第二章 悪魔達の領域

1

 アリスによる潜入技術のレクチャーは一週間に及んだ。

 レッドデビルズに潜入してすぐにボロを出さないように、アリスは徹底的にタイガに潜入技術を叩き込んできた。幹部連中に疑念を抱かれた時の想定問答から、簡単な護身術、尾行の撒き方、アリスとの連絡の取り方……などなど、実習形式で知識や技術を詰め込まれ、すべての合格点をもらう頃には一週間が経っていた。

「死ぬ気で挑んで欲しいのは確かだけど、本当に死んでもらっては困るからね」

 アリスは冗談めかしてそう言っていたが、彼女のレクチャーを通して、タイガを死なせずに作戦を成功させたいという思いは伝わってきた。

 レクチャーが終わった翌日の午後、タイガは久々に繁華街をうろついていた。

 今日の目的はもちろん、レッドデビルズに加入することだ。適当なレッドデビルズの連中に声をかけて、レッドデビルズに加入できるよう幹部に話を通してもらう。入団には軽い試験があるらしいが、具体的な試験の内容まではさすがのアリスも把握していないようだった。

 犬飼に出くわすと確実に揉めるため、なるべく犬飼と会った場所を避けて歩く。午後三時過ぎの繁華街だというのに、やはり人気は少ない。コロナウイルス第四波の影響ももちろんあるだろうが、レッドデビルズと警察とが醸し出すどこか剣呑な雰囲気が、人々を繁華街から遠ざけているようにも見えた。そんな雰囲気の中でも、繁華街にはレッドデビルズではない若者達の姿がちらほらと見受けられた。危険な匂いや金の動く気配を敏感に感じ取って、誘蛾灯に集まる蛾のように吸い寄せられているのだろう。

 何度か路地を曲がったところで、出会い頭にレッドデビルズの五人組と鉢合わせた。

「げっ」

 五人組の真ん中に立っているのが犬飼だと気づき、タイガは反射的に声を漏らしてしまった。犬飼達も当然こちらに気づき、タイガの襟首をつかんで強引に路地の奥へと引きずり込む。

 そのまま袋小路に連れ込まれると、逃げ道を塞ぐように犬飼達が横一列に並んだ。中央の犬飼が前に出てきて、タイガの胸ぐらをつかみ上げる。

「二度と顔を見せるなと言ったはずだが、よほど死にたいらしいな」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」

 タイガにとっては最悪の展開だったが、こうなってしまった以上この状況を利用する方向で行くしかない。そう腹を決めると、タイガは拝むように両手を合わせて声を上げた。

「この間は失礼なことを言って悪かった! あの時はレッドデビルズのことをちゃんと知らなかったんだよ」

「あれだけ舐めた口を叩いて、謝れば済むとでも思ったのか?」

 犬飼は冷酷なまでの無表情で迫るが、タイガはぎこちない作り笑いを浮かべて応じる。

「いや、お前が怒る気持ちはわかる。でも、頼むから話だけでも聞いてくれ。昔のチームメイトのよしみでさ」

「知ったことか」

「いいから聞いてくれって。俺はレッドデビルズに入りたくてここに来たんだよ!」

 聞く耳持たずの犬飼に、強引にこちらの要求を伝える。

 犬飼の眉がぴくりと動き、その無表情の仮面にわずかに怒りが浮かんだように見えた。犬飼は更にきつく胸ぐらをつかみ上げると、射殺さんばかりの眼光を近づけてくる。

「正気か? 俺がお前の入団を許可するわけがないだろ」

「なんだよ。一体何が不満なんだ?」

「お前こそどういうつもりだ? ついこの間まで、俺達のやってることにイチャモンをつけてただろうが」

「いやあ。実は俺、パニック障害でボールが蹴れなくなっちまってさ。プロになるのはもう無理なのよ」

 自分からは誰にも話さなかった秘密を、タイガは犬飼にだけ聞こえるように小声で囁く。犬飼の顔にわずかな動揺と罪悪感が浮かぶが、すぐにまた無表情に戻ってしまった。

「それがどうした」

「だからさ、俺もそろそろ金稼ぐ方法を見つけないとやばいんだよ。うちの親は俺がサッカー選手になれないとわかった途端、俺を家から放り出しそうな勢いだしさ。自分で稼げないと本気で野垂れ死んじまうんだよ。ほら、俺ってサッカーバカだったから、大学行けるほどの頭もないだろ? この性格だから正社員で雇ってくれるところなんてないだろうし、バイトや派遣で暮らしていくのも先がないだろ? だから、どうせならギャングに入って一発当てようかなって。聞いた話じゃ、レッドデビルズって結構儲かるらしいじゃん」

「バカが。ここはそんな甘い世界じゃない」

「――んなことはわかってんだよ」

 犬飼の悪態に悪態で返すと、タイガは真剣な顔で犬飼を睨み返した。このままこちらの要望を押し切るために、どうしても切りたくなかったカードをやむなく切る。

「だいたい、俺がサッカーできなくなったの、誰のせいだと思ってんだよ」

 タイガの言葉に、犬飼の表情が凍りついたように見えた。だがタイガは容赦なく、恨み節を犬飼にぶつけ続ける。

「お前のせいで俺の人生めちゃくちゃだよ。俺に抜かれてプライドが傷ついたんだろうが、たかが紅白戦であんな必死な守備しやがって。お前が変にこだわらずに抜かれてくれりゃ、俺は自信をつけてプレーできるようになって、高校卒業までにプロ契約が取れてたはずだったんだ。俺は本気でサッカーに命をかけてたのに、あんなくだらない接触で全部台無しにしやがって。それで今度は、俺の新しい夢まで潰そうっていうのか? お前、どんだけ俺の邪魔すれば気が済むんだよ」

 言いながら、自分の言葉が説得のための嘘なのか、誰にも言えずに抱え込んでいた本音なのか、自分でもわからなくなっていた。

 犬飼の顔に、隠しようもなく動揺が広がっていく。その隙を突いて、タイガは強引に話を押し通す。

「お前に人並みの罪悪感があるなら、俺にチャンスくらい与えてくれよ。それとも、今度は俺がホームレスになるのを見てあざ笑いたいってわけか?」

「……そんなつもりはない」

「ならいいだろ。こっちだって、今日生きるか死ぬかの覚悟でここに来てるんだ」

 タイガの口にした事情の半分以上は事実だったため、演技ではないと犬飼にも伝わったようだった。犬飼はタイガの胸ぐらから手を離すと、後ろで待機していた子分達に声をかけた。

「篠田、来い」

 犬飼の声に従って、四人のチンピラの内、一番体格がよくて迫力のある顔をした男が近寄ってくる。篠田と呼ばれた男が怪訝そうな顔をしているので、犬飼は手短に状況を説明した。

「こいつ、入団希望らしい。少し根性を見てやれ」

「ボコボコにしちまっていいんですよね?」

「当然だ」

 犬飼の返答を聞いて、篠田は残忍な笑顔を浮かべてタイガの前に立った。威嚇のつもりなのか、拳を鳴らしているのがタイガにはひどく滑稽に見えた。それを横目に見ながら、犬飼はタイガに端的に説明してくる。

「お前の取り柄の身体能力を見る。この男を倒すか、十分間音を上げずに耐えてみせろ」

 説明を終えると、犬飼はポケットからコインを取り出して親指の上に乗せた。弾いて地面に落ちた時が開始の合図ということだろう。

(つまり、これが入団試験ってわけか)

 ケンカで勝つか、十分間攻撃に耐えられるほど打たれ強いかを試して、ケンカや抗争の役に立つかを見るというわけか。実際問題、ギャングにとって身体能力の活かしどころなんてケンカぐらいしかないのだろう。

 タイガと篠田がお互いに半身になって構えを取ると、犬飼がコインを頭上に大きく弾いた。

 コインが宙を舞い、タイガの目がそれを追った瞬間――篠田が一気にタイガに間合いを詰めてくる。

(こいつ、ルール無視の不意打ちかよっ!)

 篠田が拳を大きく振りかぶり、タイガに向けて振り下ろす。タイガは横にステップして拳をかわしつつ、篠田から距離を取る。当然、篠田はタイガを追いながら逆の拳を振り回す。タイガはその拳もかわしながら、冷めた気持ちを抱き始めていた。

(なんだ。こんなもんか)

 篠田の拳をかわすことなど、タイガには造作もないことだった。四歳の時からサッカーをしてきて、一対一で敵と向かい合う状況には慣れ切っている。目の動き、身体の緊張を見れば、相手がどう動いてどこを攻撃するつもりかくらいは簡単に予測できる。しかも、ユース選手の平均シュートスピードは優に七〇キロはあるのに比べて、パンチの速度などプロボクサーでも時速四〇キロ程度だ。篠田のような大振りなら、速度も遅い上に軌道も容易に予想がつく。乱戦状態のゴール前で、味方が打ったシュートをかわすのに比べたら、こんな拳など余裕でかわせるレベルだった。

 それに――タイガのポジションは、相手の裏をかいて突破をしかけるウィンガーだった。自分をライン際に追い詰めようとする敵の手足や体当たりをかわし続けることなど、タイガにとっては日常でしかなかった。

 細かいステップを刻みながら、相手の攻撃やフェイントを読んでひたすらに拳や蹴りをかわし続ける。それを五分も続けていると、明らかに篠田の息が上がり始めた。恵まれた体格だけを武器にケンカをやってきたのか、まともにトレーニングもしていないようだ。ひたすら筋トレと走り込みを続けてきたタイガ相手に、ただのチンピラが体力で勝てる道理などなかった。

「なんだ。もう疲れたのか?」

「……てめえ、ふざけやがって……っ」

「あと五分くらい残ってるのに、そんなへろへろで大丈夫か?」

 タイガの挑発で堪忍袋の緒が切れたのか、篠田が雄叫びを上げながら体当たりを仕掛けてくる。タイガがステップで左右にフェイントをかけると、揺さぶれた篠田はわずかに体当たりの軌道を曲げ、タイガはその逆へ避ける。篠田は体当たりの勢いで脚がもつれてアスファルトを転がり、這いつくばったまま荒い呼吸を繰り返す。

「……この俺をなめたこと、死ぬほど後悔させてやる」

 ぶつぶつと粋がりながら、篠田はふらふらの脚でなんとか立ち上がった。ポケットをまさぐってメリケンサックを取り出すと、拳に握り込む。

「おい、武器なんて使っていいのかよ」

「使うな、なんて言われなかっただろうが」

「最初の不意打ちといい。勝つためならなんでもありかよ」

「ギャングの世界ってのは、そういうもんだろうがっ!」

 吠えるように言いながら、篠田は再び拳を振りかぶって襲いかかってくる。

(武器があったところで、こんな大振りじゃ当たらないけどな)

 苦笑しながら避けようとするが――突然首と両腕に何かが絡みついてきて、タイガは素早く左右に視線を走らせた。

 見れば、篠田の仲間の三人がタイガの首と両腕を抱え込むように拘束している。あまりにもタイガが避け続けるので、篠田の仲間がサポートに回り始めたのだろう。

(クソっ、一対一じゃないのかよっ!)

 文句が口をついて出そうになるが、タイガは歯を食いしばってこらえた。犬飼は『この男を倒すか、十分間音を上げずに耐えてみせろ』と言っただけだ。篠田以外が加勢しないとは一言も言っていない。

「このクソガキ、死ねやっ!」

 篠田が血走った目で、タイガに向けて拳を振り下ろす。タイガは数瞬の混乱から立ち直ると、すぐに最善策を選び取った。

 拘束されていない左脚を、全力で篠田の股間に叩き込む。サッカーで鍛えられたキック力とキック精度をすべて注ぎ込み、篠田の睾丸を潰す勢いで思い切り蹴り上げる。

 篠田は青い顔をして、大きく体勢を崩した。振り下ろしかけた拳はタイガに当たる前に軌道を変え、タイガの右腕を拘束していた男の顔に当たる。そのおかげで右腕の拘束が緩み、タイガは素早く右腕の拘束を振り払った。そのまま、左腕を拘束しているギャングの顔面へ右の拳を叩き込む。後ろの男が首を絞めてくるが、タイガは相手の鼻面に後頭部をぶつけて完全に拘束から逃れた。

 ギャングたちから距離を取り、彼ら全員が視界に収まるように対峙し直す。篠田は金的の激痛から立ち直れないまま地面でもがき、他の三人も顔を押さえながらタイガを睨んでくる。こちらへの殺気が伝わってくる形相だったが、タイガにはそれに付き合ってやるつもりなどなかった。

 タイガはちらりと犬飼に視線を向け、地面に倒れている篠田を指差した。

「ご要望通り、その男を倒したぞ」

「……いいだろう。合格だ」

 犬飼が苦々しげに言うと、残った三人のチンピラが口々に文句を言ってくる。

「まだ十分経ってねえ。俺らにもあいつとやらせろっ!」

「篠田の仇を討たないと気が済まねえ!」

「あんなのただのまぐれだろっ! まだちゃんと実力を見切れてねえ!」

 犬飼はうんざりしたようにため息をついてから、連中を睨みつけた。

「いい加減にしろ」

 犬飼のたった一言で、三人のチンピラは気圧されて口を閉じた。

「今の数分で、こいつがお前らより役に立つことがわかった。こいつの処遇を決める権利は、もう俺にもお前らにもない。これ以上反論する気なら、お前らをレッドデビルズ全体に害をなす存在と判断して徹底的に潰す。それでもやるか?」

 犬飼が念押しすると、三人は黙ったまま首を横に振った。それを確認してから、犬飼はタイガに視線を戻した。

「これからお前をリーダーのところに連れて行って、処遇を決める。黙ってついてこい」

「リーダー……」

 まさか、もうレッドデビルズのリーダーである梶連次に会えるのか。あまりにも順調な展開に顔がにやけそうになり、タイガはとっさに口元を手で隠した。

 うまくごまかせたのか、犬飼はすぐにタイガから視線を外し、チンピラ達を冷たく一瞥した。

「お前らはついてこなくていい。篠田の面倒を見てやれ」

 それだけ言って、犬飼はその場から歩き去る。

(鬼が出るか蛇が出るか。地獄の悪魔どもの姿を拝みにいくとするか)

 タイガは一度だけ深呼吸してから、犬飼の背中を追って走り出した。

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