隣合わせの天使と悪魔
森野一葉
第一章 翼をもがれたもの
1
翼をもがれた瞬間のことを、今でも鮮明に覚えている。
仙堂タイガは、埼玉県に拠点を置くサッカークラブのユースチーム選手だった。
平日は普通に高校に通い、夜にユースチームのメンバーで集まってサッカーの練習をする。土日は他のユースチームやサッカーの強豪高校と対戦するために遠征を行う。そんな日々を過ごしながら、クラブからプロ契約がオファーされるのを待つ。それがユース選手のごく一般的な生活だった。
その日もいつもと同じ平日で、タイガはユースチームのトレーニングに参加していた。
ウォーミングアップと基礎練習、戦術トレーニングが終了したあと、コーチが選手を集合させた。
「週末の試合のスタメンを決めるために、これから紅白戦を行う。レギュラーメンバーの内、守備陣は赤、攻撃陣は青のビブスを着て分かれてくれ」
指示に従って青のビブスを着ながら、タイガは相手チームに割り振られた長身の選手に視線をやった。
一八五センチの長身に加え、四肢にはたくましい筋肉が張り巡らされている。髪は短く刈り上げており、年齢不相応に厳つい顔立ちと鋭い眼光もあって、チームの中でもひときわ威圧感を放っている。ユースチームのキャプテンであり、不動のレギュラーとして守備陣を率いるセンターバック――それが犬飼和也だった。
犬飼はユースチームの中でも随一の有望株であり、すでに多くのクラブからスカウトが派遣されているらしい。同い年のタイガから見ても犬飼の実力は確かなもので、一対一の守備がうまいのはもちろんのこと、ロングパスやボールコントロールも正確で、十七歳にしてすでに完成されたサッカー選手に見えた。
「またキャプテンにガン飛ばしてんのか?」
不意に肩を叩かれて、タイガは声のほうを振り返った。
見れば、青のビブスを着たチームメイトがにやにやと笑みを浮かべていた。髪を茶色に染めており、ころころと表情が変わるチャラついた優男だったが、サッカーの技術に関して疑いを持ったことはなかった。
タイガは優男――チームメイトの烏丸隼人に向けて、口の端を吊り上げてみせた。
「なんだよ、烏丸。文句でもあるのか?」
「いや、文句なんかないけどさ。お前も、よくキャプテンに勝負挑もうなんて思えるよな」
「当たり前だろ。同じユース選手相手にビビってるようじゃ、プロになるなんて夢のまた夢だぞ」
「そりゃそうなんだけどさ。あの人はもう別格じゃね? 今でも十分プロで通用するレベルじゃん」
「だったら尚更だろ。犬飼とやり合えば、プロとやり合うレベルの経験が積めるってことだろ? それに、うまくぶち抜ければスカウトの注目も集められるしな」
「ホント、めげないねぇ。そんなこと言って、お前まだ一対一でキャプテンに勝てたことないじゃん」
痛いところを突かれて一瞬言葉を失うが、タイガは強い意志を込めて烏丸を睨んだ。
「勝てねえ相手だからこそ挑むんだよ。試合ならまだしも、練習でもビビってるようじゃ成長なんかできねーぞ」
「手厳しいなぁ」
烏丸は相変わらずへらへらと笑いながら、タイガの背中を叩いてきた。
「ま、無謀だと思うが応援してやるよ」
「応援はいいからパスをよこせ」
「わかってるって」
烏丸は愛想よく笑って、ピッチ内へと歩いていく。それを見送りながら、タイガは自分の胸に手を当てた。
――そうだ。俺は絶対にプロにならなくてはならない。そうでなくては生きてる価値がないんだ。
ユース選手が生き残る道はかなり厳しい。ユース選手が二十人いたとして、その内の一人でもプロに上がれればめっけもの。そのまま残留してプロでレギュラーを奪える可能性となると、気が遠くなるほど望みは薄い。特にタイガのポジションであるフォワードは、どうしてもフィジカルの優れた海外選手が重宝されるポジションだ。圧倒的な実力がなければ、とてもではないが選手として生き残っていくことはできない。
それでも、タイガはプロ選手になると決めていた。ユースでプロ契約を取って、プロでスタメンを奪って、若い内にヨーロッパのクラブに移籍して、世界的な選手になる。
それが実現できないのなら、仙堂タイガという人間には、生まれてきた意味などなかったというだけのことだ。
だからこそ、こんなところで同じユース選手相手につまずいているわけにはいかない。自分の夢を叶えるためにも、絶対に犬飼を倒さなくてはならない。
タイガは改めて気合いを入れ直してから、ピッチに戻った。タイガのポジションは右ウィング――右サイドの攻撃手だ。右から中央に切り込んで敵の守備を崩したり、右サイドから中央にボールを蹴り込んでセンターフォワードの得点をアシストするのが主な役割だ。中央を守る犬飼とマッチアップする機会はなかなかないが、タイガは意地でも犬飼に勝負を仕掛けるつもりだった。
彼我のフォーメーションは互いに4−3−3。ディフェンダーを四人並べ、左右のサイドバックが攻守に躍動するフォーメーションだ。サイドバックが攻撃に出る代わりに、カウンター対策として三人のミッドフィルダーの内、中央の選手が守備のカバーに回る。
ホイッスルが鳴り、三十分の紅白戦が幕を開ける。
青チームのキックオフで試合が始まる。ミッドフィルダーとオフェンスのレギュラーは青チームに揃っているため、ボールを持てばなかなか相手に奪われることはない。だがゴールキーパーとディフェンス陣は敵チームに揃っているため、なかなかボールをペナルティエリアまで運べず、ただただボールを回しているだけの状態に陥っている。
(このままじゃ埒が明かないな)
タイガはピッチギリギリまでサイドに広がり、敵の左サイドバックの視界から外れる。ミッドフィルダーの烏丸がボールを持った瞬間、タイガは大きく手を上げた。
――ボールをよこせ。俺が状況を打開してやる。
手を上げて無言でボールを要求すると、烏丸は苦笑しながらタイガに向かってロングパスを蹴ってきた。ボールを胸トラップで足元に落とすと、タイガは素早く縦にドリブルを仕掛ける。すぐに左サイドバックが必死に追いすがってくるが、構わずタイガは敵陣に向かってドリブルを続ける。
ペナルティエリアまで近づいたあたりで、敵左サイドバックがタイガの進行方向に割り込んでくる。相手の肩越しにエリア内の守備をちらりと確認すると、センターバックの二人は戻ってきているが、右サイドバックやミッドフィルダーは戻りきれていないようだった。こちらのチームのセンターフォワードも上がってきているため、センターバックの一人はペナルティエリア内に釘付けの状態だ。犬飼は左センターバックの位置につき、左サイドバックが突破された後をカバーするために後ろに控えている。
つまり、目の前の左サイドバックをぶち抜けば、犬飼との一対一に持ち込めるということだ。
タイガは獰猛に笑うと、左サイドバックに視線を合わせる。こちらの殺気に気づいたのか、左サイドバックの顔に緊張が走った。
相手の顔に目線を合わせたまま、タイガは素早く右足を動かす。右足のアウトサイドが足元のボールに触れるかどうかぎりぎりのところでボールをまたぐと、敵はそれにつられて重心を右に傾ける。
すかさずタイガは左足のアウトサイドで小さくボールを左に動かす。それを読んでいたのか、相手もすぐに左の進路を塞いでくる。
――アホが。
タイガは思わず笑みをこぼすと、左足を一閃させてボールを右に大きく弾く。瞬間的な左右の揺さぶりに対応できず、左サイドバックはバランスを崩してその場で転ぶ。それを尻目に、タイガはサイドバックの裏のスペースへ悠々と進み出た。
シザースからのエラシコ。タイガにとっては得意のコンビネーションであり、大抵のユースディフェンダーでは阻止不能な技だ。
だが、犬飼相手にこんな手垢まみれの技は通用しない。
ペナルティエリア内への侵入を防ぐためにエリアの端に立ち、犬飼はタイガの突破に備えている。冷静な眼光に見据えられ、タイガは自分の考えがすべて見透かされているような予感がして、思わず身震いした。
(冗談じゃない。そう何度も同じやつに負けてたまるか)
タイガは怖気づいた心を再度奮い立たせると、犬飼に向かって猛然とドリブルで突っ込む。その気迫に微塵も動じた風もなく、犬飼は細かいステップを刻みながら守備の構えを取る。
左右の足で連続でシザースを仕掛けるが、犬飼は微塵も左右にブレることなくステップを刻み続ける。ボディフェイントで身体を左右に振っても、犬飼はまた動じない。
――クソ。あまり時間をかけてられないぞ。
こうしている今も、相手ミッドフィルダーや先ほど転ばせた左サイドバックが守備に戻ってくる。犬飼との一対一が台無しになる前に、今すぐ決着をつけなくてはならない。
一瞬だけ逡巡してから、タイガは腹を決めた。
右足のアウトサイドでボールを小さく右に動かした後、素早く右足を一閃させてボールを大きく左に転がす。得意技のエラシコだが、当然犬飼はこちらの動きに合わせて位置を調整し、ゴール方向への進路を切ってくる。
タイガはすかさず左足のインサイドでボールを右に動かし、身体も右に振る。犬飼の重心も微妙に右に寄るのがわかる。
その瞬間、タイガは右足のインサイドでボールを大きく左に蹴り出していた。
エラシコからのダブルタッチ。犬飼は左右の激しい揺さぶりについて行けず、両足を地面につけて一瞬動きが止まっている。その隙にタイガはボールに追いつき、ペナルティエリアの中央にフリーで切り込んでいく。
だが、まだだ。視界の端で、犬飼がゴールへの射線を切ろうと迫っているのが見える。ここからシュートを打つこともできるが、これではまだシュートコースを作っただけで、犬飼を抜いたことにはならない。
――どうする? 犬飼を抜くことは諦めて、点を取るだけで満足するか?
問いかけ、コンマ数秒で結論を出す。タイガは左足を振りかぶった。この位置からファーポストめがけてキーパーから逃げるような軌道のシュートを打てば、十分得点を狙える。それを狙えるだけのシュート精度がタイガにはある。
タイガの左足がボールに触れる直前、犬飼の足がシュートの射線上に滑り込んできた。長い脚を目一杯伸ばして、なんとしてでもシュートコースを消すつもりだ。
「……かかったな」
予想通りの犬飼の行動に、タイガは思わず笑みをこぼした。振り下ろした左足の勢いを弱め、ちょんとボールに触れる。それだけで、開き切った犬飼の股の間を通すには十分だった。
キックフェイントからの股抜き。ディフェンダーにとっては、最も屈辱的な抜かれ方だ。
犬飼の顔に微かに赤みが差す。股抜きなど、彼のキャリアを考えればしばらくなかったことなのだろう。屈辱と怒りで顔が赤くなるのも当然と言える。
そのせいか、犬飼はらしくもなくムキになったようだった。長い腕を伸ばしてタイガの進路を塞ぎながら、左足を軸にして伸び切った右足を回転させ、なんとかボールを拾おうとする。
(冗談じゃねえ。ここまで来て、ボールを奪われてたまるか!)
タイガは腰を落とし、犬飼の腕の妨害をかいくぐってボールに突進する。ボールはすでに犬飼の右足の下に収まっているが、構わず両足でスライディングをかけて強引にボールを奪う。
その判断が、タイガの人生における最悪の分岐点となってしまった。
足元のボールが消え、犬飼は重心を失って大きくよろける。タイガはスライディングの勢いで前進し、ボールのあった場所まで脚が伸びる。そのまま犬飼の右足がタイガの左脚の上に乗り、バランスを失った犬飼の体重がタイガの膝裏にのしかかる。膝裏の靭帯が許容範囲以上に伸ばされる激痛に耐えかねて、タイガは悶絶して芝の上を転がり回る。それが結果的に、地についた犬飼の右足を両脚で挟んで巻き込む形になり、不自然な形に曲げられた犬飼のアキレス腱に致命的な傷を負わせてしまう。
悲鳴が上がる。それが自分の声だったのか、犬飼の声だったのか――タイガにはもう、はっきりと思い出せなかった。
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