5

 土曜日の朝、タイガは早速犬飼の実家に足を運ぶことにした。

 父に詮索されないよう、いつも通りサッカーボールを手に家を出た後、ボールを大宮のロッカーに預けてからランニングがてら目的地まで走る。

 烏丸から聞き出した住所は武蔵浦和の住宅街で、立地から考えても犬飼家がそれなりの資産家であろうことが推測される。犬飼の親がどんな人物なのか想像もつかないが、どうやって情報を聞き出すかについては事前に準備をしておいた。

 四十分ほど走ったところで、ようやく目的地に辿り着く。武蔵浦和の住宅地に建つ一軒家は車庫付きの二階建てという立派なもので、玄関前にもきちんと門が設えられていてセキュリティの高さを感じた。大宮近辺の一戸建てに住んでいるタイガでも、さすがにちょっと気圧されるような家だ。

 タイガは昨晩考えた作戦を思い出しながら、門のインターホンを鳴らした。

『どちら様でしょうか?』

 インターホンから女性の声が返ってくる。午前中に押しかけた甲斐あって、少なくとも母親は在宅中のようだった。

「朝早くからすみません。犬飼……和也君と、ユースチームで一緒だったものです」

 犬飼のケガをさせた張本人だ――と名乗り出たい気持ちもあったが、さすがにそれは自制した。門前払いを食らってしまったら、肝心の話が聞き出せないまま終わってしまう。それでは本末転倒だ。

「以前、和也君によくしてもらっていたんですが、お礼も言えずにユースチームを卒業することになってしまって……今更で恐縮なのですが、よければ和也君とお話できたらなと思って、お邪魔させていただきました」

『……そう、和也に。でもごめんなさい。和也はもう、うちには住んでいないの』

「そうですか……もしよければ、彼の今の住所を教えていただけませんか?」

『ごめんなさいね。それもわからないのよ』

 彼女の声にはどことなく上品さが漂っていたが、それと同時に銀食器のような鋭い冷たさも感じられた。

 その冷たさの根本を探るため、タイガは精一杯の演技力を動員して会話を続ける。

「そうですか……もしかして、和也君が最近おかしな連中と関わってるのと関係があるんですか?」

『……おかしな連中?』

「ご存知ありませんでしたか? レッドデビルズっていうカラーギャングがいるんですが、和也君は彼らと関わりがあるみたいなんです」

『和也がそんな不良達の仲間だとでも? 私達を侮辱するつもりなら、それ相応の――』

「お願いですから聞いてください。俺は和也君をあの連中から連れ戻して、またサッカーを続けられるようにしてあげたいんです。そのために、和也君のご家族の力を貸して欲しいだけなんです」

 タイガが一息に言うと、インターホンから沈黙が返ってきた。耳を澄ませるとまだ微かに音が漏れてきているので、インターホンを切られたわけではないようだ。

 おそらく、彼女は考えているのだ。タイガの言っていることが本当なのかどうか、信じるに値するのかどうか、そしてなにより――タイガの話に乗ることで、自分たちにメリットがあるのかどうか。

『……失礼ですが、あなたのお名前は?』

 この質問は当然想定していたが、できれば聞かれずに済ませたい質問でもあった。

 犬飼が家族にケガの経緯について詳細に話していたら、タイガの名前を告げた時点で情報を引き出すことは不可能になるだろう。犬飼の家族からして見れば、タイガは犬飼が重傷を負った最大の原因であり、彼が道を踏み外すきっかけを作った張本人なのだから。

 偽名を名乗るという選択肢もあったが、このタイミングで名前を聞いてきたということは、ユースチーム時代の名簿で名前と顔の照合をするつもりだと見て間違いない。下手な偽名を名乗れば、それこそ二度と情報を聞き出すことはできなくなるだろう。別のチームメイトの名前を名乗っても顔が違うのですぐバレるだろうし、タイガとしても他のチームメイトに迷惑をかけるつもりはなかった。

(腹をくくって本名を名乗るしかないか)

 タイガは一度だけ深呼吸してから、自分の名を告げた。

「仙堂タイガです」

 数分にも感じる沈黙の後、インターホンからようやく返事が来た。

『……わかりました。中でお話をうかがいましょう』

 言うと同時に、門の鍵が開くガチャリという音がした。入ってこい、ということなのだろう。

(犬飼のやつ、俺のことを家族には黙ってくれていたんだな)

 タイガは安堵のため息を漏らしてから、門を押し開けた。オートロックで門の鍵が閉まるのを確認してから、玄関のドアの前で待つ。

 しばらく待つと、玄関のドアが開いて上品そうな女性が姿を現した。長い髪を頭の後ろで結い、ニットのトップスにロングスカートという格好をしており、主婦というよりファッション誌のモデルのように見えた。犬飼の母親であれば四十歳前後のはずなのだが、華やかな顔立ちと厚めの化粧のせいか二十代後半くらいにしか見えない。彼女はじろじろとタイガを観察してから、「どうぞ」と言ってタイガを家の中へといざなった。

 家の中に入ると、広々としたリビングに案内された。リビングのガラス戸越しに庭の様子が見え、人工芝を敷いた庭には子供用の小さなサッカーゴールがあった。そこで子どもの頃の犬飼がサッカーボールを蹴っている姿を想像して、タイガは胃がキリキリと痛み出すのを感じた。

(俺があんなことをしたせいで、あいつはサッカーから離れてしまった)

 本人や家族にどんなに拒絶されたとしても、タイガはその贖罪を果たさなくては気が済まなかった。

 対面するようにソファに腰を下ろすと、彼女はようやく口を開いた。

「和也の母の彩花です。和也のことを心配してくれてありがとう」

「元チームメイトとして当然のことです」

「仙堂君だったわね。あなたは今、サッカーを続けているの?」

「……いえ。プロ契約が取れなくて、次のセレクションに向けて自主トレしながら、仕事を探すか考えているところです」

「そう。あなたも大変なのね」

 気遣うような言葉とは裏腹に、彩花の顔は一ミリも表情を崩さず、冷たく硬質な印象のままだった。

「それで、和也にサッカーを続けさせたいと言っていたけれど、あなたは和也に何を望んでいるんですか?」

「とりあえず、和也君にはレッドデビルズから抜けてもらって、セレクションに向けての練習に戻ってもらいたいです。彼が本来の実力を発揮できさえすれば、プロ契約を取るのに不足はないと思うので」

「随分和也を買ってくれてるのね。でも、和也が本当に不良グループに入ってるとして、そんな簡単に抜けさせられるものなの?」

「それはわかりませんが、彼があれだけ熱心に取り組んでいたサッカーを辞めるなんて、何か事情があるに決まってます。その事情を知るために、ぜひご家族からお話をうかがいたいんです」

「あなたは、どうしてそこまで和也に親身になってくれるんですか? あなたにとって、うちの事情は他人事でしょう? それに、あなた自身他人の事情に首を突っ込んでいる余裕がある人とは思えませんし」

「厳しいお言葉ですね」

 タイガは苦笑してみせたが、彩花はにこりともせずにタイガの反応を観察している。その冷たさを不気味に感じながら、タイガは彼女の疑問に答える。

「……僕らユースチームの選手にとって、和也君は絶対的な目標でした。守備陣は彼を見習おうとしたし、攻撃陣は彼の裏をかこうと必死になっていました。皆、和也君がプロになると信じて疑ってませんでしたし、彼なら世界に羽ばたくような選手になるんじゃないかって勝手に夢を見ていました。ユース選手の内、プロになれるのなんてほんの一握りです。きっと俺もプロにはなれないでしょう。だからこそ、同じチームで一緒にしのぎを削っていた和也君には、プロになって成功してもらいたいんです」

 犬飼のケガの原因が自分だということを隠して、正直な気持ちを説明する。正直面映い内容ではあったが、この場を漂う奇妙な緊張感のせいでさほど照れずに話すことができた。

 彩花は思案するように顎に手を添えてから、こちらの言葉を咀嚼する。

「つまり、あなたは和也に投資するつもりなのね」

「投資、ですか?」

「今の内に和也に恩を売っておいて、将来成功した時に借りを返してもらうってことでしょう?」

「いや、そんなつもりは……」

「見栄を張らなくていいわ。いちいち否定されても面倒くさいから」

 否定の言葉を一蹴され、タイガは言葉に詰まった。その隙に、彩花は一方的に続けてくる。

「他人の成功のために、なんて偽善めいた理由で人が動くなんて信じられないもの。私達と同じように、投資目的で和也を利用してるって考えたほうがよっぽど自然だわ」

「……私達と同じように、って」

 剣呑な言葉に思わず反応すると、彩花は冷めた表情のまま物憂げにため息をついた。

「子どもを育てるというのも、投資の一種でしょう? お金をかけていい教育を受けさせて、時間とスケジュールを管理して、持ってる才能を開花させる。成功したら何十倍にもなって返ってくるかもしれないけど、失敗したらひたすら負債を払い続けることになる。そういう投資」

「投資って……和也君のことを、そんな風に考えてるんですか?」

「何かおかしい? 口に出さないだけで、どの親だって皆同じことを考えてるはずよ」

「そんなわけ……」

 ない、と言おうとして、父のことが頭をよぎる。

 ――お前にはサッカーしかないんだ。サッカーでも落第を取るようなら、お前など存在する価値もないゴミ同然だ。

 父は『タイガがサッカー選手になるように投資』していたが、タイガはケガによってその投資を台無しにしてしまった。そう考えるとすべての辻褄が合ってしまい、タイガは愕然とした。元から厳しかった父はそれ以来タイガを蔑むようになり、口を開けば罵倒の言葉が飛び出してくるようになったが、あれは叱咤などではなく純粋に期待を裏切ったタイガを侮蔑しているに過ぎなかったのだ。

 こちらの動揺など気にした風もなく、彩花はこちらに話の主導権を投げ渡してくる。

「それで、あなたは何を聞きたいの? 和也をサッカーに戻せるっていうなら、大抵のことは答えるわ」

 タイガはなんとかショックから立ち直ると、聞くべき質問をぶつけることにした。

「……アキレス腱が断裂する大ケガをした後、和也君はどんな様子でしたか?」

「さあ。あの子っていつも無表情でしょう? もちろん、落ち込んでたとは思うけど、顔に出さないから何を考えてるのか全然わからないのよ。でもリハビリは真面目にやってたから、ケガが回復したら普通にサッカーを始めるんだと思ってたわ」

「ケガが治った後のトレーニングとかは、どんなことをしていたんですか?」

「走り込みと筋トレ、あとはボールも蹴ってたわね。運動の強度はケガの前より落としてたみたいだけど」

「トレーニング中におかしな様子はありませんでしたか?」

「私も四六時中トレーニングを見てたわけじゃないから、なんとも言えないわね。ただ、見てたとしてもあの無表情だから、痛がってたりしても気づかなかったと思うわ」

 確かに彩花の言う通りで、犬飼の無表情から異変を察知するのは難しいだろう。だが少なくとも、犬飼にはタイガのようなパニック障害はないらしく、サッカーを続けるつもりになれば続けられるようだ。

 希望の兆しに胸を踊らせつつ、タイガはもう一つの核心に迫っていく。

「真っ赤な服を着たり、真っ赤な髪をした若者が、和也君と一緒にいるところを見たことはありますか?」

「入院してた時に、何度か見舞いに来てたわ。和也に聞いたら高校の同級生って言ってたから、それ以上聞かなかったけど」

「退院後はどうですか? そういう連中が家に押しかけてくるようなことは?」

「それはなかったけど、街でそういう子達と一緒にいるところは見たことがあるわ。同級生って言われてたから気にしてなかったけど、あの子達がレッドデビルズっていうギャングだったのね。確かに、不良みたいな格好をしていたわ」

「家に不審な手紙とかが届いたことはないですか?」

「特にないわね。和也宛の手紙なんて、昔からの文通相手からとユースチーム関係の書類ぐらいだったし、変なのが混ざっていたらすぐ気づくはずよ」

 どうやら、レッドデビルズは犬飼の家族を脅かすようなことはしていなかったようだ。とはいえ、犬飼のスマートフォンに直接そういう脅しのメッセージを送っていた可能性もあるので、まだ断定はできないが。

(それにしても、犬飼が文通してるなんて意外だな)

 そんな情緒的な趣味があるタイプには見えなかったので、タイガの中で犬飼のイメージが少しだけ変わった。

「和也君がレッドデビルズに入った時期……毎日赤い服を着始めるようになった時期に、心当たりはありませんか?」

「はっきりとは思い出せないわね。去年の夏には、ずっと赤い服を着ていたような気がするけど、春頃にどんな服を着てたかなんて覚えてないわ」

「和也君が実家を出ることになった経緯をお聞きしても?」

「経緯も何もないわ。去年の年末前に、置き手紙を置いていきなりいなくなったのよ。携帯電話も解約したみたいで連絡も取れないし、置き手紙には連絡先も事情もろくに書いてないから、私達も打つ手なしって状況なの」

「置き手紙には何が書いてあったんですか?」

「変なことは何も書いてなかったわよ? 『家を出る。戻るつもりはない。養育費はなるべく返す』ってだけ。それから毎月、和也からお金が振り込まれてるみたい」

 つまり、振り込みがあることでなんとか生存確認が取れている状態ということか。

「和也君は最近、サッカー以外にやりたいことがあるようなことは言っていませんでしたか?」

「言ってなかったと思うわ。仮に別にやりたいことがあったとしても、口に出すような性格じゃないでしょうし、本心がどうだったのかは知らないけどね」

「……そうですか」

 当初聞きたかったことはすべて聞けたものの、それとは別にタイガには新たに気になることができていた。

「あの……彩花さんは、和也君のことを心配していないんですか?」

 不躾な質問だと自覚していたが、彩花はその質問に眉一つ動かさなかった。

「あの子はもう十九歳よ。自分の行動には自分で責任を取るべき年齢だわ。あの子が不良とつるんで何かしでかしたとしても、あの子自身の責任でしょう? 結構な労力を割いて育てて来たっていうのに、サッカーを辞めて非行に走るなんて……あんな恩知らず、正直もうどうでもいいわ。土下座して戻ってきて、今度こそプロになるために本気で努力するって言うなら話は別だけど」

 こんな母親とずっと一緒に暮らしていたのなら、犬飼があれだけ無表情に育つのも納得だった。

「随分冷え切った関係なんですね」

「当然でしょ。別に本当の親子ってわけでもないんだし」

「えっ」

 唐突に出てきた情報に、タイガは思わず声を上げていた。

 彩花の顔に、初めて表情らしい表情が浮かぶ。口を滑らせてはいけない情報だったのか、彼女は顔に出てしまった痛恨の表情を隠すように口元に手を当てた。

「今のはどういうことですか? 和也君と彩花さんは血が繋がってないんですか?」

「……今言ったことは忘れなさい」

「そんなこと言われても、忘れられるわけないですよ! ちゃんと教えてください!」

 タイガが詰め寄ると、彩花はスマートフォンを持ち上げた。

「今すぐ帰らないなら警察を呼ぶわ。迷惑な不良が家に押しかけてきて退去してくれないって」

 容赦ない対応に思わず怯むが、そんな対応をせざるを得ないくらいの急所だということなのだろう。今はそれをつかんだことに満足して、おとなしく引くべきだ。ここで警察沙汰になってしまっては、父に知られて自由に身動きが取れなくなる可能性がある。

「ご協力ありがとうございました」

 タイガは頭を下げると、彩花の案内に従って家の外に出た。門の外に出るとすぐに鍵がロックされ、おそらく二度と中に入ることはないだろうという予感がした。

 タイガは朝の澄んだ空を見上げながら犬飼のことを考えた。

(もしかして、あいつも親のことで苦労してたのかな)

 タイガの親が離婚したように、犬飼の親にも似たようなことがあったのかもしれない。タイガが自己中心的な振る舞いでチームを困らせていた時にも、犬飼は色々と悩み事を抱えながらサッカーに集中していたのだろうか。

 犬飼が無表情の仮面の下にどんな素顔を隠しているのか、タイガは本気で知りたくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る