第7話 牛乳とY

笹の森をかき分けて、逃げるように南に進んだ。太陽が昇り、頭上に輝くまで歩いても、進んだ距離は数百メートルもなかっただろう。それほど笹の森は歩きにくい場所だった。手は笹をかき分け続けてあちこちに擦過傷ができているし、足は笹の弾力によってつねに引っ張り続けられていた。疲労のピークはとっくに過ぎていて、ただ捕まりたくない、その気持ちだけで動いていた。


なので笹の森が終わり、きれいな白い道が出てきても安心はできなかった。この道の向こうからパトカーがやってくるかもしれない。そう想像するだけで恐ろしかった。早く次の笹の森がやってくればいいのにとさえ思った。だから何度か車やバイクとすれ違ったが、助けを求めることもヒッチハイクもやらなかった。できることは、ただ歩き続けることだけだ。


また夜になろうとするころ、広い場所にたどり着いた。遠くまで広がる牧草地帯だった。牛が逃げ出さないように柵が設置されていて、その日はその柵の前で眠った。


目を覚ますと牛が目の前にいた。大きくてやさしい瞳がいくつもこちらを見ている。手を伸ばすとべろべろとなめてくれた。僕にはもう、立って歩くだけの力は残っていなかった。体が重い、風邪をひいてしまったようだ。体温をまもるべき毛布が、朝露でしっとりと湿ってしまっている。太陽が昇り、毛布が渇くまでここにいるしかない。とりあえずはそうするしかない。だから牛の後ろから声がしたときは本当に自分の頭がおかしくなったと思った。


「日本人か?日本語話せるか?」

「日本人です、韓国語と中国語も話せます」

「そんなとこでなにしてる?ウチくるか?」

「歩き疲れて寝てました、助けてください」

「よしゃ、人呼んでくるから待ってろ」


おねがいします、といって気を失った。


ふたたび目を覚ますと体はあたたかな布団に包まれていて、どこかの部屋にいることが分かった。そばには大柄な女性がいて「あ、ありがとうございます」というと「お!目さめた?おとーさーん!」と、ドシドシと部屋を震わせながら出て行った。すぐに作業着姿の中年の男性がやってきて「大丈夫か?」とさっき聞いた声でいった。


「なんとか」という、なんとか大丈夫だ。

「牛乳飲むか?」とおじさんは言った、いま、一番欲しいのが牛乳かもしれません。「待ってろ」とおばさんに合図すると、おばさんはどしどし出ていき、すぐにどしどしとあったかい牛乳を持ってきてくれた。それを飲む。2日ぶりの栄養だった。


「で、なんであんなとこにいた?いや、言いたくないけどよ、コイツが警察に知らせたほうがいいって騒ぐからよ、俺も警察はあんま好かんけど後でいろいろ言われたらめんどくさいからよ、したらなんであんなとこにいたか理由を聞いてからでも遅くねえってことでとりあえずこんなとこで悪いけど寝てもらったんだ」


「ありがとうございます」といってから僕は考える。いま、警察に来てもらうとどうなるだろうか?僕はナマコの密漁に加担した、いわば密漁グループの1人だし、なんでそんなことをやってしまったかというと、東京のホームレスをやっているヤクザに言われたからだし、そこまでいくとシャブの密輸入に手を貸した悪質な犯罪者と思われるだろう。というかすでに僕はりっぱな犯罪者だ。


それもこれも、あんずという女性に性欲を抱いたからだし、そのために年商1億の企業を起業しなければというイルマとのゲームに参加したからだ。金がなくなってしまって、なんとなく、教授の言う通りにやっていたらこんな犯罪者になってしまった。流されるまま、金を目の前にぶら下げられて、何も考えることなく流されて犯罪を犯してしまった。すべては、僕の意志決定力が弱っちいから起こった出来事だ。責任はすべて僕にある。イルマや、あんずや、教授にはない。


感じる。いま、自分の目の前に人生の分かれ道がある。Y字に分岐した一方は「警察を呼ばないでもらう」、もう一方は「警察を呼んでもらう」、どちらかを選べばどちらかを選べない。自分の意志で、どちらかを選ばなければならない。


カネダさんの最後の姿が目に浮かぶ。カネダさんは密漁の累犯を重ねている前科もちだから、きっと逃げられないと自分でわかっていた。だけど僕たちを逃がしてくれた。「お前は明るい道を行け」と送り出してくれたんだ。


僕はあたたかい牛乳をごくりと飲み込み、その力を借りておじさんに言った。


「警察を呼んでください」


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