#16 精霊たちのいる風景
晩夏の陽光の下、おだやかな風が、街道へ吹き付けていた。
左右の平原は青々と波打ち、かすかな草のざわめきが耳に心地よい。
時折、鴨の群れらしき鳥影の列が、晴空を斜めに飛び去ってゆくのが見えた。
ヤタローがリリザ村を出発し、北東のサマール湖を目指して移動をはじめてから、およそ半日が経過している。
時刻は昼過ぎ。平和そのものの風景だった。
街道脇にぽつねんと立つ駅亭。
ヤタローは、その大屋根の下に足を止めて、小休憩をとった。
亭とは、一本柱と屋根で組まれた簡素な建築物。駅亭は、ようするに馬車駅として各所に設けられた亭のことを指す。
(これは、ゲームにもあったな。ただの障害物ぐらいにしか思ってなかったけど)
ゲーム内でも、駅亭は地上各地の街道沿いに配置されていた。実際は背景グラフィックの一部にすぎず、それなりに風情のあるオブジェクトという以上の意味はなかったが――。
実際に「生身」で屋根の下に入ると、意外に落ち着く空間だった。日中、強い日差しを避けられるというだけでも、休憩所として十分に有用な構造物となっている。
(いまのうちに、食事しておくか)
帝国軍や魔物との遭遇を警戒し、リリザ村から半日、ゆっくりと徒歩で移動してきたが、ここまでは特に変事もなく、平穏な旅程だった。歩いている間に、消耗しきっていた精神力も自然回復し、最大値に戻っている。
それはそれとして、蓄積した疲労が、次第にヤタローの背や膝あたりに、重くのしかかりはじめていた。空腹感もある。
昨夜来、ほとんど休息も取らずに動き回っていたツケが、ようやく押し寄せて来たようだ。
疲労はポーションである程度は回復することが可能だが、空腹のほうは、そうはいかないらしい。
今のヤタローはゲームのアバターではなく、生身の人間。ゆえに、食事はしっかり摂らねばならないということだろう。それにポーションでも眠気は完全に取れないようで、そのうちどこかで、きちんと睡眠を取る必要もありそうだった。
(相変わらず、チャットは通じない。いったいどれほど離れたのか)
ヤタローがあえて睡眠を取らず、ゆっくり移動していたのは、いつなんどき、はぐれたフレンド……メクメクから連絡が来てもよいように、と考えていたからである。チャット可能な状態になっても、肝心のヤタローが寝こけていては、結局すれ違うことになりかねない、という懸念があった。
とはいえ――。
(少なくとも、フレンド欄にはずっと表示されている。無事でいてくれてるといいんだが)
心配は尽きぬが、ともあれ今は、食事と休息を――ということで、大屋根の下に、座るのにちょうどいい岩石が置かれている。それへ腰をおろしつつ、ヤタローはインベントリーを開いた。
「女神の無限収納ポーチ」は、ゲーム内のあらゆるアイテムを、その名のとおり無尽蔵に収納できる。ヤタローのポーチ内には、ポーション類だけで百万本近くが入っている他、食材やアクセサリーなどの各種アイテムも百種類近く、それぞれ数千個単位で収まっていた。
これらは本来、ゲーム内において、AIパートナーへのプレゼントとして消耗される品々であるが、一応、プレイヤー自身がそれらを直接「使用」することでも、微々たる効果が得られる。
たとえばAIパートナー「アカラナータ」の好物である「リンゴ」をプレイヤーが食すると、一時的ながら耐久力上限がわずかに上昇する。
(……ゲームでは一応、食べられたが、実際はどんなものだろう)
ヤタローは、「パン」と「みかん」を一個ずつ選択し、インベントリーから取り出してみた。
そうして実体化した「パン」は、小ぶりなロールパンだが、まるで焼きたてのように温かく香ばしい、ふわふわの白パンだった。これは女性型AIパートナー「ラーガラ」の好物である
「みかん」は、これまた瑞々しく色鮮やかな温州みかん。皮がやわらかく、芳香が強い。少女型AIパートナー「バイラヴァ」の好物である。
こうしたプレゼント系アイテムは、NPC商人などから直接購入することはできない。生産職なら素材や種子から自前で揃え、「栽培」「練成」「合成」「調理」などを行うことで入手可能だが、ヤタローのような非生産職は、生産職系のプレイヤー個人、もしくはその所属クランと交渉して、ゲーム内通貨で買い付けることになる。
ようは高級ポーションと同じような扱いであり、ヤタローは過去、これらのプレゼント系アイテムを、あちこちの生産系クランから大量に押し売りされ、そのままポーチ内に所持していた。
……ついでに「LV2竹の水筒」を取り出す。これは常に新鮮な飲料水が満タンまで自動補給されるという、マジックアイテムの一種。
とあるストーリーイベントのキーアイテムとなっており、この水筒を自前の合成スキルで「生産」し、瀕死の病人に水を飲ませるというクエストになっていた。
クエスト終了後も、インベントリー内に「LV2竹の水筒」は残っており、プレイヤーが「使用」すると『ごくごく、ぷはー! おいしい!』という台詞が表示される。それ以外に、特に効果などはなく、本当にただそれだけのアイテムであった。
他プレイヤーとの取引は不可、自分で捨てたり分解することは可能。ただ、ヤタローは存在自体をすっかり忘れて、ポーチに放り込んだままだった。
まず試しに、水筒の栓を開け、中身をひとくち飲んでみると――。
本当にただの水だった。なぜかそこそこ冷えており、まずくはない。
続いて、「パン」をかじってみる。
小麦の香り高い、焼きたて、ふかふかの高級白パン。味も食感もいうことなし、栄養価も高そうである。健康的美女のラーガラが、いつもこれを欲しがるのも当然と思えるほどの見事な焼き上がり。
最後に「みかん」の皮を剥き、ひと房、口に放り込む。
糖度が高く、甘さと酸味の調和が完璧だった。芳香爽やかに鼻を抜け、あふれる果汁とともに、果肉がスッと蕩けるような、甘くやわらかな口あたり。
これなら普段は破滅的言動ばかりの中二病美少女バイラヴァがメロメロになるのも、大いにうなずける……。
この二品だけでも、そこそこに空腹は満たされた。
それだけでなく、わずかに感覚が冴え、奇妙な充実感がもたらされている。
システムログを参照してみると。
『ごくごく、ぷはー! おいしい!』
『精神力最大値が+2されました。残り時間00:59』
『パッシブスキル・移動速度上昇LV2が発動しました。残り時間00:59』
微々たる効果があったらしい。水以外は。
ゲーム内アイテムゆえ、効果はともかく、味のほうにはさほど期待していなかったが、想像以上にきちんとした食材だった。これならば当面、食料に困ることもなさそうである。
そうして食事を終え、ようやく落ち着いたところで、ヤタローは、あらためて周囲の景観を眺め渡した。
よく晴れた昼空の下、見渡す限りの草原に、幾筋か茶褐色の街道が伸びている。この駅亭をのぞいて、人工物の影だに見えない。ただ、はるか遠くに、緑のかたまりが、うっすらと陽炎のように霞んでいる。
地図上にある、バッフェンの森といわれる地域であろう。
草をかすめるように、ピンクや紫の燐光を発する小さな綿毛のかたまりのようなものが、ぽつぽつと、視界のあちこちに浮かんでいる。
風に吹かれるままに、右へ左へと漂い流れてゆく、精霊たちの姿だった。
(三百年経っても、精霊はいるんだな)
ヤタローは、しばし、その不思議な浮遊物に見入っていた。
ゲーム内の設定では、精霊とは、かつて創世の女神ルミエルが世界に放った「願い」を具現化する存在であり、世界そのものを構築する力をもつ、という。
あくまでゲームの設定にすぎない。
いま現実に見えているパステルカラーの綿毛たちが、そう大それた存在とも思えないが、ただ――この精霊たちが、自然に溶け込みつつ織りなす、優しい彩りこそ、ヤタローが好きだった「ルミエル」の原風景であることは間違いない。
この風景の中を、実際に旅して歩くことになるとは、つい昨日まで、想像もしていなかった。
(……行くか)
ヤタローは、インベントリーを閉じ、水筒をポーチに放り込んで、立ち上がった。
少しだけ――この徒歩の旅程を、のんびりと楽しんでみるのも、悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駅亭を離れ、街道へ出たヤタローが、バッフェンの森へ向かう馬車の隊列と遭遇したのは、日暮れ頃のことである。
馬車はすべて、荷車に鉄製の檻を乗せた――いわゆる檻車だった。
いずれの檻車にも、手枷首枷を嵌められた人々が、ぎっしりと詰め込まれている。
檻車を馬に引かせているのは、いかにも素行の悪そうな、荒くれ者の集団。
ひと目にそれとわかる、盗賊のたぐいである。
しばし観察した結果、檻車に囚われ押し込まれている人々が、昨夜リリザ村から逃れてきた住人たちであると判明したとき――。
ヤタローは、問答無用で馬車列へ攻撃を仕掛けていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一日一膳。(LV38ソーサラー)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます