第9話

 学校から天城邸まではそんなに遠くない。

 むしろ隼の家の方に近い。

(山の上……だな)

 木々を両側へ配した坂道をひたすら登っているというのに、隼は自信がなかった。

 生まれてからずっとこの地に住んでいるのに、こんな道も知らなければ、山があることさえ知らなかったのだ。

 道の左右からアーチを作っている樹木に、夏の青さはもうない。

 自動車は緩やかに進み、急勾配の舗道はやがて門にたどり着いた。

 この道はここへ来るためだけに敷設されたようだ。

 自動車はそのまま門を潜り、中へと進んだ。

 広い庭が、広大な空と共に自動車のフロントガラスを出迎えた。

 庭の向こうには、時代劇でしか見たことがないような平屋の建物が幾つも繋がり、ずっと奥まで続いている。

 屋敷内の庭をアスファルトの道が突っ切っていた。

 不粋な景観に思えるが、歩きでは門から建物まで距離がありすぎるのだ。この道と自動車は必須である。

 ゆっくりと自動車は走り、やっとのことで玄関らしき所に止まった。

 十分ぶりに隼は大地へ降りた。

 椎葉もいつの間にか降りて、引き戸を開けて中へ入るところであった。

 隼も後に続く。

 その奥はずっと土間であった。

 椎葉は無言でどんどんと進む。その細身の背中を隼は追った。

 右手には窓があり、広大な庭が追ってくる。

 左には一段高い所に床があり、障子で仕切られた部屋が連なっている。

 玄関がずっと延びている――それが隼の解釈だ。

 どこからでも上がれるが、廊下は入り組んでおり、スタートを間違うと、目的地にたどり着けなさそうであった。

 土間の奥まで行き着き、そこでやっと靴を脱いで床へと上がった。

 木目が深い木の廊下を奥へと進む。

 左右に部屋はなく、突き当りの部屋へ続いているだけの廊下だ。

 襖に行き着く。

 立ってみて分かるが、この襖はでかい。

 三メートルの高さの引き戸なんて、隼は初めて見た。

(しかも派手だ)

 金色で、光量の少ないここでもキラキラしている。松と桜の絵が描かれていた。

 その部屋に入って、もう一つの初めてに会う。

 もう一人――と言い換えた方がいいかもしれない。

「袖篠隼をお連れしました」

 入れ――渋く通る声が襖を越えてきた。

 椎葉に続いて部屋に入ると、あまりの大きさに口が開きそうになった。

 部屋のことではない。

 いや、部屋も大きい。天井は学校の体育館並みに高く、歌舞伎の似合いそうな重厚な色の板の間には、座布団で百人は優に座れる広さがあった。

 いやいや。それよりも隼を驚かせたのは、その中央に座している人であった。

 巨大なのだ。

 胡坐をかいているが、立てば三メートルは越すだろう。

 ゆったりとした和服を着ているにもかかわらず、肩幅や胸厚などから発せられる重圧は今まで味わったことがない。

 更に特筆すべきはその顔――。太く反り返った眉と、その下のぎょろ目、そして長く突き出た鼻。

(天狗だ)

 本人が否定しようと、見た人は絶対に『天狗だ』と口走る顔だ。

 ぎょろ目が隼に止まり、微動だにしなかった。

 椎葉に促され――嫌だったが――その正面に座る。

「椎葉の祖父の天城源三郎あまぎげんざぶろうと、父の松ノ心まつのしんだ」

 弱々しい声が、天狗――源三郎の隣から聞こえた。

 人が座っていたことに気が付かなかった。

 ひょろりとして、源三郎の横にいるため貧相に見えるが、背は高そうだ。

 隼は頭を下げて、挨拶をしようと口を開けた時だ。

 ずい――と減三郎が身を乗り出した。

 黒目が動かず隼を睥睨している。

 猛禽類に睨まれたらこんな感じかもしれない。

「え――……と。袖篠隼です」

 やっと答えた隼に、減三郎は通る低い声で言った。


「孫は嫁にやらん」


 場の空気が重くなった。

 隼も意味が分からず固まってしまった。

 唯一動きがあったのは後ろだ。

 飲んでいるお茶を吹き出したのは、椎葉だろう。

「おじいちゃん、何を言ってるの?」

「孫は大事な跡取りだ。お前のように得体の知れぬ奴にはやれん」

「そうだよ。僕のように肩身の狭い思いをすることになるよ」

 隣で松ノ心が自嘲しながら言うと、源三郎が豪快に笑った。

(何が可笑しいんだ……?)

「彼を一党へ誘うために呼んだんじゃないの?」

 後ろから必死な声がする。

「我ら天狗一族は東日本の平和を担っている。息子は出来損ないだが、孫はその血を見事に引き継いでいる」

 やっぱり天狗なんだ、と隼は納得した。

 源三郎の容姿で、天狗じゃないと言われたら、余裕で一時間は抗議する自信があった。

 という思考はさて置き、同時に隼は警戒していた。

 この人たちは隼の妖怪の血を知っているのだ。

 たとえ相手が妖怪でも、簡単にそれを認めるわけにはいかない。

「一族を絶やさぬためにも、婿はワシの目に適った者しか許さん」

 まだ話しはそこで止まっていた。

「だから、おじいちゃん、違うって――」

「おじさんも最初は優秀だったんだよ。でも坂道を転がるように、みるみると落ちてしまってね」

 松ノ心がまた弱々しく笑った。

「申し訳ないんですが、用がないのなら帰りたいんですけど」

 源三郎の睨みが頭上から降り注ぐ。

「一回断られただけで、すごすごと引き下がるのか」

 話にならない。

「おい。何とかしろよ」

 隼は後ろの椎葉に助けを求めた。椎葉も前に出てくるところだった。

「あたしとの結婚話を、何で迷惑そうな顔で聞いてるのよ」

(はあ――!?)

 隼は心で叫んで、口だけが大きく開いた。

「おじいちゃん。お婿さんはちゃんとお眼鏡に適う人を連れてくるわよ」

 僕の顔だけの抗議を椎葉は無視し、隼の横へ並んで座ると、はっきりとそう言った。

 孫には弱いのか、源三郎が背もたれに戻っていく。松ノ心は嬉しそうに頷いていた。

 それで――と椎葉が向き直った。

「あたしたちが天狗と聞いても動じないんだから、あなたも何かしらの縁があるのよね」

「昨日、レプラコーンとあかなめ、それに吸血鬼に会った」

「赤垣ね」

「知り合い?」

「あいつはこの党の一員よ」

 へえ――声に出さず応える。

「彼の相棒が二日前から連絡が取れないけど、一緒なのかな?」

 松ノ心が補足したが、特に必要の無い情報だ。

 今大事なのは接点をこれ以上増やさないことだ――と、隼は警戒を強めることにした。

「――で、それだけ?」

 椎葉の探るような目を、隼は白々しくかわした。あくまでとぼける。

「この世界には、妖怪と西洋妖怪――つまりモンスターが存在すると知っているってことよね」

「目撃者は消されるのかい?」

「まさか。これからのお話――あなたはどっち側の立場で聞くのかしらって思ってね」

 椎葉が不敵な笑みを浮かべた。

 この娘はまともな笑顔を見せる気がないらしい。

 ともかく、隼が妖怪の血を引いていると知っているようだが、隼自身は『知らない』で通すつもりだ。

「後は私が説明しよう」

 左端から唐突に声が聞こえた。

 声が上がって初めてそこに男がいたことに気が付く。

(ここの人たちは存在感が希薄すぎる――)

 というより、気配を消す術に長けているのだろう。

 この屋敷や山自体も同じ術に掛かっているのかもしれない。

「私は天城鷹善あまぎようぜん。椎葉の叔父に当たる。遠慮なく『おじさん』と呼んでくれたまえ」

(まだそのネタが続いているのか――)

「叔父さんまで!」

 椎葉の剣幕を笑ってやり過ごすと、鷹善は隼に向き直った。

 鷹善の姿は人間だ。松ノ心よりしっかりしているようにも見えるし、上品で、優しそうな笑みを浮かべている。

 だが、それだけで人の本性は探れない。

(警戒した方が良さそうだ)

 この部屋の中で一番警戒しているのがこの鷹善であることに、隼は気付いた。

 何故ここまで嫌うのだろう――。

 それは隼にも分からないが、鷹善を見た時に、警鐘が高らかに鳴ったのは確信している。

 そんな気持ちを知らず、鷹善は話を始めた。

「袖篠くんは『ラグナロク事件』を聞いたことがあるかい?」

「ラグラロクとは北欧神話での終末の意味でしょうが――別のことを言ってるんですよね」

「君は賢明だな。もちろん言葉そのものではなく、実際に起こった事件だ。しかも十年ほど前のことで、もう君はこの世に生を受けているね」

「日本では富士山を境に東と西に分け、それぞれを妖怪が管理している。東を守っているのがあたしたち天狗。世界においてその役割を担っているのは一つの王国」

「王国?」

 隼は、割り込んできた椎葉に訊いた。

「アリウムンドム王国という名前だ。そして、それを統治しているのが吸血鬼一族なのだ」

 答えたのは鷹善であった。

「何百年以上も人間と妖怪たちの和を保ってきたが、十年前に起こった『ラグナロク事件』により、その有り様は大きく変えることとなった」

「その吸血鬼は、昨晩におれが会ったやつと関係が――?」

「大有りだ。現在、世界には吸血鬼は八人しかいない。その一人と君は遭遇したのだ」

「八人が多いのか、少ないのか」

「正確には一人だ。残りの七人は魂というべき存在だ」

「『ラグナロク事件』は吸血鬼の姫の反乱で、他の王族を含むほとんどのモンスターが消え失せた。王の最後の抵抗で、姫の吸血鬼の力を七つに分けて世界に放ったんだ」

 中々本題に入らないことに焦れたのか、また椎葉が口を出した。

「つまり『一人』とは姫のことだな」

「その通り。七つの力は吸血鬼の眷属の姿をして世界に散らばり、姫は自分の力を取り戻すために彼らを追っている」

「昨夜の吸血鬼がその七人のうちの一人ってことか――」

 ただの吸血鬼ではなかったのだ。

 反乱を起こした吸血姫の力を宿した魂――倒すことで、その力を取り戻すことが出来るなら、

「姫以外が倒しても――」

「力を得ることが可能だ」

 隼は納得した。

 レプラコーンとあかなめの行動に。

 彼らはその力を狙っているのだ。

「その顔だと――知らなかったようだね」

「知ってたとしても関わりたくない」

 本心だ。

 力を求めて命をかけるなんて愚かしいことだ。

 隼にとって大事なのは家族だ。

 家族と愛する人を守るんだ――これは父親とした約束である。

 その守る対象には自分も含まれている。

 大切な人がいなくなる悲しみなんて、もう充分だ。

 自分にも、家族にも。

 もう二度と――。

「力を得られるチャンスだよ。それを逃すの?」

「元々姫様のなんだ。返してやりゃあ良いだろ」

 それは難しい――と鷹善が言った。

「彼女は重要戦犯者だ。力を取り戻したら、今度は人間界が狙われる」

「じゃあ、日本の治安を守る天狗族としては、その力をどうするつもりで?」

「平和を守るには、より強い力が必要なんだよ」

 一瞬、鷹善の顔に邪な影が見えた気がした。

 本当に隼は、鷹善を悪意のある存在と見ているようだ。

「その争奪戦におれが加わってると思って連れてきたなら残念。さっきも言ったように全く興味が無い。時間の無駄でしたね」

 場の空気は少ししか変わらなかった。

 断ったことで天狗のじいさんが怒り狂うかもしれないと覚悟していたが、全く微動だにしない。

 というかさっきから隼をじっと見下ろしたままだ。

 恐いんですけど――と心だけで本音を言う。

 変化した空気は、隣の椎葉だ。明らかに不快を顕わにしていた。

 読みやすくて助かるが、今は無視。

 にこにこしている松ノ心同様、心が読めない鷹善が言葉を継いできた。

「それもあるが、君のことが心配でね」

「なんのことです?」

「私たちは妖怪の血を引く者を保護している。人間社会では馴染まない者をな」

 天城家は隼の血に気付いている――これは決定した。

 確信があるからここへ連れてきたのだ。

 しかし手札を晒しているようで、まだ切り札を見せていない――そんな状況下で、隼の出来ることは少ない。

 とりあえず知らんぷりだ。

「それもおれには関係のない話ですよね」

 と言い切ると、源三郎の表情が緩んだ――……気がした。

 こっちの表情の分かりづらさは、天狗の面のような顔のせいだ。

「そうか、それならそれで構わないさ。だが覚えておいてくれ。何かあった時に頼りになるのは私たちだということ、そして争奪戦に加わった時には、敵になるということも」

 隼が頷くと、椎葉が立ち上がった。

 会談は終わったようだ。

 椎葉に従い、部屋を出る。

 袖篠隼――源三郎の低い声が呼び止めた。

 隼が振り返ると、天狗然とした顔が威圧的に見下ろしていた。

「孫が欲しかったらもっと精進するのだぞ」

 まだ続いていたのか、そのネタ――。

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