流とも多く交わって今の形へと成ったが、原型はあくまでも念流にある。

 燕飛、燕廻は念流の頃より伝わる形で、新陰流や多くの古流に今も残る。

 遮那王以来、もっとも古いと言われる念流より伝わるというのなら、それは最古の形の一つと言っても過言ではあるまい。

 そして残り続けていたということは、その意味と価値を多くの剣士が認めていたということでもある。

 基本的な刀の使い方などは美和坂に教えられていたので、そちらは簡単に解説しただけにして、まずはしばらくは燕飛、燕廻を繰り返し稽古させた後――

 などと色々と考えてはいた。

 美和坂の評価が妥当か否かはまだ彼にも解らないが、少なくとも今の段階でもそれなり以上の腕前に思えた。早ければ三年で免許くらいは出してもいいかと思える。

 しかし問題は……。

「どうしたものかなあ」

 もう一度、ぼやいた。

 喜一郎の話は最初から最後まで奇態なものであったが、嘘だとは思えなかった。上意討ちがどうというのは、正直、信じ難いがあり得ぬ話ではないか、とも思う。

 最後の仇討ちとして知られるのが、明治十三年の「臼井六郎事件」であるが、この事件は自首した六郎は終身刑を言い渡すも、結局は明治二十三年に大赦がでて解放されている……仇討ちだのは旧弊の蛮習で禁止こそされてはいたが、人々の中からそれらが抜けきるにはまだまだ時間がかかると見える。

 衛自身も、仇討を積極的には支援できないが、どうにかしてやりたいという気分はある。彼も武士であったからだ。敵討は、しないと面目に関わる行為である。そのような考え方が染み付いていた。

 もっとも、そういうことは喜一郎には理解できまい。喜一郎が敵討を願っているのは、かつての武士道だの儒学の忠孝だのとは、あまり関係がないように見受けられた。

(だいたい、仇討ちってのは上意討ちを相手にするもんじゃあない)

 そこらの、武士としての常識が解ってない。解りたくないのかもしれない。あるいは四民平等の世の中において、上意をどうこうというのが腹立たしいと思ったのか。

 いずれ、それは今様のまっとうな心の有様だとも衛は考える。

「しかし相手のことが解らないというのが一番面倒だな」

 正直をいうと、そのことが一番厄介なのだと衛は思っていた。

(紫電流、北尾重兵衛――聞いたことはあるが)

 六十余州の剣流の全てを知悉しているわけでもないし、近隣の剣客の全てを見知っているわけでもない。

 だが、紫電流については、彼は一応知っていたし、気にもなっていた。


「まさか、天保の頃にうちから出た流派に、明治の御代に関わることになるとはな……」


 それが美和坂が喜一郎を彼の元へとやった、もうひとつの理由であった。

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