第7話

 ただいま――

 初めの『た』の段階で、二人の不満が爆発していた。

 二人とは母親の由起子ゆきこと姉のゆうだ。

 彼女らの言い分は『つまみがない』と『夕飯を作ったら失敗した』だ。

 どちらも自分勝手な弁口だが、『ただいま』くらいは言わせて欲しいと、隼は小さくため息をついた。

「すぐ作るよ」

 二人は頷くと戻っていった。

 隼も玄関から上がると、二人を追った。

 由起子は七年前に夫を亡くしてから、一人で優と隼を育てている。市内の病院で医療事務をしているが、主任の肩書きを貰っていた。

 家でのふわふわ感からは、全く仕事ぶりが想像できない。

 優は大学三年生だ。髪を染めて、化粧も濃く、肌の露出も常に全開で、へそ周りが服に収まったことはない。

 言動が派手なのは昔からだが、苛められたり、邪魔者扱いにされた記憶もない。

 仕事で忙しい母に代わり、よく面倒を見てもらっていた。

 眠そうな瞼が優しげに微笑む姉の記憶が、隼には残っている。

 小学校高学年になる頃から、隼がご飯の支度をするようになった。

 料理好きだった父の影響だろう。

 実に器用にこなし、母と姉の評判は上々で、中学生になる頃には、キッチンは完全に隼の城となっていた。

「母さん、飲むなら何か食べてって言ってるでしょ」

 アルコールを既に飲んでいることに気付いた隼は、母親に注意した。

「待てなかったんだもん」

 由起子は文句を言ってすっきりしたのか、ご機嫌に返した。

 リビングを通ってキッチンへ――

 一目見て隼は愕然となった。

 鍋という鍋が引っ張り出され、ひっくり返り、小麦粉が壁を飾っている。ボールが幾つも並んで何かが入っているが、どれも使えそうなものが入っていない。

 卵を割ったらしいが、殻の方が多い。

「何をどうしたら、こうなる――」

「優が料理したらこうなるのだ」

 後ろで姉が胸を張っていた。

 というか、なぜまな板と皿が床に置いてあるのだ?

(罠か――?)

「彼氏に弁当とか手料理を作らないの?」

「ばれないように上手くやってる」

 そんな努力よりも、料理を勉強する努力のほうが役に立つよ――とは言えず飲み込んだ。

 片付けは後だ。

 今必要な物だけを散らかっている中から選び、他は端へ寄せておいた。

「時間が遅いから、つまみになりそうなのを夕飯のおかずにしよう」

「意義なーし」

 由起子がやはりご機嫌に言った。ソファーで缶ビールを掲げている。

 シンクには何故か調味料が並んでいるが、必要な塩や胡椒は見当たらない。

(本当に何を作るつもりだったんだか――)

 隼はため息と共に塩と黒胡椒を出した。

 冷蔵庫から下ごしらえ済みの鶏肉を半分だけ出す。

 これは、鶏の胸肉を塩で味付けをし、ラップに包んで茹でたものだ。一回下ごしらえしておけば冷蔵庫で四、五日保つから、色々と使い回しが出来て便利なのだ。

 今日はメインディッシュとして使うが、残りは肉じゃがにすることにした。

 ラップから鶏肉を取り出して、黒胡椒をたっぷりとまぶした。

 皿を用意して野菜を盛り付ける。本当は水菜が良いのだが、レタスで代用。

 どうせ二人は食べないのだが、彩りとしてトマトを切っておく。

 気が付くと優がまだキッチンの入口に立っていた。

 深い二重が感心したように、隼の手際を見ていた。

 隼は気にしないようにした。

 フライパンにオリーブオイルを引いて熱する。次いで、黒胡椒で飾られた鶏肉をフライパンの窪みへ滑らせる。オリーブオイルの濃い香りに、肉脂の焼ける匂い、そして黒胡椒のスパイシーさが抱き合うように立ち上った。

「あんたの料理の腕前――お父さん譲りなのかな」

 優の言葉に、隼は台所に立つ父の背中を思い出した。

 七年以上前の記憶だ。

 もう薄れ掛けている。

 だが、父親が亡くなった時、優は中学生だ。記憶なら隼よりも鮮やかであろう。

「おれなんて大したことないさ。父さんは自分で味や料理を作り出せてた。おれは本とかで調べたものしか作ってない」

「優も調べて作ったんだよ」

(あれでか――)

 隼は返答に困っていると、フライパンの中で肉に焼き色がついてきた。

 これで充分なのだが、皮にパリパリ感を出すため、もう暫く焼く。

「もう少しで出来るよ」

「分かった。早くして」

 優がリビングへ戻っていた。いつもの口調ではない。どこかに照れを感じた。

 隼はそれを苦笑して見送ると、鶏肉をまな板へ移した。

 一センチの食べやすい幅に切って、皿に盛り付ける。

 トマトを乗せ、優の肉にはオリーブオイルを薄くかけた。

 由起子はつまみなので黒胡椒を前面に、優は夕飯なので香りを強めにしたのだ。

 ご飯は冷凍しておいたものを解凍した。

 食卓へ並べると、ソファーから母もゆっくりとテーブルへとついた。

 皿へ顔を近付け、香りを嗅いだ由起子がまじめな顔を向けた。

「隼――ママはそろそろ洋酒にいこうと思ってたのに、これじゃビールをまだ飲まなければいけないじゃない」

 由起子は言うや否や立ち上がり、冷蔵庫ヘ向かった。

 優は既に食べ始めている。

 父親がいなくなり、母親が本格的に働くようになろうとも、優も隼も進学により生活環境が変わろうとも、晩御飯はできるだけ一緒に食べていた。

 誰が言い出したわけでもない。仕事が遅くなっても、大学のサークルで遅くなっても、時間を合わせていた。

 誰もそれに文句を言わない。

 それが当然――というように暮らしている。

「これはビールが合うのよ、絶対」

 由起子は缶ビールとグラスを二つ持ってきた。

 彼女自身の分と優の分だ。

 注ぐのは、隼だが……。

 冷やしておいたグラスに注いでやると、由起子も食べ始めた。

「ほらね――」

 と言ってからは、二人は無言で味わっている。

 その様子を眺めてから、隼も食べ始めた。

 うん、美味く出来てる――。

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