第5話

 自分で『最強』と謳うのはともかく、『あかなめ』は笑えない。

 あかなめ――とは妖怪の名前だ。

 江戸時代の文献にあった『垢ねぶり』と同種と謂われている。

 風呂場や風呂桶についた垢を夜な夜な嘗めるそうだ。

 妖怪の子孫同士は引き合うのか――そんな不必要な設定が頭に浮かぶ。

 赤垣が剣を抜き、正眼に構えた。

 襟足が扇形に広がるおかっぱの下で、鋭い目付きが吸血鬼を睨んでいた。

 鉤鼻と大きめの口――かなり特徴的な顔をしている。

 照度が低くなっている川原だが、赤垣の着ているパーカーの、左の胸元に文字が見えた。

 ○の中に『殺』の文字。

(堅気じゃない。もしくは危ない人だ。どちらにしろ関わりあいたくない人物だ)

 高架線の下に赤垣がいて、十メートルほど離れた所に吸血鬼が立っている。ラタヴィルを抱えた隼が座っているのは、吸血鬼から土手側へ三メートルほど離れた位置だ。

 三者は三角形を描いていて、吸血鬼は隼とラタヴィルに対して正面を向いている。つまり、赤垣には左横を晒しているのだ。

 第三者の介入で余裕ができたおかげで、夜闇の中ではあるが、初めて吸血鬼の容姿が見て取れた。

 骨ばった頬骨と尖った鷲鼻、後ろへ梳き流した長髪、そして、前をはだけた襟の大きいコートとストレートのズボン。粗野な風貌は、とても伯爵とは呼べない。

 口がぱくりと割れて、二本の犬歯が覗いた。

 吸血鬼なのは確かだと、隼は納得した。

 この場には純粋な人間がいない。

 赤垣があかなめの血を継いでいるのなら、隼は袖引き小僧の血を引いている。

 隼の腕にいるラタヴィルはレプラコーンであり、濃い影は世界一ネームバリューのある吸血鬼だ。

(和洋化物展覧会なんて笑えねえ――)

 予備動作もなく吸血鬼が隼へ向かってきた。

「あくまでこっち狙いかよ!」

 隼がラタヴィルを抱えて立ち上がった時、吸血鬼を追う銀光を見た。僅かな明かりを受け、鈍く光る三日月が吸血鬼の背中へ流れた。

 赤垣だと認識するより先に、隼は横の草むらへ飛び込んだ。乾いた草の感触と、腕の中の柔らかい感触に挟まれたまま転がる。

 吸血鬼と戦おうというのだから、筋肉質なのかと思いきや、ラタヴィルの小さな身体はマシュマロのようで、別の意味で意識が飛びそうであった。

(集中――!)

 言い聞かせながら、起き上がる。

 ラタヴィルを抱えたまま、立ち膝で状況を把握すする。

 剣を振り下ろした赤垣が制動をかけたのは、隼がいた位置だ。吸血鬼の後ろから追いつく速度はただ者ではなさそうだ。

 一方吸血鬼は、赤垣の後方三メートルで、身を低くして凶刃をやり過ごしたようだ。

 それだけではなく、微動だにしない前傾姿勢は、力のみで強引に止まったことが容易に想像できた。

 まだ赤垣の射程内だ。

 赤垣は振り向き様に、剣を横へ薙ぎった。

 大振りな白刃は夜気のみを斬っていた。

 吸血鬼は高速で回転しながら、遠ざかっていく。夜に包まれた空でも、あれだけ激しく回転していれば目につく。

 低い姿勢から勢いなしであの高さまで跳べる筋力は素直に驚けるが、黒い玉になるほどの後方回転はやけに目立って、脅威を通り越して呆れてしまう。

 隼のように呆気に取られる事無く、赤垣は吸血鬼を追っていた。

 弧を描き高架線へ向かう吸血鬼を、着地ポイントで切り捨てるつもりだ。

 直線距離の赤垣の方が速い。

 ところが――

 カッという音がして、宙の気配が止まった。

 高架線の下にぶら下がるシルエットが吸血鬼だ。

 あの速度でありながら、鋼材の出っ張り部分を強引に掴んで止めたのだ。

 しかも片手である。

 赤垣が急制動をかけ、同時に高架線へ向かって何かを投げた。

 金属同士のぶつかる音が三つ聞こえた。

 しかし吸血鬼は既に地面へ降りている。

 四つんばいの姿勢は、肉食動物が獲物を狩らんとしている時のそれに似ていた。

 そう、誘われたのは赤垣の方だったのだ。

 攻勢に惑わされたか、不用意に近付き過ぎ、しかも体勢は上方へ牽制したまま前面が開いていた。

 ざっと力強く地面を鳴らし、吸血鬼が迫る。

 赤垣は体勢を崩しながらも、左手一本で日本刀を斬り上げた。

 吸血鬼は白刃を握って止めた。いや、指先で刃の腹をつまんだのだ。

 何という握力――そのまま赤垣を押していった。

 地面を削り、砂埃が夜を乱した。

 赤垣が空いた右腕を腰へ回し、即座に突き出した。恐らくナイフのようなものだ。

 切っ先は寸分違わず眉間の位置――

 だが、ナイフは空に残っていた。

 吸血鬼は一跳躍で、元の高架下へ戻っていた。

 再び四つんばいとなった位置から、紅い双眸が睨めつけてくる。

 頭上の高架線を電車が通り過ぎた。

 乗客で混んだ下り線が明かりを地面に落とし、薄く照らされた赤垣と吸血鬼はより濃い影となっていた。

 赤垣が再び剣を正眼に構える。

 二人の対峙は、周囲の空気を圧縮したように息苦しくしていく。

 赤い双眸が、赤垣から隼へとゆっくりとねめ回した。

 常人とは違う血を見抜いたかのように、白い下弦の月が影に浮かび上がった。それが吸血鬼の口だと認識した瞬間、影で見えないはずの顔に、恍惚の表情が見えた気がした。

 知性を排除して残ったのが、その煌々とした食欲だけなのかもしれない。

 全てが文献通りではないとしても、吸血鬼とは紳士然としていて欲しかった――なんて余裕を見せている場合ではなかった。

 赤垣の戦いとで見せた恐るべき身体能力に、隼では太刀打ちできそうにない。

(つまり、逃げるに限る――)

「動くな。その足を打ち抜いて留め置くこともできるのだぞ」

 横を向いたままで、赤垣が高めの声を硬質に響かせて言った。

 恐らく本気だと、隼には分かる。

 あれだけの斬り合いをした吸血鬼を前にしても尚、横の隼にまで意識を回すことができる。

 これだけでも、修羅場の経験者であると容易に想像できた。

 『最強の剣士』を謳うのは伊達ではないようだ。

「何故か、奴はお前らを狙っている。お前らに逃げられたら、また奴を見失うことになる。それは困るんでな」

 全く持って自分勝手な思考であった。

 吸血鬼は赤垣に任せておけば良いというわけではない。

 彼も決して味方ではないということだ。

 赤垣が敗ければ、吸血鬼による必然的な死が待っている。何といっても、相手は伝説のモンスターだ。人間の倫理や命乞いが通じるとは思えない。特に目の前の吸血鬼には言葉も通じない気がした。

 赤垣が勝っても隼たちには同じ結末が待っている。

 彼は隼とラタヴィルを見逃さないだろう。

 勘ではあるが、確信はあった。

 赤垣はどこか切羽詰って見える。それは目撃者一人も残せない必死さだ。

 隼に残されたのは『逃げ』の一手だ。

 奥側の高架線を、上りの電車が減速しながら通り過ぎた。日常の風景が隼を引き戻す。今まで通りがかりの人間がいなかったことが暁光なことに思い至る。

 途切れかけた集中を見抜いたように、吸血鬼が動いた。

 低い位置を非一定のリズムで赤垣へ迫った。赤い二つの光芒がジグザグの光跡に残る。

 対する赤垣は正眼の構えのまま、す――と踏み出した。

 気負いの無い、それでいながら全く絶妙なタイミングであった。

 真上から夜気まで斬り裂く鋭さで、白刃が振り下ろされた。

 剣はやはり空を切っていた。

 風切り音は頭上で響いている。宙空を回転する影が、赤垣の切っ先の遥か上を通っていく。思った以上の音も立てず、吸血鬼は着地した。赤垣の後方十メートルほど、隼たちからも同じくらい離れているが、ほぼ直線の位置である。

 対岸の街の光点を逆光に受け、骨張った頬が浮かび上がる。紅い視線が隼を見た。

(来る――!)

 隼はラタヴィルを両腕に抱えたまま立ち上がった。

 一瞬の迷いは、ラタヴィルを地面に置いて両手で戦うべきか――だが、手を離した隙にラタヴィルが攫われる可能性を捨て切れず、抱えたままにした。

 右足を後ろへ引く。同時に呼吸法を切り替える。

 拳法の呼吸法だ。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。

 吸血鬼と初めて会った時に、金縛りを解いた呼吸法である。

 肺の中の空気を全て出し切って再び吸い、酸素に『生』のエネルギーを乗せ、今度は全身に行き渡らせた。

 隼の拳法のレベルでは、蹴りからの八卦は役に立たない。

 この呼吸は精神状態を落ち着かせるためのものだ。

 吸血鬼が隼の方へ地面を蹴った。

 狙いは、先ほどと同じくカウンターだ。故にギリギリまで引き寄せる必要があるが、失敗すれば攻撃を受け、下手をすればラタヴィル共々致命傷となる。

(相手の動きを見極めるんだ――)

 吸血鬼の二歩目は、互いの距離の半分を超えていた。つまり、もう攻撃態勢だ。

 右手が振り上がる――

 隼の目は、その右手首に絡まる紐を見た。

 気付いた時には、吸血鬼の身体はバランスを崩していた。振り上げた右腕を残すように、身体だけが先行して、宙に浮いていた。

 右手首に巻きつく紐のもう一端は、赤垣が握っていた。

 紐がピンと張られ、隼の手前三メートルで、吸血鬼は地面へ大仰にひっくり返った。

 隼は吸血鬼との距離を空けるべく、後ろ向きに退がった。

 赤垣が紐をたぐり寄せながら、倒れた吸血鬼へ走る。

 吸血鬼も飛び起きた。迫る赤垣へ対応するため、隼へ背中を向けた。

(ここだ――)

 隼はラタヴィルを抱えながら左手だけを自由にした。

 掌を吸血鬼に向ける。左腕が熱くなる。熱は手首を通り、晒した掌へ――

 イメージは『見えない手』だ。

 距離を越え、吸血鬼の袖を握った。

 実際の隼の手にその感触が伝わる。

 くい――と引っ張った。

 吸血鬼が振り向く――当然だが、誰もいない。届かない位置に隼がいるだけだ。

 袖引き小僧としての唯一の能力だ。

 相手が後ろを向き、尚かつ、その者の服に袖がある――という条件が揃って初めて使える技でありながら、その効果は相手の袖を引くだけ。

 小学校の時に、二度ほどイタズラで使ったが、使い道がないな――と、それ以来発動することがなかった。

 相手の気を引く――こういう場面でこそ使い道があった。

 吸血鬼は振り向いてしまったのだ。

 これほど致命的なミスはない。

 すぐそこに赤垣がいるのだ。

 がっ――と音がして、互いの動きが止まる。

 隼はわずかにずれてその様子を確認した。

 赤垣は剣を突き出し、吸血鬼はその刃を合掌の形で止めていた。

 切っ先が僅かに刺さっているようだ。突き抜ければ、その先には吸血鬼の心臓がある。

 一進一退で、二人は動けずにいた。

 隼は土手へ向けて走り出した。その挙動に動揺した気配を背後に感じた。

 とはいえ、互いに牽制し合っているはず。まだ追ってくる気配はない。

 草むらをかき分けて土手を駆け上る。

 小さいとはいえ、ひと一人を抱えているのだ。息切れが尋常じゃない。

 逃走経路を頭に思い描く。

 土手から、川と平行に走る片道一車線の道路へ下りられる。

 道を渡れば、低い位置に住宅街が広がり、階段で下りることが出来るが、走っていては追いつかれる。

 隼の視線が、高架線を潜り抜けてきた二トントラックに止まった。

 荷台が幌になっている。

 ちらり――と土手に視線を動かす。まだ吸血鬼と赤垣は動けていない。

 隼は道路に沿って走り出した。

 トラックが徐行しながらゆっくり走ってくる。

 タイミングを合わせて跳ねた。

 幌の真ん中辺りを狙う。

 ラタヴィルを抱きかかえ、骨組みを避けて落ちた。身を伏せて、後ろを窺う。

 遠い高架線を上り電車が通り過ぎ、その明かりに照らされた土手上に人影はなかった。

 トラックは坂道へかかり、土手が視界から消えていく。

 坂道は国道と上下で交差する。

 トラックは下の道を走って住宅街へ向かっていた。

 今の所、追ってくる気配はなさそうであった。

 隼はやっと息を吐いて上向きに転がった。

 住宅街の狭い夜空が見えた。

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