3

 正午からトレーニングを始めて、気がついたらすっかり日が落ちていた。

 結局今日もパニック障害克服の兆しは見えず、丸一日が徒労に終わった。終わりの見えないトンネルの中にいるような不安のせいで、『やはり自分はもうサッカーができないのだ』という絶望に押しつぶされそうになるが、疲れ果てたタイガにはその感情に抗う力など残っていなかった。

 こんな気持ちを抱えたまま家に帰って、いつものように父に罵声を浴びせられたら、本気で自殺を考えてしまいそうだ。タイガはまっすぐ家に帰るのをやめて、繁華街のほうへ足を向けることにした。

 ボールに触れる訓練以外にも、走り込みや筋トレなどに時間を割いていたため、疲労感とともにとてつもない空腹感が押し寄せてきている。思えば丸一日食事を取っていなかったので、空腹も当然だった。

 この大宮公園から南西に二十分ほど歩けば、埼玉県大宮市の繁華街である大宮南銀座――通称ナンギンにたどり着く。飲み屋や風俗店、キャバクラなどの猥雑な店も多いが、普通の飲食店や遊び場も多く、若者が多く集まる街だ。人が多く集まるのと立ち並ぶ店の性質上、夜はあまり治安がいいとは言えないが、コロナ禍によって人も減っているのでかつてほどの治安の悪さはないだろう。

 なにより――仮に街でチンピラに絡まれたところで、タイガには失うものなどなかった。

 サッカーの道はすでに閉ざされているし、父にはゴミのような目で見られる毎日だ。日常的に会う友人もいなければ、恋人もいない。チンピラに殺されたところで誰も悲しむものはいないだろう。

 抱えていたサッカーボールを大宮駅近くのコインロッカーに預けてから、夜のナンギンを歩く。コロナ以前と比べると人通りは少ないが、住宅街と比べると結構な人出に感じられる。いくつか飲食店を覗き込んでみるが、ちらほら人が入っているようだ。知っている飲食店が閉店されていたりして、かつてと比べると街を彩る明かりが減っているのが寂しく感じられる。

 ナンギンをぶらぶらと歩き回ってから、結局タイガはユース選手時代に通っていた中華食堂に入ることにした。

 昔通っていた頃と変わらず、店内は昔ながらの食堂といった風情だった。簡素な木目調のテーブルにパイプ椅子という殺風景な内装に、今日び珍しく感染予防のアクリル板すら置いてない有り様だ。そんな営業スタイルでも人は入っているようで、仕事帰りのサラリーマンや部活帰りの学生たちがぽつぽつとテーブルを埋めている。

 タイガが席につくと、お冷を持ってきたおばちゃんが朗らかに話しかけてきた。

「あら、タイガ君? 久しぶりじゃない。元気にしてた?」

「……まぁね」

 元気とはほど遠い心境だったが、タイガは辛うじて愛想笑いを浮かべた。おばちゃんが本格的に世間話を始める前に注文を済ませると、タイガはお冷を飲みながらぼんやりと思案する。

 いい加減、こんな生活を続けるのにも限界がある。今はなんとかごまかせているが、ボールを蹴れないことが父にバレるのも時間の問題だ。そうなる前に自分から打ち明けるべきだとわかっているのだが、父に告げて家を放り出される前に、次の生活のことを考えておきたかった。何の計画もなしに父に告白した場合、この歳でホームレス生活をするか、犯罪を犯して刑務所に入るか、餓死して野垂れ死ぬぐらいしか道はない。

 かと言って、今までサッカー一筋でバイトすらしてこなかったタイガに、簡単に就職先など見つかろうはずもない。バイトなら雇ってもらえるかもしれないが、いずれにしても住む場所の問題はある。バイト代を前借りしたとしても、引っ越し代の足しにもならないだろう。

「はい。醤油ラーメンと餃子のセットね」

 今後の展望に頭を悩ませていると、おばちゃんが料理を運んできた。

 タイガは懊悩を強引に打ち切ると、食事に集中することにした。久々に食べたラーメンはユース時代と変わらない懐かしい味がして、タイガは少し目頭が熱くなるのを感じた。

 極度の空腹もあって、食事はほんの十分足らずで片付いてしまった。食事を終えて一息ついていると、店内に五人組の客が入ってくる。

 奇妙な集団だった。一見するとよくいる若者の集団のようにも見えるが、醸し出す雰囲気にはどこかきな臭さが漂っている。マスクをしているため素顔はわからないが、じろじろと店内を見回す目つきは堅気とは思えないほど鋭く、体格も筋肉質でがっしりしているように見える。

 なにより奇妙なのが――彼らの全員が、衣服のどこかに原色の赤を使っていることだった。赤いマスク、赤いジャージ、赤い帽子、赤いパーカー、赤いジーンズ……偶然服の色がかぶっただけなのかもしれないが、あまりにも派手な赤色に、タイガは見ていて目が痛くなってきた。

 彼らはタイガの席から遠いテーブルに着くと、雑談に興じ始める。その様子をじろじろと眺めていると、給仕のおばちゃんが視線を遮るように近づいてきた。お冷を注ぐふりをしながら、こちらに小声で耳打ちしてくる。

「タイガ君、あんまりあの子らをじろじろ見ないほうがいいよ」

「あいつら、誰なんですか?」

「知らないのかい? レッドデビルズっていうチンピラだよ。昔で言うところの、チーマーとかカラーギャングってやつだね。最近やたらと数が増えてて、あちこちで揉めてるんで皆困ってるんだよ」

「そんなに物騒なら、入店拒否とかできないんですか」

「無理に決まってるじゃない。あたしらだってああいう連中と揉めたくないし、他のお店があの子らを出禁にしたせいで襲撃されたなんて噂もあるんだよ。だから、タイガ君もあの子らを刺激するようなことはしないでおくれよ?」

 小声で念押しするように言ってから、おばちゃんは仕事に戻っていった。

 タイガはお冷で口を潤しながら、横目でちらちらとレッドデビルズの若者達へ視線を向ける。彼らはくつろいだ様子で椅子に座り、マスクを外して大声で談笑していた。その中でただ一人だけ、談笑に加わらずに黙って水を飲んでいる男がいる。

 その男の顔を見て、タイガは稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。

(どうして、あいつがあんな連中とつるんでるんだ……?)

 タイガが呆然としていると、男は立ち上がってトイレのほうへ歩き出す。タイガは思わずその背中を追っていた。

 この店のトイレは個室が二つあるが、個室の前に共有の洗面所がある。男が洗面所へのドアを開けると、ドアが締まり切る前にタイガは洗面所に身体をねじ込んだ。

 男は闖入者に気づくと、不機嫌そうに眉を寄せた。だがタイガが誰かすぐに気づいたらしく、懐かしさと気まずさが混ざったような複雑な顔になった。

 気まずそうにする男に向けて、タイガは小声で鋭く尋ねる。

「久しぶりだな、犬飼」

「……仙堂。何か用か」

「用なら色々あったんだけどな」

 言って、タイガは出口を遮るようにドアに背を預けた。犬飼は洗面台に尻を乗せるようにして、かつての冷静な無表情を取り繕ってからこちらを睨み据えてくる。本来一人用の洗面所なので、二人で向かい合うとかなり手狭に感じるが、密談するにはむしろちょうどよかった。

 タイガは何から切り出していいものか迷ったが、結局一番最初に言うべきだと感じた言葉を口にした。

「すまなかった」

「……あ?」

「お前のケガのこと。あれは俺がガキみたいに自分勝手なプレーをしたせいだ。本当にすまなかった」

「そんなこと、今更どうでもいい」

「どうでもよくなんかない。お前があんな連中とつるみ始めたのが、ケガのせいなんだとしたらな」

 タイガが指摘すると、犬飼は忌々しげに舌打ちした。こちらを威嚇するつもりだったのだろうが、そんなことで引くようなタイガではなかった。

「アキレス腱、相当悪かったのか? だからサッカーの道を諦めて、あんなチンピラどもとつるむようになっちまったのか? だとしたら、本当にすまない。俺が全部悪いんだ。本当のお前は、あんな連中とつるむようなやつじゃないだろ? ユースチームでもキャプテンやって、後輩の練習を見てやったりしてたじゃないか」

「……いつの話だ。もう二年も前の話だぞ」

「たった二年前の話だ」

 タイガがしつこく食らいつくと、犬飼はタイガの胸ぐらをつかんできた。

「二年も経てば人は変わる。ケガもお前も関係ない。サッカー以外にやりたいことが見つかった。それだけのことだ」

 その一言に、思わずタイガの頭に血が昇った。

 ――サッカー以外にやりたいこと、だと? 俺はお前との接触で、二度とサッカーができない身体になっちまったんだぞ。それなのに、お前はサッカーを続けられるのにサッカーを捨てたっていうのか。あんなチンピラどもとつるむのが、お前のやりたいことだっていうのか。

 怒りのマグマが口から噴き出しそうになるが、タイガはなんとか自制した。ユースチームでしのぎを削っていた頃の思い出を引っ張り出し、説得の言葉を投げかける。

「お前は俺達全員の憧れだったんだ。十七の時から完成されたセンターバックで、誰もお前をドリブルで抜けなかった。ケガする前はスカウトにも注目されてて、皆お前がプロの世界で活躍するって信じてたんだ。それなのに……お前はもう、サッカーに未練はないっていうのか?」

 冷静に紡ぎ出した言葉は、犬飼の心の柔らかい部分に的確に刺さったようだった。気まずそうに数秒だけ視線をそらしてから、犬飼は再び無表情の仮面をかぶり直す。

「お前らがどう思おうが、俺の知ったことか。俺は俺のやりたいことをする。邪魔するなら、お前だろうとただじゃすまないぞ」

 犬飼に胸ぐらを掴み上げられ、気道が圧迫されて呼吸ができなくなる。タイガは空気を求めて犬飼の手を引き剥がそうとするが、互いの筋力差はあまりにも歴然としていた。

 数十秒ほどしてから、犬飼はようやくこちらの胸ぐらから手を離した。タイガが酸素を求めて喘いでいると、今度は髪をつかんで見下ろしてくる。

「今後二度と、俺の前に顔を見せるな。もし街中で俺を見かけたら、俺に気づかれない内に黙って消えろ。次に俺がお前を見かけたら、五体満足で帰れると思うな」

 それだけ言うと、犬飼は洗面所を出ていった。

 一人取り残されたタイガは、洗面所の床に這いつくばりながら自問する。

(俺のせいなのか?)

 ケガさえしなければ、犬飼はきっと皆の予想通りプロの選手になって、今頃はトレーニングと試合の毎日を送っていたはずだ。

 そうならなかったのは、タイガとの接触でケガを負ったせいだ。

 犬飼は「他にやりたいことが見つかった」と言っていたが、ケガさえなければそんなものに気を取られることもなかったに違いない。すべてはケガのせいであり、タイガのせいで彼の人生を狂わせてしまった。

 そもそも、サッカー以外にやりたいことが見つかるだなんて、本当にありうるのだろうか?

 タイガが幼少の頃からサッカーに全人生を注ぎ込んできたように、犬飼も同じくらいの時間をサッカーに費やしてきたはずだ。学校の成績までは知らないが、少なくとも生半可な練習量でタイガのドリブル突破を防ぎ切れるわけがない。他のユースチームとの対戦でも通用したドリブルが、唯一犬飼にだけは通用しなかった。その理由は――犬飼も、タイガと同じかそれ以上に、サッカーに時間を費やしてきたからなんじゃないのか?

 それほどまでに情熱を注ぎ込んできたというのに、どうして簡単にサッカーをやめられる?

(きっと、何か理由があるに違いない)

 タイガには言えない理由で、あのチンピラ達とつるまなくてはならなかったのか。もしくは、タイガのようにサッカーのできない身体になって、カラーギャングとつるむ以外に生きていく方法がなくなってしまったのか。

 どちらにしても、その責任の一端は自分にある。

 犬飼にまだ救える余地があるというのなら、タイガにはそのために全力を尽くす義務があるように思えた。そして願わくば、自分が叶えられなかった夢を犬飼には叶えて欲しかった。

 それがエゴだと自覚はしていたが、それでもタイガはそのエゴにすがりたかった。

 ――お前など存在する価値もないゴミ同然だ。

(違う。俺はゴミなんかじゃない。まだ誰かの役に立てる!)

 父の罵声を振り切るように、タイガは決意とともに立ち上がった。

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