第179話 退去のご挨拶

「ビンス様がお見えになりました」


「入ってくれ」


執事さんへとルクレール侯爵への面会をお願いしたところ、その後をついていった先にあったのは、執務室の扉だった。


今日で訪問して早いもので7日が経ち、時刻は日の入りを知らせるラッパの音が鳴ってから鐘1つ2時間経った辺りだ。


来週は年末の最終週となり、侯爵と侯爵夫人は共に各貴族家との会合や夜会で忙しくなるということもあって、クロエと俺はおいとますることになっていた。


明日、退去する前に侯爵と面会する時間がとれるかも分からなかったので、今日のうちにご挨拶をと思ったわけだ。


この1週間の間、朝晩の食事はもちろんのこと、背広スーツや飲食店の代金など、色々と世話をしてもらったお礼も言っておきたかったのもある。


「すぐ終わるから、掛けていてくれ」


「こちらへ」


書類仕事をしていた侯爵が僅かに顔を向けて声をかけて再び仕事へと戻った後、執事さんが傍にある低い長机を挟んだ4つの椅子の1つへと掌を向けた。


そういえば、あの日──クロエからの手紙を携えて部屋へと忍び込んだ時も、当時は伯爵だったブノア氏は同様に書類仕事をしていたんだったかな。


場所は、この王都から北方向に向かったイレデュヴァンという街。近隣にアトラティフというダンジョン街を持つ一帯を領地としていた。


もう半年も前になるのか……あの時は室内に潜り込みつつも、完全にバニッシュマントで姿を隠したまま、声も手紙も格納門経由でやりとりしていたから、『不可視の賢者』なんて名前を貰う羽目になってしまったんだっけ。


「どうぞ、こちらを」


執事さんはそう言って長机へとお茶を出すと、頭を下げて部屋を出て行ってしまった。


間もなくして、ひと段落ついたのか筆を置いた侯爵がこちらに来て、対面の椅子へと腰を下ろした。


「して、話があるとのことだったか」


「はい、退去のご挨拶をと思いまして」


侯爵にも用意されていたお茶に手をつけたところで、話が切り出された。


「この1週間、もてなしていただきまして、ありがとうございました。お嬢様3人ともお話できて、楽しい時間を過ごさせていただきました」


「いやなに、こちらとしても思惑あってのことだったが、楽しんでいただけたのなら何よりだ」


最初の3日間を三姉妹と順に過ごした後は、毎日鐘1つ2時間ぐらいを目処に、3人それぞれの案内で時間を過ごした。


お茶の時間は、3人揃って過ごすことが定番だったかな。


館内であれば食堂でお茶を出してもらったり、あるいはレティシアさんの推す美味しい焼き菓子を出すお店に、馬車に乗ってみんなで行ったりもした。


それ以外の時間は、屋敷の敷地内を見て歩ったり、街にあると聞いた本屋に行ってみたり、ゆっくりと一室で話をしたり。


ヌールちゃんは相変わらず勇者様話ではあったけど、クロエからナディーヌさんのことを聞いたり、ナディーヌさんからは逆にクロエの昔のことを聞いたりした。


訪問当日である初日を除く残り6日間は、そうしてあっという間に過ぎてしまった。


「ニコレッテを連れてきてくれたことはもちろんだが、ナディーヌのことも感謝せねばならないようだ」


ああ、クロエが言っていた、お姉様が変わったって件のことかな。


以前の様子ってのを知らないから比較もできないけど、余程だったのだろうか。


「貴殿と過ごしたその日からだったな、何かと積極性が出るようになったように思う。妻のレティシアが何があったか訊ねたところ、貴殿から自信をもらったと言っていたそうだ」


……何だろう、彼女を勇気付けたいという気持ちは確かに大半ではあったんだけどね。


残りはこう、減量を阻止したいという気持ちが2割……いや3割…………場合によっては半分ぐらいはあったかもしれないけど、そこは今更言えないというか、言わない方が良さそうになってしまったというか。


「あの子は、何かと頭の回る子ではあったのだが、学園時代に私たちの立場の影響もあって風当たりが強かったらしく、卒業した頃には内向的な性格になってしまっていた……。呪縛とも言えるその状態は、我々では解くことが出来なかったのだ」


……まあ、学校時代に覚えた人間関係の辛い思い出って相当引きずるよね。


何気ない感じで言われた一言が、ずーっと頭に残っていて、ふとした時に強烈に思い出してしまったりとか。


「そんな娘の様子が、劇的に変わった。どんな魔術を使ったのかは分からないが、また貴殿に返さねばならない恩が増えてしまったようだ」


いや、うん……まあ、その辺りについてはそのうちに、ということでね。


「ああ、そうだった。貴殿から提案をいただいたという『冒険者の派遣』の件、早速年明けにでもナディーヌが主体となって動いてもらおうと思う」


お、早速話を持ち込んでみてくれたのか、ナディーヌさん。


確かに積極性が出てきたってことなのかな。


「ニコレッテも属するパーティに協力を相談してくれるとのことだ。雪解けの頃までに合意の目処がつけば、各領の要望をまとめて春先から開始しようかと考えている」


実運用まで3カ月とか、かなり速度スピード感高いな。


まあ、ダンジョン資源という基幹産業がままならなければ、復興も予算が都合しないもんな。


領によっては死活問題となっている場所もあるだろうから、ナディーヌさんには頑張っていただきたいね。


「……さて、今回は私と妻との時間が取れなかったが、また今度来る時にゆっくりと話をさせてほしい。妻も貴殿と話をしたいようだったしな」


うん、今も書類仕事に追われていたようだし、奥様も来週以降の会合の準備で忙しくしているようだしで、食事の際に少し話をしたばかりになってしまった。


次来るのは、あまり間を空けたくはないとは思いつつ、夏季休暇とか辺りになるだろうか。


まあ、正直来ようと思えばいつでも来れるんだけどね。


「では、お忙しい中にお時間いただき、ありがとうございました。是非ともまた伺わせていただきたいので、その際には連絡を入れさせていただきます」


リナの時と同様に、侯爵と……あとナディーヌさんにも、手紙箱メールボックスとなる場所とその通知方法を決めてもらった。


これでいつでも連絡が取れるようになったし、いざという時は助けに飛んでくることも出来るだろう。


「……そういえば」


仕事の残りがあるようだったので、俺は腰を浮かせたのだけど、侯爵が何かを思い出したようにつぶやいた。


「一昨日だったか、ある伯爵家の息子が狂乱してしまっているという話を聞いたのだ。何でも、その前日のお茶の時間に飲食店の廊下で花瓶に激突してしまった怪我の影響では、と言われているようだが……何か心当たりはあるかね?」


「……いえ、特には」


「そうか……まあ、そうだろうな。その花瓶の件はちょうどナディーヌから聞いていたのでな。何か知っていればと思ったのだが」


まあ、怪我の状況によっては、そういうこともあるんじゃないだろうか、うん。


たとえ、彼が寝ていたベッドがどこか高高度から落とされたように粉砕されていて、本人が譫言うわごとのように『落ちる』とか『助けて』とか叫んでいて、部屋の天井には塗料で『悪夢は繰り返す』と走り書きされていたとしても。


……まあ、高度2000mからの紐なしバンジーで40秒程度の旅を行い、その地面に配置した格納門のつなぎ先を再び高度2000mに設定することで『エンドレスな5分間』をお楽しみいただいたら、そうなる可能性はあるかなって。


ベッドだけは先に落として、地面に粉砕させておいたのが効いたのかもしれない。


なお、ロケ地は人里離れた岩山付近となっております。


こういう時に便利よね、【付箋メモ】で事前に見繕っておいた地点に目印つけておけるのって。


最後に、どうやって時速200km近い落下速度を落とそうかと悩んで、格納門を上空に向けたものに繋いで最高到達点で回収することにした結果、高さ150mほどまで液を撒いた汚い打ち上げ花火が上がったことは付記しておこうか。

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