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 犬飼に連れられてたどり着いたのは、以前犬飼達と出くわした建物だった。

 建物の入口には今日もチンピラ達がたむろしていたが、犬飼の顔を見るなり全員が入り口への道を開けた。犬飼はチンピラ達に挨拶すらせず、黙って建物の中へ入っていく。

 暗い受付を素通りした後、広々とした空間に出た。天井は高く、落ち着いた照明が室内を照らしており、室内のあちこちにテーブルとソファが並べられている。おそらく、ここが梶連次の経営する会員制ラウンジというやつなのだろう。客の姿がないところを見ると、まだ開店時間ではないらしい。

 フロアの中央には高そうなグランドピアノが置かれており、黒いドレスを着た女性がピアノを弾いていた。

 柔らかく控えめなピアノの音色は、不思議なほど簡単にタイガの意識を釘付けにした。鈍く重い通奏低音の上を、繊細なメロディが柔らかく軽やかに踊っている。それが暗い室内を照らす照明のイメージと重なり、タイガは反射的に月を思い浮かべていた。夜空に浮かんで柔らかい光を放ち、感傷的な人間達を優しく見守る月。

 その音色の奥に癒しがたい痛みを感じて、タイガは思わず演奏者の女性を見つめていた。

 美しい女性だった。ウェーブのかかった黒髪は腰まで伸びており、薄い化粧を施した顔には芸術品のように人の目を引き付ける魅力があった。透明感のある白い肌に整った鼻梁、赤い紅を塗った唇には大人の女性らしい色気が香っている。切れ長の瞳は涼しげで、タイガは思わず彼女の演奏する姿をじっと見つめてしまっていた。

「何をしてる」

 先を行く犬飼に声をかけられ、ようやくタイガは我に返った。小走りで犬飼の後を追って、犬飼に答える。

「すまん。ちょっとぼーっとしてた」

「一応言っておくが、あの女は無理だから諦めろ」

「……バカか。そんなんじゃねえよ」

「だったら黙ってついてこい」

 犬飼は冷たく切り捨てると、再びフロアの奥へと歩き出す。

(ったく、敵の本拠地に潜入してるってのに、俺は何を呑気なことを……)

 犬飼はラウンジの奥に入ってくと、VIPルームと書かれた個室のドアをノックした。ドアの向こうの何者かと小声でやりとりした後、ドアが開かれる。

 ドアの向こうには、より一層豪華な調度品が設えられた部屋があった。大理石のテーブルに革張りのソファ、天井の照明は豪華なシャンデリアときている。タイガには縁のない世界だが、どれもゼロが何個並ぶのかわからないほどの高級品に見えた。

 そして――その高級品のソファに、燃えるような赤髪の男が腰を下ろしていた。

 赤い髪をモデルのように綺麗にセットし、オーダーメイドと思しき細身のスーツを身にまとっている。整った顔立ちには愛想のよい笑顔が浮かんでいるが、その笑顔はあまりにも完璧すぎて、逆に人間らしさがまるで感じられなかった。

(この男が梶連次か)

 一渉外担当の立場から、レッドデビルズの実質的なリーダーにまで駆け上がった男。大宮における生きる伝説のようなギャング。

 梶の少し離れた隣には、黒いジャケットと赤いパンツ姿のすらっとした女が立っている。セミロングの髪を頭の後ろで束ね、化粧けは少ないが凛々しい顔立ちをしている。耳には飾り気の少ないピアスがついているが、それ以外に特に装飾品の類もつけておらず、身動きが取れやすいようにか装飾のないスニーカーを履いていた。

 アリスからの情報がなければ、彼女がレッドデビルズの幹部の一人だなんてとても信じられなかっただろう。

(色管理担当の二階堂英梨)

 色管理というのは一種の隠語で、レッドデビルズに所属する女達を管理することを意味している。女達は化粧とドレスとアクセサリーで装飾され、キャバクラや高級ラウンジ、風俗店などで働かされている。女の中には借金を抱えているものも多く、二階堂の役目はそういう女達が逃亡を図らないように目を光らせたり、警察にタレ込まないようにきっちり脅しをかけることだった。もちろん二階堂一人ですべてを管理するのは不可能なので、女達の中にもしっかりとした組織構造があるらしく、二階堂はその組織の手綱をうまく握っているようだった。しかも管理能力が優れているだけでなく、二階堂はかつて高校女子空手で全国大会に出ていたほどの実力者であり、今でも腕っぷしの強さは相当なものらしい。

 犬飼は室内を見回してから、二階堂に疑問をぶつけた。

「猪原は?」

「ここにいるぜ」

 ――何の前触れもなく背後から声が響き、タイガは素早く背後を振り返った。

 VIPルームの入り口を塞ぐようにして、長身の男が立っていた。アシンメトリーなグレーのジャケットに黒いシャツ、白いスラックスを身にまとい、タイガを除けばこの場で唯一赤色が含まれていない格好をしている。指にはシルバーの指輪をしているが、よく見ると指輪にはメリケンサックのような突起がついていた。無造作に整えられた髪と精悍な顔立ちもあいまって、野性的で危険な雰囲気のする男だ。身長は犬飼と同じくらいの高さだが、筋肉は犬飼よりやや薄く見える。だが逆に言えば、より機能性を追及した、しなやかで強靭な筋肉が張り巡らされているということでもあった。その手にはコンビニのビニール袋が提げられている。

 元高校生プロボクサーで、犬飼と同じくレッドデビルズの暴力集団の組織を担当する幹部であり、それに加えて梶連次の護衛担当でもある。レッドデビルズにおいて、タイマン最強を誇る暴力の象徴。それがこの男、猪原啓斗だった。

 二階堂は猪原を睨みつけると、冷たい声音で注意する。

「猪原、遅刻よ。いつも言ってるけど、時間はきっちり守りなさい」

「そうイライラすんなよ、英梨ちゃん。せっかくの美人が台無しだぜ? ほら、酒買ってきたから飲もうぜ」

「仕事中に酒なんて飲むわけないでしょ。あと、服に赤色を入れなさい。レッドデビルズへの忠誠心はないわけ?」

「ハハッ。英梨ちゃんはホント、面白いこと言うなぁ。俺に忠誠心なんてあるわけないじゃん」

 猪原はにこやかに応じると、断りもなしにソファの梶の隣にどかっと腰を下ろした。二階堂が射殺さんばかりの目で猪原を睨むが、彼は意に介した風もなく梶に話しかける。

「連次は相変わらず忙しそうだなぁ。そんなに働いててストレスたまんない? たまには休んでぱーっと遊んだら? 俺も付き合うよ?」

「嬉しい提案だね。でも俺が休んだら、猪原のお給料が払えなくなっちゃうかもしれないよ?」

「それは勘弁。悪いけど連次、俺のために馬車馬のように働いてくれ」

 猪原と梶が親しげに会話をかわすのを見て、二階堂は小さく嘆息して怒りをこらえたようだった。冷たい視線を犬飼に戻すと、話を本題に戻すよう目で促す。

 犬飼は一度だけ緊張をほぐすように小さく咳をしてから、本題を切り出した。

「突然お時間をもらってすみません。今日は、新規の入団希望者の件でお話があります」

「入団希望者? そんなもん、お前がテキトーに処理しとけよ」

「いつもならそうなんだが、今回の入団者は少し特殊なんだ」

「特殊?」

 猪原がオウム返しに問いかけてくるのに、犬飼は小さくうなずいてから梶を見て答える。

「この男……仙堂タイガというんですが、元々俺と同じサッカーチームの選手で、かなり優秀なウィンガーでした。ウィンガーというのはサイド攻撃をしかけるポジションで、かなりの足の速さや運動能力の高さが要求されます。入団試験ではガードもせずに五分以上攻撃をかわし続け、最後は四人がかりで拘束と攻撃をされたんですが、一度も攻撃を受けずに試験を突破しました」

「……つまり、困難に陥った時、単独での問題解決能力と脱出能力が高いってことかな?」

 梶の問いかけに、犬飼は無言でうなずいた。

 二階堂、猪原、梶の視線が一斉に集まり、タイガは居心地の悪さのあまり逃げ出したい気持ちになった。ギャングの幹部四人に取り囲まれて平然としていられるものがいるなら、そいつはよほど危機察知能力が低いか、怖いもの知らずのバカだろう。タイガも命知らずのバカではあるが、本物のギャングを目の前にすると身体が勝手に防衛本能を発揮してしまうようだった。

 当たり前だが、犬飼と一緒にいた雑魚のチンピラどもとはモノが違う。今目の前にいる連中は、「殺す」と言った時には本気で相手を殺す準備が整っている、本物のギャングだ。

 しばしタイガを観察した後、猪原が猛獣のように歯をむき出しにして笑った。

「おい、このガキが本当にそんな優秀なのか? 犬飼、お前テキトーなこと言ってダチを出世させたいだけなんじゃねーの?」

「そんなわけないだろ」

「ならこういうのはどうよ? 犬飼の試験とは別に、俺が今ここでもう一回試験してやるってのは」

 言って、猪原はソファから立ち上がってファイティングポーズを取った。

 その瞬間、彼の体から立ち昇った鋭い殺気に、タイガは思わず後ずさった。

 猪原は本物の潰し屋だ。アリスの情報によれば、猪原の拳によって何十人もの人間が再起不能にされた。あるものは一生消えない後遺症を抱えて余生を過ごすことになり、あるものは突然姿を消したまま行方がわからなくなっているという。パンチの速度や読みにくさも篠田の比ではないだろうし、まともにやり合っては万に一つも勝ち目はない。この男と戦うことになるのなら、広いスペースに出てひたすら全速力で逃げ続けるのが最善策だろう。タイガは背後のドアにすぐに飛びつけるよう、静かに腰を落とした。

 そんなタイガの様子を見て、猪原はなぜか急にファイティングポーズを解いた。

「なんだ、なかなか使えそうじゃん。連次、こいつ悪くないと思うよ」

「犬飼と啓斗のお墨付きか。そりゃすごいな。でも、さっきので何がわかったんだ?」

「え? 説明するのめんどいな。まぁ、やばい匂いに鼻が利くのは間違いないよ」

 猪原の答えに梶は苦笑したようだったが、タイガからすると笑っている場合ではなかった。

(こいつ、あの一瞬で俺が何を考えてたのか、正確に理解しやがったのか……?)

 タイガを『やばい匂いに鼻が利く』と判断した根拠など、猪原の構えを見て逃げる準備を整えたこと以外考えられない。ただ単に危機察知能力が高いと思われただけならいいが、もし、タイガが猪原の情報を知っていたことがバレたら、状況は一気に最悪になる。レッドデビルズ幹部の詳しい情報など、本来レッドデビルズのメンバーか警察でもない限り知り得ない情報のはずだ。それをタイガが知ってるとなれば、警察のスパイの可能性を疑われて、最悪殺されて山に埋められる結末が待っている。

 タイガがヒヤヒヤしながら成り行きを見守っていると、梶は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「オーケー。幹部二人の推薦が出たんだ。仙堂タイガ、君の入団を正式に認めよう。そして、君には極めて重要な任務についてもらいたい」

「重要な任務……?」

「ああ。こう言っちゃうと陳腐だけどね。とある殺人事件の犯人探しさ」

 まさか――と口を開きかけて、タイガは慌てて口をつぐんだ。それに気づいた様子もなく、梶は話を続ける。

「覚えているかな? 去年の六月に起きた西川口の強姦殺人事件」

「……なんとなくは」

「君には、あれの犯人を探して欲しいんだ」

 梶はそう言って、こちらの反応を確かめるように目を覗き込んでくる。その吸い込まれるような眼差しにすべて見透かされているような気がして、タイガはとっさに目を背けたくなった。だがなんとか踏みとどまって、梶と目線を合わせ続ける。

「あの事件、実はうちの人間が絡んでるっていう噂があってね。もしそれが事実で、うちの組織が警察の手入れを受けるようになったら最悪だ。そうなる前に、うちとしても犯人を特定して始末をつけないといけないんだよ」

「始末って、一体どういう……?」

「それを君が知る必要があるかな?」

 梶はにこやかな笑顔のまま、タイガの質問を躊躇なく握りつぶした。

(下手に口答えしたら、このまま俺まで消されるな)

 冷たい確信が背筋を走り、タイガは言葉を呑み込んだ。

「一年前の事件だから、俺も八方手を尽くして調べてみたんだけど、なかなか犯人を特定できなくてね。君には俺が調査し切れなかった領域に踏み込んでもらって、情報を集めて俺達に報告して欲しいんだ」

「調査し切れなかった領域、ですか?」

「レッドデビルズの中でも、俺達と対立している派閥さ。君にはそこに潜入してもらうことになる。俺の手のものだとバレたら何されるかわからないから、うまく立ち回ってもらう必要があるけどね」

(それで足の速さだとか、脱出能力の高さだとかを話題にしてたのか)

 最悪の場合、梶のスパイだとバレて袋叩きにされる可能性も十分ある。裏を返せば、そういう場合でもあらゆる手を使って情報を持ち帰ってこなければならないということだ。

(しかし、まさか二重で潜入調査することになるとはな)

 アリスの調査依頼はまだ始まったばかりだが、すでに予想外のことばかりが起きている。犬飼に出くわすわ、いきなり梶や幹部連中と会うことになるわ、梶から間宮里穂の事件の調査を任されるわ……間宮里穂殺害の犯人を探すという大方針は変わらないものの、タイガを取り巻く状況は一気にややこしくなってきた。

 これで話は終わりらしく、梶は犬飼に視線を向けた。

「犬飼、後のことは任せた。どこまで事情を話すかは君の判断に任せる」

「了解しました」

 犬飼は短く答えると、タイガの肩を押してVIPルームを出る。部屋の外に出るなり、急に空気が濃くなったような気がして、タイガは思い切り息を吸った。どうやらあの幹部連中の雰囲気に気圧されて、知らぬ内に息を潜めていたようだ。草食動物が肉食動物を前にして気配を消すように、生存本能が働いたのかもしれない。

 そんなタイガを横目で見て、犬飼は鼻を鳴らした。

「どうした。もうビビったのか?」

「……うるせえ。お前も梶にへこへこしてたじゃねえか」

「当然だ。あの人はレッドデビルズの実質的なリーダーだぞ。あの人に逆らえば、翌日には消息不明になってもおかしくない」

 犬飼も梶の危険性については承知しているようだ。その上で梶に従っている理由はわからないが、犬飼の「やりたいこと」に梶の存在が重要なのかもしれない。

 タイガが考えを巡らせていると、犬飼はさっさとフロアの外へ歩いていく。その背中を捉えるために、タイガは床を蹴るように勢いをつけて走り出した。

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