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 家に帰って風呂を済ませた後、タイガは早々に自室に引っ込んだ。幸い父は書斎から出てくることはなく、鉢合わせすることはなかった。

 タイガは自室のベッドに腰掛け、スマートフォンの連絡先を開いたまま、二十分近く思い悩んでいた。

 ユース時代の知人に電話をかけて、犬飼の近況について聞き出そうと思っていたのだが、よくよく考えればユース選手時代に仲のいいチームメイトなど一人もいなかった。あの頃のタイガはいつも刺々しい態度で、周り全員を見下すような態度を取っていたのだから、それも当然だった。

 連絡先をスクロールして何度か行ったり来たりした結果、タイガはようやく電話をかける覚悟を決めた。今までにない緊張で指が震えるが、タイガは思い切って電話をかける。

 数回の呼び出し音の後、二年前と変わらない陽気な声が聞こえてきた。

『よお、タイガか? 久しぶりだなぁ』

「……久しぶり。いきなり電話して悪いな、烏丸」

 タイガが心から詫びると、電話の向こうで烏丸は当惑したようだった。

『ん? お前、本当にタイガだよな?』

「そうだけど、どうかしたのか?」

『いや、あのタイガが「いきなり電話して悪い」とか言うようになるとは……お前、なんか悪いものでも食べたんか?』

「……茶化すなよ」

 二年前と変わらないおちゃらけた態度に、タイガは急に気持ちが楽になるのを感じた。今にして思えば、いつもチャラついていた烏丸の言動は、相手の緊張や重圧をほぐすためにやっていたのだろう。サッカーと自分のことしか考えていなかったタイガと比べると、烏丸はあの頃からずっと大人だった。

 こちらの声が和らいだのを察したのだろう。烏丸は明るい声で尋ねてくる。

『それで、タイガは今何してるんだ? ケガはもう大丈夫なのか?』

「まぁ、なんとかな」

『だったら、もうサッカーも始めてるんだろ? 今度のオフにでも会って色々話そうぜ! 久々にお前とボール蹴りたいしさ』

 何気なく口にされた提案に、タイガは思わず言葉を詰まらせてしまった。どう答えていいか迷っている内に、烏丸は沈黙の意味を察してしまったようだ。

『もしかして、後遺症とか残ってるのか?』

「……そんなようなもんかな」

『マジかよ……じゃあ、サッカーもできないのか?』

「今はちょっとな」

 自分で言いながら、胸が締め付けられるように痛む。本当のところを言えば、『今は』どころか今後一生できるかどうかわからない。それを自覚する度に、その場でのたうち回りたいほど苦しかった。

 烏丸はデリケートな話題だと敏感に察したのだろう。それ以上その件について追及してこなかった。

『なんか色々大変みたいだな。まぁでも、久々にお前の声が聞けて嬉しいよ』

「そう言えば、烏丸は今何してるんだ?」

『俺? 一応、今はプロのサッカー選手をやってるよ』

「マジか! すごいな……っていうか、遅くなったけどおめでとう」

『サンキュー。でも、いまだに全然実感わかないんだよな。高三の冬に滑り込みで契約もらって、ぎりぎりJ2のクラブに滑り込めたはいいけど、トレーニングについていくので精一杯だよ。もう二年経つけど、なかなか試合に出る機会もないしなぁ。まぁそろそろJ3のクラブとかに移籍するかもなぁ』

 烏丸は明るい声でからからと笑ってのけた。深刻な悩みを口に出せないでいるタイガに、自分の本気の悩みをさらけ出して見せるあたり、烏丸はやはり大人だった。

「やっぱ、プロの世界は大変なんだな」

『わかってたことだけどな。まぁやれるだけやってみるさ』

 頑張れよ――と言おうとして、タイガは口をつぐんだ。

 烏丸はとっくに頑張ってるに決まっている。タイガが『頑張れ』などと軽々しく言って、烏丸の努力を侮辱したくなかった。

 代わりに、タイガは別の言葉を口にする。

「応援してるぞ」

『……はは。まさか、タイガに応援される日がくるなんてなぁ』

 烏丸はしみじみと呟くと、十秒ほど噛みしめるような間をおいてから話題を変えてくる。

『それで、今日の電話は近況報告的なやつだったのか?』

「いや、実は烏丸に聞きたいことがあってな。犬飼のことなんだが」

『おー、我らがユースチームのキャプテンか。犬飼がどうかしたん?』

「……あのケガの後、犬飼がどうしてたのか、知りたいんだ」

『別に構わんけど、なんでまたそんなこと知りたいんだ? まさかお前、犬飼に復讐するつもりじゃないだろうな?』

 烏丸は冗談めかして尋ねてくるが、タイガは正直驚いていた。

 あの頃、確かにタイガは犬飼に勝つことに執着していた。プロになる目標も公言していたし、その夢を犬飼との接触で潰されたことも事実だ。周りからすれば、タイガが犬飼に逆恨みしてもおかしくない。チームメイトにそんな風に思われていたことに、タイガは今の今まで気づきもしなかった。

 少しだけショックを受けながら、タイガはなんとか明るい口調で返答する。

「そんなわけないだろ。実は今日、大宮で犬飼に会ってさ。なんか赤い服着たチンピラとつるんでるみたいだから、気になっただけだよ。もしケガのせいで犬飼が道を踏み外したんなら、俺はあいつに何かしないといけないような気がしてさ」

『そういうことか。正直、俺も又聞きの話が多いから話半分くらいで聞いて欲しいんだが……犬飼はケガの後、復帰のために真面目にリハビリに取り組んでたらしいぜ。お前と同じく去年の三月にぎりぎりで完治したらしいけど、このパンデミックのせいでセレクションに向けたコンディションを整えられなくて、セレクションは受けなかったらしい。ケガ前から犬飼を追ってたスカウト達も、ケガの後遺症を懸念して皆犬飼から手を引いたらしい』

「……そうか」

 やはり、犬飼がチンピラとつるむ原因は自分にあったようだ。そう確信していると、烏丸は神妙な声で切り出してくる。

『実は俺、見たことあるんだよな。ケガの直後に、犬飼がチンピラみたいなやつと一緒にいるところを』

「……え?」

『お前が言ってるチンピラって、たぶんレッドデビルズっていうカラーギャングのことだろ? 俺、何度か犬飼の見舞いに行ったんだけど、そこでそれっぽい連中が犬飼と話してるところを見たことがあるんだ。炎みたいに鮮やかな赤髪の男で、やけに愛想のいいイケメンだったんで記憶に残ってるんだ。その赤髪は、ボディーガードみたいな感じの赤い服を着たチンピラも連れていた』

「そいつら、犬飼と何を話してたんだ?」

『それはわからない。俺が来たのに気づくと、会話を切り上げて帰っていったからな。犬飼の周りをレッドデビルズっぽい連中がうろちょろしてるって噂は、あの頃ユースチームの中でも結構出回っててさ。俺以外にも何人か、そういう現場を目撃したやつがいたっぽいんだ』

「……じゃあ、犬飼はケガをした直後あたりから、レッドデビルズの連中と関係があったってことなのか」

『あぁ。俺の予想だけど、その頃の犬飼はレッドデビルズに勧誘されてたんじゃないかな。ほら、ああいう連中ってガタイのいいやつとか、ケンカの強いやつとかが必要じゃん。だから、犬飼みたいに迫力あるやつはギャングの仲間に加えたいと思ってもおかしくないだろ? 重傷を負ってレールから外れたスポーツ選手なんて、ああいう連中からしたら格好の人材じゃないか。とにかく、ケガの直後くらいから目撃情報が多数出回るくらい、犬飼はレッドデビルズとつるんでいたか、付きまとわれてたってことだ』

 付きまとわれていた、か。どちらかと言えば、そちらの可能性のほうが高そうだ。リハビリにも真面目に取り組んでいたらしいし、犬飼はケガの直後からサッカーを諦めたわけではなかったはずだ。だが何かの事情が変わって、レッドデビルズに入ることになった。その事情が何なのか想像はつかないが、サッカーを辞めることは犬飼の本意ではなかったはずだ。

 ――ただ単に、サッカー以外にやりたいことが見つかった。それだけのことだ。

 そう言ってタイガを突き放したのは、タイガを巻き込みたくなかったからなのだろうか。あの男なら、そこまで考えている可能性は十分にあった。

『もう一回言っとくけど、話半分で聞いてくれよな? 俺は今大宮にはいないから、あんま最新の情報とか知らないしさ』

「わかってるよ」

 いずれにしろ、タイガがケガを負わせたことが、犬飼の人生が狂うきっかけになったことは間違いなさそうだった。それが事実である限り、犬飼についての調査をやめるつもりはなかった。

 犬飼が嫌々レッドデビルズに入らされたのなら、犬飼を抜けさせる手助けをする。犬飼が本当に別のやりたいことを見つけたのなら、その手助けをするのがタイガにできる罪滅ぼしだろう。

 タイガは考えを整理すると、烏丸に最後の質問をぶつける。

「ちなみに、犬飼の自宅の住所って知ってるか?」

『一緒に飯食った帰りに通ったことがあるから、一応覚えてはいるけど……まさかお前、自宅に突撃する気か?』

「バカの俺がうだうだ悩んでても、時間の無駄だからな。本人に会って話を聞くのが一番手っ取り早い」

『そういうとこは変わんないなぁ。言っとくけど、あれから二年も経ってるから犬飼はもう住んでないかもしれないぞ?』

「だったら、家族から話を聞くさ」

『ったく、ほんとに強引な突破が好きなやつだな』

 烏丸は苦笑してから、犬飼の実家の住所を教えてくれた。それをメモに書き留めてから、烏丸に礼を言う。

「色々助かった。ありがとな。その内、ちゃんと礼をさせてくれ」

『んじゃ、そっちに帰った時に飯でも行こうや。お前のほうの近況もちゃんと聞きたいしな』

「まぁ気長に待ってるよ」

 それだけ言って電話を切ると、タイガはベッドに横になった。久々に長時間人と会話したので、なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。だがおかげでやるべきことも明確になったし、昨日までの無為な日々より確かな充実感もあった。

 タイガは心地よい疲労感に身を委ね、毛布をかぶって意識を手放した。

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