第13話
走って五分、昨日波美の家にラタヴィルを預けた後、一人で渡った橋にたどり着いた。
坂本邸は川向こうで、静かな佇まいを見せていた。
まだ夜が浅く、家々の明かりはあるのに、周囲の空気が重かった。
千尋に聞いたところ、波美の両親は海外で働いているらしく、お手伝いと二人暮しらしい。
電話で話していた吉原という人がお手伝いさんであろう。
なるほどラタヴィルを預かるのも可能か。
坂本邸の明かりで部屋を想像する。
もしかしてあそこはお風呂でラタヴィルと二人で入っているかも――なんて妄想していると上から声がした。
「乙女に付きまとうストーカーだな。懲らしめてやろうか」
隼が顔を上げると、ブロック塀の上で影がふんぞり返っていた。街灯からの逆光でよく見えないが、長い鼻と小さな羽がシルエットに浮かんでいる。
「なんだ天城か」
隼は残念な想いを隠さずに言った。
和服に似た巻きスカートの下が、ショートパンツだったのも、その声を出させた要因だ。
もっとも影が濃くてよくは見えないが。
「吸血鬼に気付かれると元も子もない。邪魔だから帰れ」
「そんな目立つ所に立っておいてよく言うね」
レンガ塀の幅に一本歯で立っているのは凄いバランス力だが、隠密には向かない。
す――と椎葉は隼の横に降りた。音がしないのはさすがだ。
「あんたらも吸血鬼の狙いはラタだって睨んだわけだ」
「これ以上、あいつの好きにはさせないさ」
仮面を上へずらして、天狗らしからぬ小さな鼻を晒した。
「ふうん」
「何さ」
「吸血鬼の力を狙っているわけではないんだな――って思ってさ」
「あたしたち天狗は、物の怪から人間の世界を守るためにいる。あいつのせいで、既に四人もの犠牲者が出ている。これ以上の狼藉は許さない」
椎葉の言葉は本心だ。隼には分かる。
天城家には本音を出さない浮付き感があった。へたに信用すると骨までしゃぶられるような感覚だ。
しかし、椎葉の真っ直ぐは好感が持てた。
「あたしがバラバラにしてやるわ」
口元に悪役の笑みが浮かぶ。
これがなきゃね――隼は苦笑した。
「だけどラタをオトリにするのは感心しないな。あそこには関係の無い坂本さんと、お手伝いさんが一緒にいるんだ」
「知ってるさ」
「おれがラタを連れ出してくるから――」
「ダメだ」
椎葉が言葉を遮った。
「何でさ」
「言ったでしょ。人間の世界を守るって。彼女たちには普通に生活してもらっていいの。西洋産の魔物なんかに指一本触れさせやしない」
なるほど――隼は察した。
「事件が起こっても箝口令を敷かなかったのは天城家の差し金か」
「当たり前よ。この程度、すぐに解決して見せるわ」
東日本を統べる妖怪の大将はプライドが高いようだ。
警察にも深く食い込んでいるのだろう。
「妖怪同士の戦いがあちこちで起こらないように見張っているんだ」
「へえ――」
「だから化物と戦える人間を把握する必要もある」
隼は、話題が自分のことにシフトしていることを感じた。
「川原で戦うバカ共に、一般市民が巻き込まれないよう結界を張るのも重要な仕事なんだぞ」
「――見てたのか?」
「あたしではなく、パトロールしていたカラス天狗がな」
なるほど川原で吸血鬼と戦った時、人が巻き込まれずに済んだのを偶然と片付けていたが、天城家の涙ぐましい努力があったということだ。
「お前は自分を妖怪の末裔と認めない」
「だからそれは――」
「その理由は何となく分かる。だからそれは良い」
良いのか――隼は肩透かしを食って返事をできずにいた。
「だが、お前は吸血鬼と戦える力を持っている」
「拳法の腕前だよ」
「天城家のエージェントである赤垣と、純粋種のレプラコーンと同等以上の戦いを、二度も乗り越えている」
「運が良かっただけだって」
「それに、我が精鋭の攻撃をかわし、手加減していたとはいえ、あたしとも戦えた」
あくまで自分の方が上と言い張る椎葉の必死さが伝わる。
「お前の力は管理されないと、人間の暮らしを破壊しかねない」
「そこまでのパワーはないよ」
「妖怪、魔物、妖精、その外の未知なる存在。それらが露見したら、社会は根底からひっくり返る」
「だから天城家の傘下に入れと言うなら断る」
椎葉が三歩前へ歩んでいった。その肩越しに坂本邸が見える。
「おれはこの日常が好きなんだ。争いに巻き込まれるのはゴメンだ」
「それがお前の理由。だけどお前は巻き込まれてしまう」
椎葉が仮面を完全に外して振り向いた。
「非力を認識しながらも、誰かを救うために馳せ参じる愚か者だ」
内容に反し、声は優しい。初めて聞く声色だ。
「おれは……そんなんじゃない――」
「ここへ来ているじゃないか」
光は背後から照らしているため、逆光に輪郭が浮かび上がるのみで、椎葉の表情は見えない。
「こんな頭の悪い戦いを続けていれば、弱者のお前はいつか痛い目に遭う」
調子が出てきたようで、微妙にけなされていた。
「天城家と与せないと言うならそれも良し。だが人の世界を守るためにも、お前は戦いの場に出てくるな。ここからすぐに帰るんだ」
「つまり――ここにいるなら天狗の仲間になれと。イヤならここから去って日常を謳歌しろと」
「そういうことだ」
見えるものに目を瞑り、知らん振りをして平和を堪能する。
難しいことではない。
天狗一族を中心とした妖怪、もしくは妖怪の末裔の集団――天城家が、魔物から平和を守っているというのなら、任せておけば良いのだ。
テスト勉強に四苦八苦し、片想いに悩む生活――隼が望んだことだ。
普通の日常を送ることが何よりも幸せ――
――のはずであった。
「おれは、天城家が信用できない」
「――でしょうね」
「だけど」
隼は椎葉を見据えた。
「天城椎葉なら信じても良いって思えている」
「袖篠――」
さらさらと流れる音だけが川の存在を示していた。
上弦の月が雲の隙間から顔を覗かせる。しかし街は月光に頼らずとも夜を支配していた。
道脇の民家の生活音が漏れてこないのは、既に結界が敷かれているからかもしれない。
椎葉が作った静謐は、彼女自身が壊した。
「すまんが、お前はあたしの好みじゃない」
「口説いてねえよ」
椎葉は仮面をつけ直している。
「なら一緒に戦うってことか?」
「迷いはあるが、天狗たちだけに任せてはおけないってだけだ」
「ほう。ケンカを売ってるのか」
「そもそも情報が正確じゃない」
「どこがだ?」
「まず、おれは吸血鬼に三度遭遇している」
椎葉の動きが止まった。
「運がないな――」
「それには同意するよ」
生き延びたことへの運はあるのだ。不幸中の幸いとでもいうのか。
「そして、その時吸血鬼に襲われていた人物がいた」
「犠牲者は五人ってことか」
「その五人目が赤垣さんの相棒ではないかと――」
「行方不明の? 一緒に行動していると思っていたが……。赤垣のやつ、復讐するつもりで追っていたのか」
「吸血鬼が、人外の者の血を狙う理由もそこにあるんだ」
「赤垣の相棒は確か――半妖か。そうとう美味しかったんだな」
「おいおい――」
隼はそこで何かが引っ掛かった。
吸血鬼の狙いはラタヴィルだ。それは間違いない。
しかし心がざわついた。
こういう時は何かが間違っている――。
「どうした、袖篠? びびっているのか? 恐いのなら帰っても良いぞ――」
椎葉が言った。
そうか、天城家だ――。
「天城。周りにはカラス天狗がいるのか?」
「もちろんだ。優秀なのを揃えている」
「天城には妖怪の血は前面に出ていない。だがカラス天狗はどうだ? 妖怪そのものじゃないのか?」
椎葉はそれで全てを察した。
仮面の奥が、町を守る天狗の表情に変わった。仮面の横に手を当てた。通信装置らしい。
「こちらレッド、ブルー応答せよ。イエロー、グリーン、ブラック、シルバー、返答を」
椎葉の唇がきつく結ばれた。
返事はないらしい。
その時、背後の民家を飛び越えてくる影が見えた。
天城――と隼は椎葉の腕を引きながら横へと避けた。
飛んできた影はブロック塀へぶつかった。
乾いた崩壊音をたてて跳ね返り、椎葉がいた辺りへ落ちた。
人間より少し小さい影は、紐を失ったマリオネットのように力なく、薄く萎れていた。
「グリーン――」
椎葉が小さく言った。
確かに、羽と頭の部分にカラス天狗の面影が残っている。
嘴の周りが湿った黒に塗れているのは吸血鬼の食事の跡だ。
隣で荒ぶる犬のように椎葉が唸った。
「待て、天城――」
隼の手は空を掴んでいた。
女子高生天狗は一本歯を鳴らしてブロック塀へ、更に夜空高く舞い上がった。
すごい跳躍力であった。
こういうのを見ると、つくづく自分は人間だと実感する。
走って椎葉を追う。
川沿いのサイクリングロードへ出て、ぐるりと迂回し、奥側の小道へ入る。
なんと、もう雌雄は決していた。
椎葉が吸血鬼に両腕を掴まれ、持ち上げられていた。攻撃を受けたのか、意識が朦朧としているようだ。
吸血鬼も今やってきた隼には目もくれない。
喰いつくためだけに裂けた口が、椎葉の口元に迫っていた。
隼は路上に棒を見つけた。
六角で太めの棒はカラス天狗たちが使ってた物――恐らくグリーンのだ。
隼は走って路地へ入ると、その棒の先端を蹴り飛ばした。
真っ直ぐに飛んだ棒は、吸血鬼の横頬へ直撃した。
骨を打つ鈍い音が響いたが、微動だにせず赤い目は椎葉に釘付けだ。
想定内だ――と、隼はそのまま走り、頬から跳ね返った棒を落ちる前に掴んだ。
椎葉を抑える両腕を、顔を、また両腕を、今度は目を、棒で打ち付け続けた。
さすがに苛ついたのか、吸血鬼が隼に向き直った。
椎葉を後方へ放り投げた。アスファルトへ落ち、くふ――と椎葉が呼気を吐いた。
人に構っているのはそこまでが限界であった。
吸血鬼が迫る。しかも、速い――そして力強い。一昨日の比ではない。
カラス天狗五人分のエネルギーだ。拳が擦っただけでも脳しんとうを起こしかねない。
しかし隼は下がらず、棒を突き出した。
狙いは口の中だ。そこなら攻撃が効くかもしれない――そんな期待虚しく、棒は歯で齧り抑えられた。
隼はその驚きを宙で表現していた。
吸血鬼が歯で、隼ごと棒を持ち上げたのだ。
このまま投げられるわけにはいかない――隼は最高点で身体を捻った。
真上を向いている吸血鬼の顔へ着地した。
たとえ相手が人外の者でも躊躇ってしまう攻撃だが、三度の戦いで分かっている。これでもダメージを与えられるかどうか。
ゴ――と足元に固い音が響く。
倒れた吸血鬼の頭を、アスファルトと隼の体重で挟んだのだ。
しかし起き上がる力に隼は弾かれた。
路上を転がる。
吸血鬼が頭頂を基点に直立していた。起き上がりこぼしのような動きだが、あれを首の筋力だけでやったとすると、
「でたらめすぎる――」
隼の口から漏れた不平は妥当に思えた。
呆然としている暇はない。
まだ歯に銜えられている棒へ手を伸ばした。戦いにはまだ必要だ――そういう想いからだ。
近付いた刹那――
隼の目は吸血鬼の本能だらけの紅い目を見た。
食欲以外の意思。針のように尖った視線。それは排除の殺意。
隼は棒に手を触れる前に飛び跳ねた。
六角の棒が槍のように飛んできた。隼の身体を掠め、路面すれすれを飛んで、真っ直ぐに行き止まりの民家の塀へと突き立った。
背中でアスファルトに着地し、滑った勢いを横の塀にぶつけて止める。
吸血鬼が口の棒を吹き矢のように吹き飛ばしたのだ。
あのまま一歩前へ出ていたら、棒は隼の身体を突き抜けたであろう。
命拾いに安堵する間もなく、隼は立ち上がる。
既に吸血鬼も立ち上がっていた。夜より濃い瘴気が口から漏れた。
隼も臍の下に気を溜め、吸血鬼の攻撃に備える。
――と、吸血鬼の背後に影が立った。
そう気付いた瞬間には、影が吸血鬼を蹴っていた。
椎葉であった。
常人なら四、五メートルは転がりそうな鋭い蹴りだが、吸血鬼は数歩前に出ただけだ。
たかが数歩だが、隼の間合いに入ってきた。
そして意識を後ろに取られた一瞬を見逃さない。
臍の下から螺旋を描くイメージで力を腕へ持ってくる。腕は流れるように運び、指先を伸ばす。同時に吸血鬼の横へ廻りこんだ。
左足も持ち上げ、螺旋の力を通す。
突き出した指先に吸血鬼が気付いた。
ダン!
上げた足を強く打ち鳴らす。
ポンプを押し込むように、力が一気に身体の道を抜けて腕へ達する。
真っ直ぐに伸ばした掌を、返すように掌底で突き出す。
掌全体で押し込むように、気を吸血鬼に打ち出すのだ。
吸血鬼の身体は宙へ弾け飛び、反対側のブロック塀へと激突した。
硬質な音を立て、ちょうど隼の手が当たった所を中心に、塀が放射線状に割れた。
ぐらり――と吸血鬼が揺らいだ。
椎葉が踏み込んだ。
吸血鬼はその攻撃を嫌い、宙へ跳んだ――が、ダメージが残っているのか、それほど上がっていない。
椎葉の飛び蹴りが吸血鬼の腿を直撃した。
上に上がる力と、横からの力が作用して、吸血鬼の身体は横に円を描き、アスファルトにもんどりうって落ちた。
すぐに跳ね起きたが、平気ではないようだ。
真っ直ぐ立っているように見えて、吸血鬼は傾いでいた。
隼は追い討ちをかけるべく、地面を踏み鳴らして吸血鬼に迫った。
吸血鬼が目を見開いた。紅い光が炎のように揺れた。
反撃の意思は鋭く、物理的な強風を伴うようであった。
しかし間合いは隼が制している。
振り上げた吸血鬼の右肘を下から突き上げた。肩口を打ち、空いた右脇腹へも掌を打ちつけた。
吸血鬼の身体が流れるように回転した。
手応えが徐々に人体を打つ感触に変わったのは気のせいではない。
力が弱まっているのだ。
無防備に晒した背中へ両腕で掌を突き出す。
ぐふ――と初めて声を漏らし、吸血鬼はふらふらと前へと揺らいだ。
そこに椎葉が舞っていた。
羽と和服の裾を翻し、全身を捻って突き出した回し蹴りが吸血鬼を吹っ飛ばした。
隼の横を弾けるように影が転がって行く。
それに気を取られた刹那、何かが隼へぶつかってきた。
きゃ――死闘の中で場違いな声を伴って。
その声を巻き込むように一緒に倒れ込んでいた。長くて、細くて、柔らかいものに押しつぶされた。
「なんで下にいるのよ!」
勢い余った椎葉だとは想像付いていたが、その言い分はない。
見下ろす気配があった。
吸血鬼だ。
吸血鬼がコンクリート塀の上にしゃがんで睨んでいる。逃げようとしているのだ。
倒せるチャンスを逃がすわけにはいかない。
だが、椎葉はやっと起き上がった所で、隼にいたっては完全に寝そべっている。
まずい――そう思った時、吸血鬼の背後から飛んでくる影が見えた。
屋根を足場にして落ちてくる影に、色々な意味で嫌な予感がしたが、今は頼るしかなかった。
カラス天狗たちよりも小さく、帽子をかぶった影は、街灯を跳ね返す剣で弧を描いた。
吸血鬼は直前まで接近に気付いていなかった――にもかかわらず、その一瞬で攻撃を致命傷から避けた。
剣は吸血鬼の背中から脇腹へ流れた。
ああ、ああ――変な声と共に、こちらも勢い余って飛んできた。
隼は立ち上がって抱き止めた――が、そのまま再び道路へと倒れ込んだ。
痛みはこの際無視した。
隼は受け止めた影を抱き起こしながら起き上がった。
「やったね。見た?」
ラタヴィルは嬉しそうに言った。
「よくやった――だけど、まだだ」
隼は吸血鬼を見上げた。
いつの間にか、屋根の上へ移動していた。
傷を受けながらも逃げようとする本能には、脅威を感じる。
赤い光の粒が、ラタヴィルの付けた裂傷から溢れ、空へと浮かび上がる。
吸血鬼は必死に抑えているが、流出は止まりそうにない。
あれが生命エネルギーなのだろうか?
吸血鬼はうなり声を残して、飛び上がった。
「何してるの?! 追うよ!」
椎葉が先頭になって走り出した。
「テングのくせに!」
ラタヴィルが意味のない罵倒と共に追いかけ、隼が最後を走った。
こぼれた赤い光が三人を導いている。
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