5

 あれから一週間が経った。

 タイガは自宅の部屋で荷造りを終えると、荷物を詰め込んだスポーツバッグを肩から提げた。

 犬飼と初瀬の逮捕は、新聞やニュースでも大きく取り上げられた。妹の仇を討つという人情話は世論を真っ二つにして議論を呼んでおり、まだしばらくは注目を集めそうだった。レッドデビルズは梶派と雑賀派の主要メンバーが軒並み逮捕されたため、事実上解散に近い状態になっているようだ。タイガもあの日以降集会に足を運ばなくなったため、ニュースや街の噂以上の事情は知らなかった。

 アリスからの連絡は、あの日以降すっかりなくなっていた。

 あの日、アリスに調査協力の報酬として五百万円が入った通帳を手渡された。金目当てで協力したつもりはなかったので断ろうとしたが、アリスは強引に通帳を握らせるとすぐにどこかで消えてしまった。あれ以降、いつものバーに行っても彼女を見かけることはなく、連絡を取る術はなくなっていた。

 タイガは通帳をポケットにねじ込むと、自室を出た。足音も殺さずに家を出ようとすると、玄関で父が腕組みして待っていた。

「どこに行くつもりだ」

「見りゃわかるだろ。言われた通り、家を出てくんだよ」

「ここを出てどこに行くつもりだ」

「そんなもん知るかよ」

 悪態をついて父の横を通り過ぎようとするが、肩をつかまれて制止された。

「本気で出ていくつもりなのか? お前はサッカーしか能がない人間だ。一人でまともな人生が送れるわけがない」

「勝手に決めつけんな。大体、俺はもうサッカーなんてできないんだよ」

「何だと」

「パニック障害なんだよ。俺はもうボールを蹴れない。ボールを蹴れないやつがサッカーなんてできるわけないだろ」

「……どうして今まで黙っていたんだ」

「言ったら聞いたか? あんたが俺になんて言ったのか、覚えてないのかよ。『サッカーでも落第を取るようなら、お前など存在する価値もないゴミ同然だ』……あんたはずっと、俺にそう言い続けてきたんだぞ。あんたにとって、俺はもうゴミなんだろ? だったら俺に関わらないでくれ」

 タイガは玄関で靴を履いてから、ポケットから通帳を取り出して父の胸に投げつけた。父はそれを受け止めると、中を見て愕然とした顔をする。

「お前、こんな金どこで」

「今までの養育費だ。足りない分はおいおい返す。じゃあな」

 父の制止の声が聞こえたが、タイガは無視して家を出た。

 外は晴れ晴れとした陽気で、門出の日としては最高の日和だった。タイガはスポーツバッグを担ぎ直しながら、住み慣れた家に背を向けて歩き出す。

 しばらく歩いたところで、通りの端に見知った女が立っていることに気づいた。

「やあ、仙堂君。一週間ぶりだね」

「……竜宮司アリス。どうしてこんなところに?」

「ようやくレッドデビルズ壊滅の後始末が一段落したところでね。君には色々と報告したほうがいいんじゃないかと思ったのさ」

 言って、アリスはついてこいと言わんばかりに歩き出す。タイガは慌ててその背中を追った。

 アリスは人の入りがまばらなカフェに入ると、二人分のコーヒーを頼んでから話を切り出してきた。

「犬飼君と初瀬君の公判の準備は順調だよ。自白もあったし、ラウンジやラブホテルの鑑識なんかも進んで、立件はつつがなく進むだろうね。あとは弁護士の腕次第だけど、二人にはいい弁護士を紹介しておいたから、それほど悪いことにはならないと思うよ」

「そうか。色々手を回してくれたみたいで悪いな」

「君が礼を言う必要はないさ。結果的に彼らの二人のおかげで、レッドデビルズを壊滅状態に追い込んで、私の目的を達成できたわけだしね」

「そう言えば、逮捕された幹部連中はどうなるんだ?」

「まずはラウンジの乱闘騒ぎで暴行罪、器物損壊罪などに問われるだろうね。それとは別に、梶が残していた各種暴力行為の映像や、各拠点に溜め込まれていた違法薬物なども押収してある。立派な組織犯罪として扱われるから、量刑は決して軽くは済まないと思うよ」

 タイガは安堵の息を漏らした。梶派の猪原はもちろん、雑賀派の連中もいつか危険な組織になる予感があった。レッドデビルズ全体が機能不全に陥ったことで、街の治安はぐっとよくなるだろう。

「それで、本題は何なんだ? まさかそんなことを報告するためだけに、わざわざ来たわけじゃないんだろ?」

「察しがいいね。実は……犬飼君と初瀬君には言えなかったけれど、君にだけは話しておきたかったことがあるんだ」

 アリスは前置きしてから、重たげに口を開く。

「私が思うに、すべての始まりは『二階堂が間宮里穂を殺したこと』じゃなかったんだと思うんだ」

「どういうことだ?」

「間宮里穂は最初から『梶の愛人』としてレッドデビルズに関わり始めた。それなのに、梶の恐ろしさを知っていた二階堂が自分から間宮に手を出すと思うかい?」

「じゃあ、二階堂は間宮里穂に手を出してなかったって言うのか?」

「いや、そんなことはないよ。ただ、矢印が違ったということさ。二階堂が間宮に手を出したのではなく、間宮が二階堂に手を出したんだ」

「間宮のほうから誘ったっていうのか。梶にバレたらただじゃすまないのに、どうしてそんなことを……」

「そう。梶にバレたらただじゃすまない。でも……ただじゃすまないのは、間宮より二階堂のほうだ」

「……何?」

「間宮里穂はいじめで高校を退学した後、梶の庇護を受けて生活していた。当時から梶の羽振りはよかったし、庇護を受ける内に間宮里穂の野心に火がついたんじゃないかな。実の姉である初瀬君は音楽の才能を見込まれて音楽一家に引き取られ、兄貴分だった犬飼君はサッカーのユース選手としてエリート街道を進んでいた。彼女からすれば、自分だけが置きざりにされている感覚だったんじゃないかな。どうにかして二人に追いつかなければ、彼らとの縁まで切れてしまうのではないかと恐れていたのさ。その上、コロナ禍の影響で梶の足も間宮里穂から遠のいていたと想像がつく。睡眠薬を飲み始めたのはその頃だろうね。間宮里穂は梶の愛人ではあったけれど、梶は特定の女に固執するようなタイプではなかった。いつか自分が捨てられるとわかっていた間宮里穂は、梶派の女性陣を管理している二階堂を味方につけようと考えて、彼女に接近し始めた。その内に二階堂の性的嗜好に気づいてしまい、間宮里穂は二階堂を手篭めにした……というのが私の考えさ」

 アリスの説明を聞いて、タイガは頭が混乱してくるのを感じた。

「ま、待ってくれ。それじゃあ、間宮は自分からレッドデビルズに亀裂を入れたってことなのか?」

「私の推理だとね。彼女は二階堂を手篭めにした時点で、二階堂に梶を打倒してもらってレッドデビルズを乗っ取らせる想定だったんだろうね。二階堂は梶と違って、昔の恋人に似た間宮里穂に強い執着を持っていた。そうでなければ、幹部である二階堂が自ら間宮里穂の世話をし続けていた理由が説明できないからね。ただ、間宮が梶と二階堂を天秤にかけたように、二階堂もまた梶と間宮を天秤にかけていた。二階堂にとって間宮里穂はかけがいのない存在だったが、梶や猪原を敵に回すほどの覚悟はなかった。悩みに悩んだ結果、彼女が選んだのは梶だった」

「それで、二階堂は間宮里穂を殺したのか」

「たぶん、殺すまでにも経緯はあったんだろうと思うけどね。二階堂は間宮との関係を切ろうとしていたけど、間宮はそれを許さず、梶を潰さなければ梶に関係をバラすとまで言い始めた。二階堂にとっては命に関わる事態だ。彼女はやむなく間宮里穂殺害の計画を立て、自分が疑われないように入念に準備を行った。おそらく、間宮里穂の自宅内に残されたDNAの痕跡や指紋なんかは、事前に家事手伝いなんかを手配して消しておいたんだろうね。強姦殺人に見せかけたのは、犯人が女性であることを警察に疑われないようにするため。梶に露見して拷問されることに比べれば、冴えない中年に抱かれるほうがまだマシだったんだろうね」

「……その推理、本当に間違いないのか?」

「確かな証拠や証人なんてないけど、そう考えたほうが色々納得できるって話さ。確証のないことだから、さすがに警察にも犬飼君達にも言えなかった」

「それで俺を呼んだのか」

「君なら、意味もなく誰かに吹聴することはないだろう?」

「まぁな」

 アリスはコーヒーを口に含み、その苦さに微かに顔をしかめたようだった。

「前に言ったことを覚えているかい? 悪魔は天使の姿を借りて現れる――梶も雑賀も、二階堂も間宮も、犬飼も初瀬も、皆それぞれ道を踏み外してしまったけれど、踏み外しさえしなければ真っ当な人間だったのかもしれない。それに……警察も私も、犬飼君も初瀬君も、きっと全員が間宮里穂が純粋な被害者だと思っていた。でも、この一連の事件の発端はすべて彼女だったとすれば、間宮里穂こそが天使を装った悪魔だったのかもしれないね」

 物憂げな声が静寂に溶け込み、テーブル上に沈黙が下りる。黙祷を捧げるように長い沈黙の後、タイガとアリスはカフェを出た。

 眩い陽射しの下の歩きながら、アリスは隣を歩きながらタイガの顔を覗き込んでくる。

「それで。君は家を出たみたいだけど、これからどうするつもりなんだい?」

「正直、何も考えてないな」

「やれやれ、随分と無計画だね。私が渡した報酬も、父親に渡してしまったんだろう?」

「……俺の考えなんてお見通しってわけか」

 タイガが肯定すると、アリスは芝居がかった調子で両手を広げた。

「君、さすがに一文なしで家出は人生なめすぎじゃないかい? 家出少女だってもうちょっと計画的ってもんだよ」

「うるせえな。俺の人生だし、別にいいだろ」

「まぁ待ちたまえ。実は、そんな君にうってつけの仕事があってね」

「何?」

 アリスはいたずらっぽく笑うと、顔の前で人差し指を立てた。

「私への依頼はひっきりなしで、手が回らないことが多くてね。私の代わりに調査を進めてくれる信頼できる人間がいたらいいなと、常々思っていたんだよ。君は人間的にも信用できるし、今回の一件ではよくやってくれた。君がよければ、給料前払いで雇ってみようかと思っているんだけど……どうだい?」

「俺の答えなんて、とっくに予想済みなんだろ?」

「私のことをわかってきたじゃないか」

 アリスが楽しそうに笑って、軽やかな足取りで通りを進んでいく。

(……ったく、また面倒なことになりそうだな)

 微かに心が弾むのを自覚しながら――タイガは羽が生えたように軽やかな足取りで、アリスの背中を追って走り出した。

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隣合わせの天使と悪魔 森野一葉 @bookmountain

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