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 最悪の夢で目が覚めた。

 ベッド脇の時計を見ると、時刻はすでに正午を回っていた。タイガはぐっしょりとかいた寝汗にうんざりしながら、ベッドから身を起こして寝間着を脱ぎ捨てた。ランニングウェアに着替えてから、自室を出て一階に下りると、台所の蛇口をひねって乱暴に水分を補給する。

 一年以上も前に負った重傷のことを、タイガは今でも繰り返し夢に見ていた。ピッチに立っていた頃の高揚感、ボールを支配してディフェンスを翻弄する快感――そして靭帯を負傷した激痛と、犬飼の足に重傷を負わせてしまった罪悪感。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、悪夢から覚める度に、タイガは一試合終えた後のように全身に激しい疲労を感じていた。

「まだ家にいたのか」

 冷たい声に呼びかけられ、タイガは声のほうを振り返った。

 見れば、書斎のドアを開けて父が出てきたところだった。すでに五十近い年齢のため髪には白髪が増え、かつてはがっしりとしていた身体にも贅肉が増えた。元々鋭かった眼光は一層鋭くなり、こちらを見る目には失望と軽侮の念が隠しようもなく浮かんでいる。その目に見据えられる度、タイガは萎縮して何も言えなくなってしまった。

 タイガの心情を知ってか知らずか、父は一方的に言葉をぶつけてくる。

「こんな時間まで寝て、のんきなものだな。お前はケガで何ヶ月も時間を無駄にしたんじゃなかったのか? のんびりしていてプロ契約が取れるのか?」

「……すみません」

「謝る暇があったら、とっとと自主トレでもしてきたらどうだ? お前にはサッカーしかないんだ。サッカーでも落第を取るようなら、お前など存在する価値もないゴミ同然だ。次のセレクションに落ちるようなら、お前のサッカー人生は本当に終わりだぞ」

「……わかっています」

「だったらさっさと行け。私の仕事の邪魔をするなよ」

 息子をサンドバッグにして満足したのか、父は再び書斎に戻っていった。今日は平日なので、これからまだリモートワークで仕事を続けるのだろう。

 タイガは玄関でランニングシューズを履き、不織布マスクを装着すると、サッカーボールを手に家の外に出た。

 春の空は青く澄んでいた。先程までの息が詰まるようなやり取りもあって、タイガは外の開放感に思わずその場で伸びをしてから、ボールを抱えて歩道を走り出した。

 タイガが靭帯を負傷してからというもの、家の居心地が急激に悪くなっていった。幼少の頃からタイガをサッカー選手として育てようと決めていた父は、息子が不用意に重傷を負ったことをひたすらに責めた。ケガが治ってからもトレーニングに口出しをしてきて、高校卒業までになんとしてでもプロ契約を取れと何度も何度も命令された。

 だが結局、ケガを完治させたタイガがプロ契約を勝ち取ることはできなかった。というよりも、世間がサッカーなどという些事に構っていられる状態ではなくなってしまった。

 新型コロナウイルス感染症の感染拡大。世界中の誰もが予想していなかったパンデミックによって、文字通り世界は一変してしまった。

 二〇二〇年二月頃から日本でも大きく騒がれるようになり、三月に入ってからは激動の時間が流れていくことになる。街からは人の姿が消え、人々はトイレットペーパーなどの生活雑貨を買い漁って自宅に閉じこもり、不要不急の外出自粛が呼びかけられて、急激にリモートワークやリモート授業が推奨され始めた。人が密になることを避けるため、世界的にスポーツ興行が中止状態となり、当然サッカーのチームトレーニングなど行える状態ではなくなってしまった。

 そんな最悪のタイミングでタイガのケガは完治し、同時に高校を卒業した。勉強などまともにしてこなかったタイガには大学進学などという道はなく、やむなく自主トレーニングをしながらセレクションに備える毎日を送ることになる。負傷中もリハビリメニューや筋トレは続けていたため筋肉量は落ちていなかったが、重傷明けの身体の鈍り具合はタイガの想像を遥かに超えていた。運動量がかなり落ちていため走り込みが必要だったし、ウィンガーに求められる素早い動きを一から取り戻す必要があった。

 その上――

 タイガは公園に着いたところで、一旦走るのをやめた。以前であれば主婦や子どもで溢れかえっていたはずの公園には、今はほとんど無人に近い有り様だ。二〇二〇年十一月から猛威を振るっていたコロナウイルスの第三波を数ヶ月に渡って耐え抜いたと思った矢先、この二〇二一年四月に再び第四波が猛威を振るい始めている。公園が閑散とするのも当然と言えた。

 タイガは抱えていたサッカーボールを地面に落とすと、左足をそっとボールの上に置いた。

 瞬間――靭帯を負傷した時の激痛が脳裏に蘇って、タイガは頭が真っ白になった。心臓が急激に鼓動を早め、喉が引きつってまともに肺に酸素を送り込めなくなる。手足が震え始め、次第にまともに立っていられるのが不思議なほど全身に震えが広がっていく。

 タイガはすぐにボールから足を離し、その場にうずくまった。貪るように空気を吸い込み、肺に酸素を送り込んでなんとかまともに頭が働く状態にまで立て直す。いまだ心臓は早鐘を打つように鳴っているが、今のタイガにはそんな辛さは慣れたものだった。

 あの重傷以来、タイガはパニック障害に侵されていた。それも、サッカーボールに足で触れた時にのみ起きる、とてつもなく限定的な症状だ。

 これまでサッカーをやってきて、これほど絶望的な状況に陥るなど考えたこともなかった。こんな状態でセレクションで合格するわけがなく、当然去年受けたセレクションはすべて散々な内容だった。本来ならばサッカーの道など諦めて就職先を探すべきなのだろうが、これまでの人生すべてをサッカーに捧げてきたタイガには、その決断は自死を選択するに等しいほどの辛い選択だった。

 なにより――自分がサッカー選手を諦めるなどと言ったら、父は一体なんと言うだろう?

『お前にはサッカーしかない』『サッカーでも落第を取るようなら、お前など存在する価値もないゴミ同然』。今ですらそんなことを言われる有り様だ。タイガがパニック障害でまともにサッカーができないと知ったら、父が何と言ってくるのか……考えただけでもぞっとする。少なくとも、家から放り出されて路頭に迷うくらいのことは覚悟しておかなければならない。

 思えば、母は父の気性のことをとっくの昔に理解していたのだろう。母は父と教育方針で揉めたことをきっかけに、タイガが中学生の時に離婚している。その時のタイガは、自分がプロサッカー選手になれると信じて疑っていなかったため、勉強を要求する母に背を向けて父についていった。今では母も再婚して、別の家庭を築いていると父から聞かされたこともあり、今更母親を頼りにしようなどという恥知らずな考えはタイガにはなかった。

 ――お前のサッカー人生は終わりだぞ。

 不意に父の言葉が頭をよぎり、タイガは地べたに這いつくばりながら苦笑した。

「……悪いな、父さん。俺のサッカー人生、もうとっくに終わってるんだわ」

 自虐の言葉はナイフのように胸をえぐり、タイガは泣き出したくなるような衝動を必死で堪えなければならなかった。

 始めてサッカーボールに触れてから、もう十五年が経つ。四歳の時にドイツワールドカップが開催され、ブラジル代表と戦う日本代表を見たのがきっかけだった。平日も休日も、朝も夜も……いつか自分は世界に通用する選手になると信じて、ひたすらにボールを蹴り続けた。初めてゴールを決めた時、興奮でわけもわからず雄叫びを上げた記憶がある。いつしか、ゴールを決めることや結果を出すことが当たり前になり、ノルマになっていった。ピッチの上でボールを持った時、自分は誰にも負けないと心から信じられた。世界は自分のために存在するのだと感じたことさえある。思い描いたプレーを思った通りにできた時の、あの全能感。プロを目指して必死にもがいていた時でさえ、サッカーはタイガに喜びをもたらしてくれた。

 あの時間はもう、二度と戻ってこない。

 自分の半身が欠損したような喪失感に絶望しながら、タイガはふと思った。

(そう言えば、犬飼は今どうしているんだろう)

 あの負傷の直後、タイガと犬飼はすぐに病院に運ばれた。タイガは利き足である左脚の膝裏靭帯、犬飼もまた利き足である右足のアキレス腱を断裂し、互いにトレーニング復帰の許可が下りるまで八ヶ月もの時間を要した。その矢先のコロナ禍で、チーム練習や別れの挨拶もできないまま、タイガも犬飼もユースチームを卒業することになってしまった。

 犬飼は将来有望で、あのチームの誰よりも光り輝く才能だった。タイガの軽率なプレーのせいで、犬飼の選手生命に消えない傷を残してしまったのだとしたら、あまりにも居たたまれない。

(まぁ、あいつなら大丈夫か)

 肉体的にも精神的にも、犬飼はタイガとは比べ物にならないほどタフだった。今にして思えば、あの頃の自分はプロになることばかりに固執し、自分の能力を見せつけること以外に興味のない小生意気なガキでしかなかった。それに比べて、犬飼はキャプテンとして立派に己に課された責任を果たしていたように思う。

 まかり間違っても、あの男が道を踏み外すようなことはあるまい。あれほどサッカーに愛された男が、サッカー以外の道を選ぶことなどありえない。

 自分を安心させるために胸の内でそう繰り返すと、タイガはようやく立ち上がった。

「あいつに恥ずかしくないように、俺も少しは前に進まないとな」

 絶望と感傷的な気分を振り払って、タイガは再びパニック障害と戦うため、サッカーボールに足を触れた。

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