第6話

 トラックは十分ほど走って停まった。

「おい、そろそろ降りろよ」

 まだ空を見て、ぼ――としていた隼は事態を理解した。

 身体を起こすと、荷台横に男がいた。

 太い眉毛と下がった目尻、そして無精ひげ――粗雑そうに見えるが、メガネから覗く伏せ目がちな視線に、照れが感じ取れた。

 筋肉と知性が同居する不思議な男は、トラックの運転手だった。

「すいません――。今降ります」

「女の子を先に。手伝ってやるから」

 運転手は太いひとさし指で、刈り込まれた頭をごりごりと掻きながら言った。

 隼は警戒した。

 ラタヴィルのことも知っているのなら、乗り移るのを見ていたということだ。

 吸血鬼のことはともかく、追われていた様子は見て取れたのではなかろうか。

 それなのに、トラックの荷台に飛び乗ったことを訝しむ様子もなかった。

 『ここで降ろす』のではなく、『ここまで乗せてくれた』――とも言える。

 ならば、ただのお人好しなのかもしれない。

 隼はラタヴィアを抱えたが、渡していいか悩んだ。

「ほりゃ、早くしろよ」

「大丈夫です。降りられます」

「落としたら可哀相だろ。ほら」

 隼は渋々ラタヴィアを渡した。運転手は軽々と受け取った。

「坊主も早く降りろ」

 隼は頷くと幌から飛び降りた。

 着地した目の前に運転手が立った。

 傍に立つとその筋肉には、見た目以上の圧迫感があった。

 ずいっとラタヴィルを押し返された。

 え――と思っている間に運転手は運転席へと戻っていった。

「ありがとうございました」

 トラックの運転手は恥ずかしそうに左手を上げると、走り去った。

 ラタヴィルを抱えて一人残された隼は、無用な警戒心だったことを知った。

 もっと感謝しても良かったんだな――と反省した。

 降りた場所は住宅街の外れ――というより住宅街の入口。大通りへ進めば駅方面へ出る。

 大通りに進まず、小さい川沿いに三十分ほど歩けば家へ着く。そんな位置だ。

 ラタヴィルを抱えたまま、隼はとぼとぼと歩き出した。

 疲労のせいか、二十分で半分も進んでいなかった。

 三メートルの高さの護岸壁に挟まれた浅い川は街灯の光も届かず、せせらぎだけで存在を知らせていた。この川も遠果川とおかがわの支流に当たる。

 自動車の通らない川沿いの遊歩道は、夜がまだ浅いにも関わらず人通りが全くなかった。

 好奇の目に晒されないのは助かるが、人の気配がないと不安になる。

 またあいつらが来るのではないか――という不安だ。

 今襲われたら、一瞬でやられる自信があった。

 先の河原での遭遇時、一般人が全く巻き込まれなかったことに、何かしらの力が働いていたとしか思えなかった。

 それが何か、までは頭が回らなかった。

 とにかく疲れていた。

 早く横になりたい――その欲望のみに突き動かされて、足を動かしていた。

 緩やかな坂が続き、頂点の位置が橋になっている。そこからまた下りとなり、次の橋で平坦になる。その橋の袂が《あこがれの君》の家だ。

 何故家を知っているかは察してほしい――というか、自分で《あこがれの君》って言っちゃったよ……。

 思考がトッ散らかっていた。

 と、前に人影が見えた。

 橋の横にすくっと立った。

 街灯に照らされ、隼からは逆光のシルエットとなっていた。

 警戒心は一瞬で解いていた。見上げる位置に立つシルエットは若い女性のもので、吸血鬼でもなければ、赤垣でもないのが分かった。

 足下をせわしなく動く影は小型犬だ。

 つまり犬を散歩中の女子だということ。

(よし、言い訳だけは考えておこう――)

 どんな時もまず言い訳を考えてしまうのが隼の悪い癖だ。

 しかも、いつも考えている割には、得意ではなかった。

 その上、あの緊張感を抜けてきたのだ。大した言い訳も思いつかない。

「あら――?」

 素っ頓狂な声が聞こえた。

 足下に向けていた視線を、声に合わせて動かすと、そこには《あこがれの君》の顔があった。

 坂本波美さかもとなみであった。

 その可能性を考慮すべきだった。自分でも言っていたじゃないか。

 すぐそこに家がある――と。

「袖篠くんじゃない」

 波美が歩み寄って並んだ。

「――――こんばんわ」

「こんばんわ」

 やっとのことで挨拶した隼に、波美はさらりと返してきた。

 こうなると、次が続かなかった。

 はっはっはっという呼吸音に、視線を落とす。

 足下で小型犬が隼を見上げていた。犬種は分からないが、脚の短い短毛種で、ぶさいくが可愛い犬であった。

 隼は撫でたかったが、ラタヴィルを抱えていることを思い出し、その衝動を留めた。

「散歩中だったんだ」

 波美へと意識を戻すと、切れ上がった目の中で、大きな瞳はラタヴィルを凝視していた。眉間には皺が寄っている。

 何の表情だろう――と、普段なら彼女の気持ちを慮っているのだが、どうやら疲れているようだ。隼の視線はその白磁のように透き通る肌へ吸い付いて離れなかった。

 明るいだけの街灯は、夜全体を蒼く照らす。その中で波美の白さは幽かに浮き立っていた。

 まるで天女みたいだ――意識が理性から遠ざかっていく。

 吸血鬼や妖精がいるんだから、天女くらいいるだろう。

 思考もかなりいい加減だ。

 ついでに視覚がピンポイントになっていく。

 額から少し低めの鼻、そして薄いが形の整った唇までのラインを目でなぞり、更に顎から首筋へ。

(変態だな、おれ――)

 なんて自嘲も目の動きを止めるには至らない。

 今更気付いたが、波美は後ろ髪を髪留めで無造作に留めていた。

 暴走する思春期のカメラワークは、露出したうなじへ。

 神格とエロスは同居が出来る――なんて夢見心地で見とれていると、

「その娘が吸血鬼?」

 波美が訊いてきた。

「いいや、全然違う」

 瞳だけが不審そうに隼へ動いてきた。

 答え方が虚ろだったかもしれないと猛省し、隼は改めて言い直した。

「この人――は普通の娘――だよ」

 嘘だらけで逆にぎくしゃくしてしまった。焦って変な事を口走りそうになる。

「じゃあ、どこから攫ってきたの」

 攫ってきたとは人聞きの悪い。

 真顔で言われたため、多少余裕が戻ってきた。

「例の現場に倒れていたんだ。外国人のようだし、単純に公共機関へ預けて良いか分からなくて」

 今度は嘘ではない。

 状況を端折っただけだ。

 ふうん――と、波美は探るように答えた。

「で――……、どうするの、その娘」

「家でしばらく面倒みようかと――」

「ダメよ、そんなの。親御さんが迷惑するでしょ」

(そうかなあ――)

 と、隼は家族を思う。

 隼の家は母親と姉の三人暮らしだ。

 もし、外人の子が倒れていたから連れて来たと言ったら――名前をつけて育てよう――となるだろう。

 猫じゃないんだぞと、止めても聞き入れてくれないだろう。

 あれよあれよという内に面倒を見る家族が一人増えるだけだと隼は予想した。

「家へおいで。なんとかするから」

 隼が返事をする前に、波美は歩き出した。

 彼女にとって元来た道へ引き返す形となる。

 用があってこっちへ向かっていたのではないか?

 いやいや、そもそもこの状況で素性の知れない女の子を預かるなんて出来る家庭なのか――考えを巡らせていると波美が振り返った。

 無言だが、待っているようだ。

 隼は意を決して歩き出した。

 もしダメなら予定通り隼の家へ行けばいい。

 そう結論付けて、その背中へ続いた。

 中学の時、波美とは別のクラスであった。

 だが、隼は彼女を知っていた。

 二つ隣のクラスの女子を知っていた理由は、単純に隼の仄かな恋心だ。

 彼女は美人というタイプではないが、顔立ちは非常に整っている。

 柳眉も凛々しく、面倒見も良いので女子に人気が高かった。

 男子にも気軽に声をかけるが浮いた噂がない。

 完璧に見えるのに、意外と――いや、かなりドジな子であった。

 隼自身も、彼女が何度もドアにぶつかっているのを目撃している。

 同じ高校へ進学することは知っていたが、クラスが一緒になることまでは期待していなかった。

 三年間、また『別のクラスの子に片思い』するかと思っていたが、『同級生に片思い』にランクアップできたことが、今年一番の出来事だ。

 その片思いの《あこがれの君》と一緒に歩いているなんて、どうしたことだろう――と、隼は思う。

 最初で最後のモテ期到来か――とも思わずにいられない。

 吸血鬼絡みの苦労に、神様がご褒美をくれたのかもしれない。

 落ち着いて考えてみると、厳密に『一緒』とはいえない。並んで歩いているわけではない。後を尾けているようだし、ラタヴィルもいるのだ。

 思考に取り留めが無かった。

 期待しすぎて後でがっかりしないように自制していたが、結局、それでも嬉しいかな――と至り、隼は薄く笑みを浮かべた。

 改めて《あこがれの君》の背中を見た。

 そういえば私服を見るのは初めてであった。

 制服しか見たことがないのだから当たり前だが、新鮮な驚きと嬉しさに吠えたくなった。

 明るい色のカーディガンとチェックの柔らかいスカート――色は夜目と街灯で不確かだが、スカートから覗く膝裏は確かにいけてる

(いや制服の時もそうか……)

 落ち着けと言い聞かせておきながら、はしゃぎ過ぎて、思考が散らかったままであった。

 橋が見えた。波美の家はあの橋の袂だ。

 行ったことはない。

(知識としてあるだけ――いや、一度だけ行ったことが……。いや実は三度。ごめんなさい――)

 隼は心の中で誰ともなしに謝った。

 反省すると、やっと気持ちの悪い笑みが収まった。

 自覚があったから、振り向かれて変な自分を見られずに済んでホッとした。

 それよりも、ラタヴィルを波美の家に預けていいのかどうか――だ。

 彼女にはラタヴィルが小さい子に見えているかもしれないが、立派な大人だ。しかも人間じゃなく妖精だ。何かあった時、波美では対応しきれないだろう。

 いや、隼でも自信はないのだから、預けるべきではない。

「坂本さん――」

 やっとその名前を呼んだ。

 波美が振り返る。足も止めた――だから隼も足を止めてしまった。

 なのに、波美が戻ってきた。手の届きそうな位置まで来た。

 近くに彼女がいる。

 そう思うと、言葉だけじゃなく、ラタヴィルまで投げ出しそうになる。

「どうしたの?」

「いや――。やっぱりこの娘はおれが預かった方が良いかなって思って――」

 波美がやはり眉間に皺を寄せた。

 『怒っている』とは、また違う表情だ。

 何だか分からないが――かわいい。

「まさか、君にそんな趣味が?」

(どんな趣味だ? 妖精趣味? 年齢不詳趣味? 緑好き? いや、これは違うな――)

「この娘の安全はわたしが守ります」

 波美は隼からラタヴィルを奪い取り、抱きかかえ、よろめきながらも歩いていった。

「坂本さん――」

「今日の報告は明日聞きます」

 そんなことを訊いてるんじゃなくて――隼は心で呟くと、慌てて波美を追った。

 意外とパワフルだった。

 追いついたのは波美の門の前であった。

 さすがに両手が塞がっているから開けられないようだ。

 結局、隼が門を開け、家のドアまで開けさせられた。

「じゃあ、明日報告をよろしく。おやすみなさい」

 同じことを言うと波美はドアを閉めた。

 隼のおやすみの言葉はドアに跳ね返った。

 門をちゃんと閉めて、隼は波美の家を後にした。

 橋を渡りきるまでに二度、波美の家を振り返った。

 それほど騒ぎは起きてないようだ。

 夜空に輪郭を浮かべる坂本邸に、もう一度おやすみを言って隼は再び歩き出した。

 隼の家は橋を渡れば、歩いて十分ほどの距離だ。

 そんなに遠くないのに、近く感じないのが《あこがれの君》の所以かもしれない。

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